匈奴撃退
- 李牧は趙の北辺の良将。代・鴈門に常駐し匈奴に備え、便宜に応じて官吏を任じ、市の租税をすべて幕府の軍費に充て、士卒を厚遇し烽火・間諜を整えたが、匈奴が来襲すれば守りに徹して戦わなかった。数年間損害はなかったが匈奴からも自国の兵士からも臆病者と見なされ、趙王に譴責されても態度を変えなかったため召還され他の将に代えられた。
- しかし後任の将では出戦のたびに損害が多く、辺境の田畜もままならなくなった。趙王は再び李牧を求めたが李牧は病と称して固辞し、「以前と同じやり方を許すなら」との条件で赴任を承諾した。
- 李牧は以前の方策を続けたため匈奴は依然臆病者と侮り、辺の兵士は賞賜を受けながら実戦のないことを不満に思っていた。李牧は戦車1300台、騎馬13000騎、精鋭5万人、弓手10万人を選び訓練し、家畜を野に放って匈奴を誘い出し、小規模な侵入に対しては数千人をわざと敗走させて油断させ、単于が大軍で侵入したところを奇陣で挟撃、匈奴騎兵10余万を撃滅、䄡を滅ぼし東胡を破り林胡を降した。以後十余年、匈奴は趙の辺境に近づかなかった。
秦への抵抗と誅殺
- 趙悼襄王元年、廉頗が魏に亡命した後、李牧は燕を攻めて武遂・方城を抜いた。2年後、龐煖が燕軍を破り劇辛を殺した。7年後、秦が趙将・扈輒を武遂で破り十万を斬首すると、趙は李牧を大将軍とし秦軍を宜安で大破、秦将・桓齮を敗走させ、李牧は武安君に封じられた。3年後、秦が番吾を攻めると李牧はこれを破り、南は韓魏を防いだ。
- 趙王遷7年、秦は王翦に趙を攻めさせ、趙は李牧・司馬尚に迎撃させたが、秦は趙王の寵臣・郭開に賄賂を贈り李牧・司馬尚が反逆を企てているとの反間の計を仕掛けた。趙王は趙葱と斉将・顔聚に李牧を代えさせようとしたが、李牧が命に従わなかったため密かに捕らえて斬り、司馬尚も廃した。3か月後、王翦は急襲して趙葱を破り殺し、趙王遷と将・顔聚を捕虜とし、趙を滅ぼした。
史論
- 太史公は「死を知って勇む者は多いが、死ぬこと自体が難しいのではなく、死をどう処すかが難しい」と述べる。藺相如が璧を引いて柱を睨み秦王の左右を叱った時、誅殺される危険は決して大きくなかったにもかかわらず、士の多くは怯懦でこれを敢えて行わない。藺相如は一度気概を奮い起こして敵国にまで威信を及ぼし、退いては廉頗に譲った。その名声は泰山より重く、智と勇を兼ね備えていたと評すべきである。