張儀との確執と智謀
- 陳軫は遊説の士で、張儀と共に秦の恵王に仕え、寵を争った。張儀は秦王に「陳軫は秦楚間を往来して私腹を肥やし、楚を利して秦を薄くしている、楚が秦以上に陳軫を厚遇するのはそのためだ、秦を去って楚へ行きたがっている、いっそ許してはどうか」と讒言した。
- 王が真偽を問うと陳軫は「その通りだ」と認めたうえで、「子胥は主君に忠であったからこそ諸国が争って臣に迎えようとし、曾参は親に孝であったからこそ天下が我が子にと願った、良い召使いや妻は評判が広まる、私が不忠であれば楚もまた私を信用しない、忠でありながら見捨てられるなら、楚に行かずしてどこへ行けようか」と弁明し、王は納得して以後厚遇した。
- 1年後、恵王は結局張儀を宰相に据え、陳軫は楚へ出奔した。楚でまだ重用されないうちに秦への使者を命じられ、魏を通る際に犀首(公孫衍)と面会した。陳軫は犀首が「無事だから飲んでいる」と言うのに対し「あなたを忙しくさせて差し上げよう」と持ちかけ、燕・趙の使者と会う体裁を整えさせ、車30乗を並べて示すよう助言した。燕・趙はこれを聞いて犀首を招き、楚王はこれを田需との約束違反と怒って犀首を退けたが、斉が犀首を重用し、結局燕・斉・趙3国の外交を犀首が仕切ることとなった。陳軫はその後秦へ至った。
- 韓・魏が1年余り戦い続け、秦の恵王は救援すべきか判断がつかなかった。陳軫は越人荘舄の故事(楚で富貴を得ても病めば故郷の越の言葉が出る話)を語り自らの秦への忠誠を示したうえで、卞荘子が2頭の虎が牛を争って傷つき合うのを待って一挙に仕留めた故事を引き、「韓・魏も争えば大国が傷つき小国が滅ぶ、その隙を突けば一挙両得だ」と進言した。恵王はこれに従い、大国は傷つき小国は滅び、秦は大いに勝利を収めた。