史記卷七十 張儀列傳第十 張儀
魏の人。かつて蘇秦とともに鬼谷先生に学び、蘇秦の策により秦へ入って秦相となった縦横家。連衡策により楚・韓・斉・趙・燕を説いて秦への服属へ導き、秦の勢力拡大に貢献した。恵王の死後、武王に疎まれて魏へ逃れ、その地で没した。
年表(8件)
- 秦の恵王
- 10年公子華と共に蒲陽を包囲して降し、魏から上郡・少梁を秦へ得る
- 秦相となって4年目秦の恵王が王を称するのを実現させる
- その翌年秦将として陝を取り上郡塞を築く
- その2年後斉・楚の宰相と齧桑で会見し、帰国後に宰相を退いて魏で秦のために働く
- 韓・斉・趙・燕を歴訪し秦への服属を説いた末秦の恵王は5邑を与え武信君と号した
- 帰国の途上秦の恵王が没し武王が即位、張儀を嫌う武王のもと諸侯が秦に背き合従に戻る
- 秦の武王
- 元年誅殺を恐れ韓討伐の策を献じ、魏へ送られる
- 魏の宰相となって1年後魏で没した
出自と鬼谷での学び
- 張儀は魏の人。かつて蘇秦とともに鬼谷先生に師事し、蘇秦は自分が張儀に及ばないと考えていた。
- 学業を終えて遊説していたある時、楚の宰相との酒席で璧が紛失し、貧しく素行に難ありとされた張儀が疑われ、鞭打たれても認めなかったため釈放された。妻に「読書や遊説などしなければこんな辱めは受けなかった」となじられると、張儀は「私の舌はまだあるか」と尋ね、「ある」と答えられると「それで十分だ」と答えた。
蘇秦の策で秦へ
- 蘇秦は趙王の合従を成し遂げたものの、秦の攻撃で約が破れることを恐れ、秦で用いられる人物を探していた。密かに人を送って張儀に「昔からの友の蘇秦が今や秦の道を左右する立場にいる、訪ねてみてはどうか」と勧めさせた。張儀は趙へ蘇秦を訪ねたが、蘇秦はわざと数日会わず、会っても堂下に座らせ召使い並みの食事しか与えず、「お前ほどの才があってこの体たらくとは、私は言えばお前を富貴にできるが、そこまでの価値もない」と叱って追い返した。張儀は旧知として厚遇を期待していただけに怒り、趙以外で秦だけが趙を苦しめられると考え、秦へ入った。
- 蘇秦は密かに舎人に「張儀は天下の賢士で私も及ばない、しかし貧しく秦へ進む糸口がない、小利に甘んじて志を遂げないことを恐れて私はあえて辱めて発奮させたのだ、お前が陰で援助せよ」と命じた。舎人は張儀に付き従い、車馬・金銭を与えて秦の恵王に謁見させ、張儀は客卿となって諸侯征伐の謀議に加わった。
- 舎人が別れを告げようとすると、張儀は「お前のおかげで出世できた、これから恩に報いようというのに何故去るのか」と問うた。舎人は「私が知っていたのはあなたではなく蘇君だ、蘇君は秦の趙攻めで合従が破れるのを恐れ、あなたしか秦の実権を握れる者はいないと考え、あえてあなたを怒らせて発奮させ、私に密かに援助させたのだ、今あなたは登用された、報告に戻る」と明かした。張儀は「ああ、これも私の術中にありながら気づかなかった、私は蘇君に及ばない、しかも登用されたばかりでどうして趙を謀れよう、蘇君のために謝意を伝えてくれ、蘇君が健在な限り私にできることはない」と語り、宰相となった後は璧を疑われた楚の宰相へ「あの璧は盗んでいないのに笞を受けた、今度は国を盗んでやろう」という檄文を送った。
蜀征討を巡る司馬錯との論争
- 蜀と苴が争い秦に援軍を求めてきた際、恵王は道が険しい蜀征討を躊躇し、韓が侵攻してきたため韓を先に討つか蜀を先に討つか迷った。司馬錯は蜀討伐を主張し、張儀は韓討伐を主張した。
- 張儀は「魏・楚と結び三川に出兵して什谷の口を塞ぎ、屯留の道を扼し、新城・宜陽を攻めて周を圧迫し、九鼎宝器を得て天子を挟んで天下に号令すれば王業が成る、蜀は西の辺境で戎狄の類にすぎず、兵を疲れさせても名声も利益も乏しい、名は朝廷で争い利は市場で争うものであり、周室こそ天下の朝市だ」と論じた。
- 司馬錯は「富国は地を広げ、強兵は民を富ませ、王者は徳を広める、今秦は地が狭く民も貧しいから、まず易しいことから始めるべきだ、蜀は西の戎狄の長で桀紂のような乱があり、これを討てば土地を得て国が広がり、財を得て民も富み、暴を禁じ乱を止めた名声も得られる、逆に韓を攻めて天子を脅かせば悪名を得るばかりで利益もなく、周と韓が斉・趙と結び楚・魏に助けを求めれば九鼎は楚へ、土地は魏へ渡り王には止められない、蜀討伐こそ穏当だ」と反論した。恵王は司馬錯に従い、10か月で蜀を平定し蜀王を侯に格下げして陳荘を宰相とした。蜀の帰属で秦はますます富強となり諸侯を軽んじるようになった。
魏における策動
