失脚と趙への亡命
- 燕昭王が死に恵王が立つと、恵王は太子時代から楽毅に不快感を抱いていた。斉の田単はこれを見て反間を放ち、「楽毅は新王と不和で、斉に留まって王になろうとしている」と流言した。恵王はこれを信じ、騎劫を代将として楽毅を召還した。楽毅は恵王の不善を悟り誅殺を恐れ、西へ趙に降った。趙は楽毅を観津に封じ望諸君と号し、燕・斉を牽制する存在として尊寵した。
- 田単は騎劫を破って即墨の囲みを解き、燕軍を河上まで追撃して斉の全城を回復、莒にいた襄王を臨菑に迎え入れた。
- 恵王は騎劫を用いたことを後悔し、楽毅の趙亡命も恨んで趙が楽毅を使い燕を攻めることを恐れ、楽毅を責めつつ弁明する書を送った。
燕王への上書
- 楽毅は返書で、先王(昭王)への忠義と、恵王への疑いに晒された経緯を述べた。要旨は次の通り。魏から燕に来た自分を先王は破格に用い、亜卿とした。先王は斉討伐の志を語り、楽毅は趙との連携を献策、先王はこれを容れて出兵し済上で斉を大破、財宝は寧台・元英・磨室に、薊丘の植物を汶篁に植えるなど五伯以来の功を挙げ、先王は楽毅に領地を裂いて与えた。
- 賢聖の君は功を立てた者を廃せず、先見の士は名を汚さないもの。先王の報復雪辱の業は『春秋』に著されるべきものであり、事を継ぐ臣もこれを教訓とすべきである。
- 善く始める者が必ずしも善く終えられないのは世の常。伍子胥は闔閭には用いられたが夫差には用いられず鴟夷に沈められた。免れて功を立て先王の遺志を明らかにするのが自分の上策であり、誹謗中傷を受け先王の名を汚すことこそ最も恐れるところ。不測の罪を避けて利を図ることは義に反する。
- 古の君子は交わりを絶っても悪口を言わず、忠臣は国を去っても自らの名を潔しとする。恐れるのは、側近の言のみを聞いて疎遠な者の行いを見誤ることであると結んだ。
- これを受け、燕王は楽毅の子・楽間を昌国君とし、楽毅とも燕との往来を再開、楽毅は燕・趙双方の客卿となった。楽毅は趙で没した。
樂閒・樂乘――後裔
- 楽間は燕に30年余り仕え、燕王喜が相・栗腹の策を用いて趙を攻めようとした際、「趙は四戦の国で民は兵に慣れており攻めるべきでない」と諫めたが聞かれず、燕は趙を攻めて大敗し、廉頗に栗腹・楽乗(楽間の一族)が捕らえられた。楽間は趙に奔り、趙は燕を包囲、燕は割地を条件に和を結んだ。
- 燕王は楽間を用いなかったことを悔い、書を送って紂王の時代の箕子・商容の例(諫言が用いられずとも忠聖の名を保った)を引いて翻意を促したが、楽間・楽乗は燕を恨んで結局趙に留まり、楽乗は趙で武襄君に封じられた。
- 翌年、楽乗・廉頗は趙のために燕を包囲、燕は厚く礼を尽くして和を求めた。5年後、趙孝成王が卒し、襄王は楽乗を廉頗に代えて用いたが、廉頗はこれに怒って楽乗を攻め、楽乗は逃走、廉頗も魏に亡命した。その後16年で秦は趙を滅ぼした。
- さらに20年余り後、高帝(劉邦)が趙を通った際「楽毅の後裔はいるか」と尋ね、楽叔なる者が答え、高帝は楽卿に封じ華成君と号した。華成君は楽毅の孫である。楽氏の一族には楽瑕公・楽臣公がおり、趙が秦に滅ぼされる際に斉の高密に逃れた。楽臣公は黄帝・老子の学に通じ、斉で名高い賢師として称えられた。
史論
- 太史公は、斉の蒯通や主父偃が楽毅の燕王への返書を読み、書を伏せて泣かなかった者はいないと述べる。楽臣公が学んだ黄帝・老子の学は、河上丈人を祖とし、河上丈人が安期生に、安期生が毛翕公に、毛翕公が楽瑕公に、楽瑕公が楽臣公に、楽臣公が蓋公に伝え、蓋公は斉の高密・膠西で教え、曹参(曹相国)の師となった。