騶衍
- 孟子より後の時代の人物。諸侯が淫侈に流れ徳を尚ばなくなったのを見て、陰陽消息を深く観察し「終始」「大聖」など十余万言の書を著した。その説は壮大で常識を超え、まず小さな事象を検証してから大きく推し広げ、果ては無限にまで及ぶものだった。
- 現在から遡って黄帝に至るまでの盛衰の跡と禨祥・度制を載せ、さらに天地未生の窈冥にまで及んだ。中国の名山大川・谷・禽獣・物産を挙げ、海外にまで推し及ぼす。天地開闢以来の五徳転移と治世の応報を説き、儒者のいう中国(赤県神州)は天下の八十一分の一に過ぎず、赤県神州の中に禹の定めた九州があり、その外に同様の州が九つ、さらにその外を大瀛海が囲むという壮大な地理説を唱えた。要は仁義節倹・君臣上下六親の道に帰着するが、説き起こしは奇矯であった。王公は初めこれに感化されるも、後には実行できなかった。
- 斉で重んじられ、梁では惠王が郊外まで出迎え賓主の礼を尽くし、趙では平原君が側に付き従い、燕では昭王が箒を執って先導し弟子の礼をとり、碣石宮を築いて自ら師事した。孔子が陳蔡で困窮し孟軻が斉・梁で行き詰まったのとは対照的な厚遇であった。
- 武王が仁義で紂を討ち王となったが伯夷は周の粟を食まなかった例、衛霊公が陣法を問うたが孔子は答えなかった例、梁惠王が趙を攻めようとしたが孟軻が大王(古公亶父)の去邠の故事を説いた例を挙げ、これらは世俗に阿るものではないとし、伊尹が鼎を負い湯に近づいた例・百里奚が牛飼いから繆公に用いられ覇を助けた例を引いて、まず時流に合わせてから大道に導くやり方があると述べ、騶衍の説にもそうした牛鼎の意図があったのではないかとする。
稷下の学者たち(淳于髡・慎到・環淵・接子・田駢・騶奭)
- 騶衍以後、斉の稷下の淳于髡・慎到・環淵・接子・田駢・騶奭らが各々治乱を論じた書を著し諸侯の主に説いた。