史記卷八十四 屈原賈生列傳第二十四 賈生

雒陽の人(?–前168年頃、33歳で没)。若くして文帝に見出され太中大夫に抜擢された学者・文章家。制度改革を建議したが讒言により長沙王太傅に左遷され、屈原を弔う賦や『鵩鳥賦』を著した。のち梁の懐王太傅となるが、懐王の死を悲しみ早世した。

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賈誼の出自と抜擢

  • 賈誼、名は誼。雒陽の人。十八歳で詩書を誦じ文を作る才で郡中に知られた。河南守の呉廷尉に見出され門下に置かれ寵愛された。孝文帝の即位当初、呉公の治績が天下一と聞き廷尉に召し、廷尉が賈誼の若さと諸子百家に通じる才を推薦し、文帝は博士とした。
  • 賈誼は当時二十歳余りで最年少だったが、詔令の議論で老臣たちが言葉に詰まる中、賈誼だけが皆の意図に応じて答え、諸生も敬服した。文帝はこれを喜び一年のうちに太中大夫にまで抜擢した。

制度改革論と讒言による左遷

  • 賈誼は漢が興って文帝の代まで二十余年、天下は治まっているのだから正朔を改め服色を変え制度を定め官名を改め礼楽を興すべきだと考え、儀法を起草した(色は黄、数は五を尊び、秦の法を全て改める案)。しかし文帝は即位したばかりで謙譲し実施をためらった。それでも律令の改定や列侯の就国はすべて賈誼の献策から始まった。
  • 天子は賈誼を公卿の位に就けようとしたが、絳侯周勃・灌嬰・東陽侯・馮敬らがこれを妬み「雒陽の若造が権力を専らにし諸事を紛乱させている」と誹謗し、文帝も後には賈誼を疎んじ議を用いず、長沙王の太傅に左遷した。

長沙左遷と『弔屈原賦』

  • 賈誼は長沙が卑湿の地であることを聞き、自らの寿命が長くないだろうと悲観し不満のまま赴任した。湘水を渡る際、屈原を弔う賦を作った。要旨は次のとおりである。恩恵を受けながら長沙で罪を待つ身、屈原が汨羅に身を投げたことを思い、世の乱れの中で命を落とした先生を弔う。鸞鳳は身を潜め鴟梟が舞い、讒諛の者が尊ばれ賢聖が逆さに扱われる世を嘆き、伯夷を貪欲、盗跖を廉潔と呼ぶような価値の転倒、莫邪の剣が鈍とされ鉛刀が鋭いとされる世を憂え、周の宝鼎が捨てられ疲れた牛や驢馬が乗り回される様、駿馬が塩車を引く様に例え、自らも同じ境遇にあることを嘆いた。訊(結び)では、鳳凰が高く飛び去り神竜が淵に潜むように聖人は濁世を避けて身を隠すもの、騏驥さえ繋がれれば犬羊と変わらぬと述べ、この禍は先生自身の運命だとしても、九州を巡り君を選べたはずなのになぜこの地に留まったのかと問いかけた。

『鵩鳥賦』

  • 賈誼が長沙王太傅となって三年、鵩(ふくろう)が舎に飛び込み座席の隅に止まった。楚人はこの鳥を「服」と呼ぶ。賈誼は左遷の身で長沙の卑湿の地にあり寿命が短いだろうと悲しみ、賦を作って自らを慰めた。
  • 要旨は次のとおりである。単閼の年、四月初夏、庚子の日に鵩が舎に入り座隅に止まった。占ってみると「野鳥が入るのは主人が去る兆し」と出た。鵩に己の行く末を問うと、鵩は言葉なく首を挙げ翼を動かすのみで、意をもって答えた――万物は流転してやまず、禍福は糾える縄のごとく、呉が強大でも夫差は敗れ、越が会稽に棲んでも句践は覇者となった。李斯は成功しながら五刑に遭い、傅説は刑徒から武丁の宰相となった。天地は炉、造化は工、陰陽は炭、万物は銅のようなもので、変化は窮まりない。人となったことも異物となることも驚くに足りない。小知は私を貴び、通人は物を分け隔てない。至人は物にとらわれず道と共にあり、真人は淡々として道と共に息づく。生は浮かぶが如く死は休むが如し、命に逆らわず自然に身を委ねれば憂いはない、と結ばれる。

晩年と死

  • 一年余り後、賈誼は文帝に召され、宣室で鬼神について問われ、深夜まで語り合い文帝は膝を進めて聞き入り「久しく賈誼に会わぬうちは自分が勝ると思っていたが、今は及ばない」と述べた。その後、文帝の末子で読書を好む梁の懐王の太傅に任じられた。
  • 文帝が淮南厲王の子四人を列侯に封じた際、賈誼はこれを諫め、諸侯が数郡にまたがって連なるのは古の制度に反するので削るべきだと度々上疏したが文帝は聞き入れなかった。
  • 数年後、懐王が落馬して死に後継がなかった。賈誼は太傅としての不徳を悲しみ一年余り哭泣し、自らも三十三歳で死んだ。文帝の崩後、孝武帝が即位すると賈誼の孫二人を郡守に取り立て、うち賈嘉は学を好み家を継ぎ太史公と文通した。孝昭帝の代には九卿に列した。

史論

  • 太史公曰く、『離騒』『天問』『招魂』『哀郢』を読んでその志を悲しんだ。長沙に行き屈原が身を投げた淵を見て涙を流さずにいられず、その人柄を偲んだ。賈誼が屈原を弔う文を見て、屈原ほどの才があればどの国でも受け入れられたはずなのに、なぜ自らこのようになったのかと訝った。『鵩鳥賦』を読み、生死を同一視し進退を軽んじる境地に、また改めて呆然とした。