史記卷七十七 列傳第十七 魏無忌(信陵君)

魏の安釐王の異母弟。兵符を盗ませ晋鄙を討たせて邯鄲を秦の包囲から救った「竊符救趙」で知られる。のち讒言により魏王に疎まれ、酒色に耽って病死した。

年表(6件)
  • 魏安釐王
  • 20年姉の求めに応え如姫に兵符を盗ませ、朱亥に晋鄙を討たせて兵を奪い、秦軍を破って邯鄲を救う
  • 邯鄲救援後魏王の怒りを恐れ趙に留まり、10年間帰国しなかった
  • 毛公・薛公の説得を受け直ちに魏へ帰国し、上将軍として五国連合軍を率い秦を函谷関まで破った
  • 秦の讒言により魏王に疑われ病と称して酒色に耽り、4年で病死した
  • 信陵君の死後18年魏王が虜となり大梁は屠られた
  • 高祖
  • 十二年黥布討伐の帰途、信陵君のため守冢五家を置いた

出自と生い立ち

  • 魏無忌は魏の昭王の末子で、安釐王の異母弟。昭王の死後、安釐王が即位すると、無忌は信陵君に封じられた。
  • 当時、范睢が魏を出奔して秦の相となり、かつて魏の相・魏斉に受けた恨みから秦兵で大梁を包囲し、魏の華陽の守備を破って将の芒卯を敗走させた。魏王と信陵君はこれを憂えた。
  • 信陵君は人柄がよく、身分の低い士にも謙虚に礼を尽くし、富貴を誇らなかったため、数千里の彼方から士が集まり、食客は三千人に及んだ。諸侯はその賢と食客の多さを恐れ、十余年魏に兵を向けなかった。
  • あるとき魏王と博打をしていた際、趙の侵入を告げる烽火が上がったが、信陵君は「趙王の狩猟に過ぎない」と王を止めた。実際、趙王の狩猟の情報を、信陵君は趙王の側近に食い込んだ客からいち早く得ていたのだった。魏王はこの能力を恐れ、以後国政を信陵君に任せなくなった。

侯嬴・朱亥との交わり

  • 大梁の夷門の門番、隠士の侯嬴(70歳)を信陵君は厚遇しようとしたが固辞された。信陵君は酒宴を開き、自ら車で侯生を迎えに行き、上座に据えた。侯生はわざと市場の屠者・朱亥のもとに立ち寄らせ、長々と立ち話をして信陵君の様子を試したが、信陵君の態度は終始恭しく変わらなかった。侯生はこれに感服し、上客となった。
  • 侯生は朱亥を賢者として推薦したが、朱亥は何度誘っても謝礼に応じなかった。

邯鄲救援(竊符救趙)

  • 魏安釐王20年、秦の昭王が趙の長平軍を破り、さらに邯鄲を包囲した。信陵君の姉は趙の平原君夫人で、たびたび救援を求める書状を送った。魏王は将軍・晋鄙に十万の兵で趙を救わせたが、秦の脅しに恐れて鄴に留め、実際には両にらみの姿勢を取った。
  • 平原君の使者から責められた信陵君は、賓客・弁士を尽くして魏王を説いたが聞き入れられず、自ら百余台の車馬を集めて秦軍に赴き趙と共に死のうとした。
  • 途中、夷門の侯生に会って決意を告げると、侯生は素っ気なく送り出したが、信陵君が不快に思い引き返すと、侯生は「戻ることは分かっていた」と笑い、策を授けた。晋鄙の兵符は常に王の寝所にあり、王の寵姫・如姫が出入り自在である。如姫は父の仇を信陵君に討ってもらった恩があり、頼めば必ず盗み出すだろうという。信陵君がこれに従うと、如姫は果たして兵符を盗み出した。
  • 侯生はさらに、晋鄙が兵符を受け取っても兵を渡さぬ場合に備え、力士の朱亥を同行させるよう勧めた。信陵君が晋鄙を殺すことになるかもしれぬと涙すると、侯生は「公子出発の日を数え、鄴軍到着の日に北を向いて自刎し、公子を見送る」と告げた。
  • 鄴に至り、王命を偽って晋鄙に代わろうとしたところ、晋鄙は疑って従わなかったため、朱亥が袖に隠した四十斤の鉄槌で晋鄙を撃ち殺し、信陵君が兵を率いた。信陵君は「父子ともに軍にある者は父を帰し、兄弟ともにある者は兄を帰し、独子は帰養させよ」と令して選抜した八万の兵で秦軍を攻め、秦軍は退却して邯鄲は救われた。約束通り、侯生は北を向いて自刎した。
  • 趙王・平原君は自ら国境まで信陵君を出迎え、「古来この公子に及ぶ賢人はいない」と称えた。

趙滞在と毛公・薛公

  • 魏王は兵符窃取と晋鄙殺害を怒り、信陵君自身もそれを知っていたため、軍を将に返して魏へ送り、自身は客とともに趙に留まった。
  • 趙の孝成王が五城を封じようとすると、信陵君は驕った様子を見せたが、客の諫言(人に施した恩は忘れるべし、魏には不忠の行いであった)を聞いて自省し、辞退した。趙王は鄗を湯沐邑として与え、魏も信陵の封を戻したが、信陵君は趙に留まった。
  • 信陵君は博徒の毛公、酒売りの薛公という隠れた賢者と親しく交わった。平原君がこれを軽んじると、信陵君は「平原君の士を招くのは豪奢な見栄に過ぎず、真に士を求めてはいない」と去ろうとし、平原君は謝罪して引き留めた。この一件で平原君の食客の半数が信陵君の下に移った。

魏への帰還と讒言

  • 信陵君は十年趙に留まった。秦は信陵君不在の魏を昼夜攻め、魏王は使者を送ったが、信陵君は魏王の使者を通じさせる者は死罪とし、帰国を拒んだ。しかし毛公・薛公から「魏があってこそ趙で重んじられる」と説かれ、直ちに帰国を決意した。
  • 魏王は信陵君に上将軍の印を授け、信陵君は諸侯に檄を飛ばして五国連合軍を率い、秦軍を河外で破って将の蒙驁を敗走させ、函谷関まで追撃した。威名は天下に轟き、諸侯の兵法家が献じた兵法をまとめて『魏公子兵法』と称された。
  • 秦は万斤の金を魏にばらまき、晋鄙の旧臣を使って「信陵君は諸侯将を従え、諸侯は魏公子の名しか聞かず魏王の名を聞かない、いずれ王位を狙う」と讒言させた。魏王はこれを信じ、代わりの将を送った。信陵君は病と称して朝せず、賓客と昼夜酒色に耽り、四年で病死した。同年、魏の安釐王も薨じた。
  • 秦は信陵君の死を聞き、蒙驁に魏を攻めさせて二十城を落とし、東郡を置いた。その後十八年で魏王は虜となり、大梁は屠られた。

晩年

  • 高祖劉邦は若い頃から信陵君の賢を聞き、天子となってからも大梁を通るたびに祠を祀った。高祖十二年、黥布討伐の帰途、信陵君のために守冢五家を置き、代々四時の祭祀を絶やさなかった。

史論

  • 太史公は大梁の廃墟を訪れ、夷門の場所を尋ねた。天下の公子で士を好む者は他にもいたが、信陵君は隠者にまで謙虚に交わり卑しまなかった点で他に抜きん出ており、その名声は根拠のあるものだった。高祖が過るたびに民に祭祀を絶やさせなかったのも、そのためである。