斉の防衛と韓信の侵攻
- 橫が斉を定めて三年、漢王は酈生を遣わし斉王廣と相国橫を説いて漢に降らせようとし、橫はこれに従い歴下の守備を解いた。ところが漢将韓信は東進して斉を撃とうとしていた。斉は当初、華無傷・田解に歴下で漢に備えさせていたが、漢の使者が来ると守戦の備えを解き酒宴に浸り、漢との和平のみを進めていた。韓信は既に趙・燕を平定しており、蒯通の計を用いて平原を渡り歴下の斉軍を急襲し臨淄に入った。斉王廣・相橫は酈生に欺かれたと怒り酈生を煮殺した。齊王廣は東の高密へ、相橫は博陽へ逃れ、守相田光は城陽に、将軍田既は膠東に軍を布いた。楚は龍且を送って斉を救わせ、斉王は高密で合軍した。漢将韓信は曹参と共に龍且を破り殺し斉王廣を虜とした。漢将灌嬰は追撃して斉の守相田光を得た(博陽で)。橫は斉王の死を聞くと自ら斉王に立ち、灌嬰の軍を撃ち返そうとしたが嬰は嬴の下で橫の軍を破った。田橫は梁に逃れ彭越を頼った。彭越はこの時、梁の地にあって漢と楚のどちらにも与せず中立を保っていた。韓信は龍且を殺した後、曹参に膠東の田既を破り殺させ、灌嬰に千乗の田吸を破り殺させた。韓信はついに斉を平定し自ら斉の仮王となることを求め、漢はこれを許して立てた。
島への逃避と自刎
- 歳余りして漢が項籍を滅ぼし漢王が皇帝となり彭越を梁王とした。田橫は誅殺を恐れその徒属五百余人と共に海に入り島に住んだ。高帝はこれを聞き、田橫兄弟がもと斉を平定し斉の賢者の多くが彼に付いていることから、海中に放置すれば後に乱を起こすと考え、使者を送って田橫の罪を赦し召そうとした。田橫は「私は陛下の使者であった酈生を煮殺しました。今その弟酈商が漢の将として賢いと聞いており、恐れて詔を奉じられません、庶人として海島を守らせてください」と辞退した。使者が戻り報告すると、高皇帝は衛尉酈商に「斉王田橫が至る時、その従者に手を出す者は一族皆殺しにする」と詔し、さらに使者を持節で送って商への詔の内容を橫に知らせ「田橫が来れば大きくは王、小さくとも侯とするが、来なければ兵を挙げて討つ」と伝えた。田橫はついに二人の客と共に馬車で雒陽へ向かった。
- 洛陽まで三十里に至らぬ尸鄉の廄置で、橫は使者に「臣として天子に見えるには洗沐すべき」と述べて留まり、客に語った。「私はかつて漢王と共に南面して孤を称した。今、漢王は天子となったが私は亡虜として北面し彼に仕えねばならぬ、その恥は既に甚だしい。しかも私は人の兄を煮殺しながらその弟と肩を並べて同じ主に仕えることになる。たとえ相手が天子の詔を畏れて私に手出ししなくとも、私自身の心が耐えられようか。陛下が私に会いたいのはただ私の顔を一目見たいだけだろう。今、洛陽までの三十里の間に私の首を斬らせれば容貌はまだ崩れず、なお見るに堪えるはずだ」。そう言って自ら首を刎ね、客にその首を持たせ使者に従わせて高帝のもとへ届けさせた。高帝は「ああ、道理あることだ。布衣より起こって兄弟三人が代わる代わる王となったとは、何と賢いことか」と述べて涙を流し、二人の客を都尉に任じ卒二千人を発して王者の礼をもって田橫を葬った。
客たちの殉死
- 葬儀の後、二人の客は墓の傍らに穴を掘り自ら首を刎ねて田橫に殉じた。高帝はこれを聞いて大いに驚き、田橫の客は皆賢者だと考えた。海中に残る五百余人のことを聞き使者を送って召したが、至ると田橫の死を知り、彼らも皆自殺した。これにより田橫兄弟がいかに士心を得ていたかが知れ渡った。
史論
- 太史公は言う。蒯通の謀は甚だしいものであった。斉を乱し淮陰(韓信)を驕らせ、ついにこの二人を滅ぼす結果を招いた。蒯通は長短の弁説に長け、戦国の権変を論じて八十一篇を著した。通は斉人の安期生と親しく、安期生はかつて項羽に説いたが項羽はその策を用いなかった。後に項羽がこの二人を封じようとしたが、二人とも受けず逃げ去った。田橫の高節、賓客が義を慕って共に死んだことは至賢と言うべきではないか。私はこれを取り上げて列伝とした。世に善き画工がいながらこれを描き得る者がいないのは、なぜであろうか。