張儀との暗闘
- 犀首は魏の陰晋の人、名は衍、姓は公孫氏。張儀とは不仲であった。張儀が秦のために魏へ赴き魏王の宰相となった際、犀首はこれを不利とみて、韓の公叔に「張儀は既に秦魏を結びつけ、魏に南陽を、秦に三川を攻めさせようとしている、魏王が張儀を重んじるのは韓の地を得たいからだ、韓の南陽を少し委ねて私(衍)の功にすれば秦魏の連携を崩せる」と説き、公叔がこれを容れて犀首を推した結果、犀首が魏の宰相となり張儀は魏を去った。
- 義渠の君が魏に朝見した際、犀首は張儀の秦への復帰を知り、義渠君に「中原に事なければ秦は義渠の国を焼き払うが、事あれば秦は使者を軽くし贈物を厚くして機嫌を取るだろう」と説いた。その後五国が秦を攻めた際、陳軫の進言で秦は義渠君に錦繍千純・美女百人を贈ったが、義渠君は「これは公孫衍の言った通りだ」と兵を挙げて秦を襲い、李伯の地で秦軍を大破した。
- 張儀の死後、犀首は秦の宰相となり、かつて五国の相印を帯びて合従の長となったこともあった。
史論
- 太史公は言う。三晋(韓・魏・趙)には権謀に長けた士が多く、合従・連衡を説いて秦を強めたのも大抵は三晋の人である。張儀の行いは蘇秦以上に激しかったが、世が蘇秦をより悪く言うのは蘇秦が先に死んだためであり、張儀はその弱点を暴いて自らの連衡策を正当化したからである。要するにこの二人こそ天下を傾け危うくする策士であった。