史記卷七十三 白起王翦列傳第十三 王翦
頻陽東郷の人、秦始皇に仕えた名将。趙・燕・楚を平定し天下統一に大功を立てたが、根本を正す諫言をせず時流に迎合したため、孫の王離は項羽に敗れ虜となった。
年表(8件)
- 始皇十一年趙の閼與を攻め九城を抜く
- 始皇十八年趙を抜き、趙王が降る
- その翌年燕を攻め薊を平定、子の王賁が魏を破り魏王を降す
- 李信の二十万軍が荊軍に大敗した後始皇自ら頻陽で謝罪し王翦を再起用、六十万を率い出陣する
- 出陣後堅く守り戦わず、退く荊軍を追撃して項燕を討ち荊軍を破った
- 歳余り後荊王負芻を虜にし荊の地を郡県とした
- 秦始皇二十六年天下統一、王氏・蒙氏の功が最も多いと評された
- 秦二世の時、陳勝の反秦の際孫の王離が趙を攻め鉅鹿を囲むも項羽に敗れ虜となった
秦始皇に仕えた初期の戦歴
- 王翦は頻陽東郷の人。若くして兵を好み秦始皇に仕えた。始皇十一年、趙の閼與を攻めて破り九城を抜いた。十八年、趙を攻め歳余りで趙を抜き、趙王は降り趙の地は郡とされた。
- 翌年、燕が荊軻を秦への刺客に送った事件を機に秦王は王翦に燕を攻めさせ、燕王喜は遼東へ逃走、王翦は燕の薊を平定して帰還した。王翦の子王賁は荊(楚)を攻め破り、さらに魏を攻めて魏王は降り、魏地を平定した。
李信の失敗と六十万の大軍
- 秦始皇は三晋を滅ぼし燕王を敗走させ、荊軍をしばしば破っていた。秦将李信は若く勇壮で、かつて数千の兵で燕太子丹を衍水まで追い捕らえ、始皇に賢勇と評された。
- 始皇が荊を攻める兵数を問うと、李信は「二十万で足りる」、王翦は「六十万でなければならない」と答えた。始皇は「王将軍は老いて臆病になった、李将軍の言は勢いがあり正しい」として李信・蒙恬に二十万を率いさせ南征させた。王翦は用いられず、病と称して頻陽に隠退した。
- 李信は平與を攻め、蒙恬は寢を攻め荊軍を大破。李信はさらに鄢郢を破り西へ進み蒙恬と城父で合流したが、荊軍が三日三夜追撃を続けて李信軍を大破し、二つの塁を落とし七都尉を殺した。秦軍は敗走した。
- 始皇は大いに怒り自ら頻陽へ赴いて王翦に謝り再起用を求めた。王翦は改めて「六十万でなければ不可」と述べ、始皇はこれを容れた。王翦は六十万を率い、始皇自ら灞上まで見送った。
- 出発に際し王翦は美田・宅・園池を多く求め、始皇に「将軍が行くのに何を貧しさを憂うるか」と問われると、「大王に仕え功があっても封侯を得られぬ例が多い。それゆえ寵愛のあるうちに子孫のための産を求めるのだ」と答え、始皇は大笑した。関に至ってからも再三使者を送って良田を求め、ある者に「あまりに度が過ぎる」と言われると、「秦王は人を疑い深く信じない性分である。今、秦の全甲兵を私一人に委ねている以上、子孫のため多くの田宅を求め自ら忠実さを示さねば、秦王にかえって疑われるだけだ」と答えた。
荊(楚)の平定
- 王翦は李信に代わって荊を攻めた。荊は王翦の増兵を聞き国中の兵を挙げて拒んだが、王翦は堅く守り戦わず、荊がしばしば挑戦しても出なかった。日々兵を休ませ手厚く飲食させ士卒と共食した。
- しばらくして王翦が軍中の遊びの様子を尋ねると「投石・跳躍競技をしている」と聞き、「これで士卒は使える」と判断した。荊がなお挑戦するも秦が出ないため兵を引いて東へ向かったところ、王翦は追撃を命じ大破、蘄南に至って荊将項燕を殺し荊軍は敗走した。
- 秦は勝ちに乗じて荊の地の城邑を平定し、歳余りで荊王負芻を虜にし荊の地を郡県とした。さらに南は百越の君長を征した。王翦の子王賁は李信と共に燕・斉の地を破り平定した。
- 秦始皇二十六年、天下を統一。王氏・蒙氏の功が最も多く、その名は後世に伝えられた。
王氏三代の末路
- 秦二世の時、王翦とその子王賁は既に没しており、蒙氏も滅ぼされていた。陳勝の反秦に際し、秦は王翦の孫王離に趙を攻めさせ、趙王・張耳を鉅鹿城に包囲した。
- ある者は「王離は秦の名将であり、強秦の兵を率い新興の趙を攻めれば必ず落とせる」と言ったが、客は「三代続けて将となった者は必ず敗れる。多くの殺伐を行った報いが後代に及ぶからだ。王離は既に三代目の将である」と反論した。ほどなく項羽が趙を救援して秦軍を撃ち、案の定王離は虜となり、その軍は諸侯に降った。
史論
- 太史公曰く、諺に「尺にも短所あり、寸にも長所あり」という。白起は敵情を測り機に応じて奇策を尽くし天下に武名を轟かせたが、応侯からの災いを免れることはできなかった。王翦は秦の将として六国を平らげ、始皇に師と仰がれるほどの宿将でありながら、秦を輔けて徳を建て根本を固めることができず、時流に迎合して身の安泰のみを図った末、孫の王離が項羽に虜とされるに至った。それも当然のことであろう、それぞれに短所があったのだ。