- 秦の恵王10年、張儀は公子華と共に蒲陽を包囲して降し、秦への返還を条件に魏へ帰したうえで公子繇を人質に取った。張儀は魏王に「秦の厚遇に無礼は許されない」と説き、魏は上郡・少梁を秦に献じた。恵王は張儀を宰相とし少梁を夏陽と改称した。
- 張儀は秦の宰相として4年、恵王の王号を実現させ、翌年秦将として陝を取り上郡塞を築いた。その2年後、斉・楚の宰相と齧桑で会見して帰国後に宰相を退き、魏で秦のために働いた。魏王が従わないと秦は怒って曲沃・平周を攻め取り、張儀は面目を失って留まること4年、魏の襄王が没し哀王が立っても説得できなかった。張儀は密かに秦に魏を攻めさせ、魏は敗れた。
諸国遊説――秦への服属を説く
- 翌年、斉も観津で魏を破った。秦はさらに魏を攻めようとし、まず韓の申差軍を破って8万を斬首し諸侯を震撼させた。張儀は改めて魏王に、魏の地勢の不利(四方が開けて要害がなく、四方の敵に囲まれている)を説き、諸侯の合従の脆さ(洹水の盟も血縁の兄弟でさえ財を争うのに、他人同士の誓いが保つはずがない)を論じ、秦に服属しなければ趙との連絡も絶たれ滅亡は必至だと迫った。哀王はついに合従を破棄して秦と和した。
- 3年後、魏は再び秦に背いて合従に戻ったが、秦は曲沃を奪い、翌年魏は再び秦に服属した。
- 斉・楚が合従したため、張儀は楚へ赴いた。楚の懐王は自ら館を用意して迎えた。張儀は「斉との絶交と引き換えに商於の地600里を献上し、秦の女を懐王の側室とし秦楚は兄弟の国となる」と提案し、懐王は大いに喜んで承諾した。群臣は祝賀したが陳軫だけが弔意を示し、「秦が楚を重んじるのは斉との連携があるからだ、斉との縁を絶てば楚は孤立し、秦がそんな孤立国にわざわざ600里を与えるはずがない、張儀は必ず約束を違える、密かに斉との関係を保ちながら表向きだけ絶交し、地を得てから本当に絶交すべきだ」と諫めたが、懐王は聞かず張儀に相印を授け斉との国交を絶った。
- 張儀は秦に戻ると病と称して3か月出仕せず、懐王は自分の絶斉が十分でないと疑い、宋の符節を借りた勇士に斉王を罵らせた。斉王は激怒して秦と結び、張儀はようやく出仕して楚の使者に「私の領地6里を献上しよう」と告げた。使者が「600里と聞いていた」と抗議すると、張儀は「6里の間違いだろう」ととぼけた。楚王は激怒して秦を攻めたが、陳軫の「攻めるより地を割いて秦に贈り、共に斉を攻める方が利益がある」との進言も聞かず出兵し、秦・斉連合軍に大敗して8万人を失い将軍屈匄も戦死、丹陽・漢中を奪われた。さらに藍田で大戦して大敗し、2城を割いて秦と和睦した。
張儀の楚での虜囚と鄭袖の助命
- 秦は黔中の地を求め武関外の地との交換を提案したが、楚王は「張儀を得られるなら黔中を献上する」と言った。恵王は張儀を送ることをためらったが、張儀は「秦は強く楚は弱い、私は靳尚と親しく、靳尚は楚王の夫人鄭袖に取り入っている、たとえ誅殺されても黔中の地を得られるなら本望だ」と自ら赴いた。
- 楚の懐王は張儀を捕らえて殺そうとしたが、靳尚は鄭袖に「秦王は張儀を深く愛しており、上庸6県や美人を贈って楚から取り戻そうとしている、そうなればあなたの地位は危うくなる、今のうちに助命を進言しては」と説いた。鄭袖は懐王に「人臣はそれぞれの主のために働くもの、地もまだ渡していないのに張儀を殺せば秦は激怒して攻めてくる、私たちも江南へ逃れねばならなくなる」と訴え、懐王は張儀を赦して厚遇した。
楚を再び翻意させる
- 張儀は釈放された後、蘇秦の死を聞いて楚王に、秦の圧倒的な国力(虎賁百万、車千乗、騎万匹、山積みの穀物)と、合従が虎に対する羊の群れに等しいことを説き、秦・楚両強国が争えば必ず一方が危うくなるとし、宜陽・成皋を秦に奪われれば韓・魏も従い楚は危機に陥ると論じた。また巴蜀の水軍が長江を下れば10日足らずで扞関に達し黔中・巫郡が失われるとも警告し、蘇秦が結局は車裂きにされた例を引いて合従の空しさを説いた。楚王はついに黔中の地を秦に与えることを承知したが、屈原は「先に張儀に欺かれた大王を、殺しもせず今度もその邪説を聞くのか」と諫めた。懐王は「儀を許して黔中を得るのが得策、後で違えるのは不可だ」として結局張儀を許し秦と親しんだ。
韓・斉・趙・燕を歴訪
- 張儀は楚を去り韓へ赴き、韓の貧弱な土地・食糧事情と、それでも精強な弩・剣を誇る兵と秦の圧倒的軍事力(跿跔科頭の勇士、優れた戦馬)を比較し、合従派の甘言に惑わされず秦に仕えるよう説いた。韓王は従い、秦の恵王は張儀に5邑を与え武信君と号した。
- 斉の湣王には、斉と魯・秦と趙のそれぞれの戦の帰趨(斉は魯に3戦3勝しながら国が危うくなった例、趙は秦に4戦して名声を得ながら国が疲弊した例)を引き、秦楚の連携や韓・魏・趙の秦への服属を説き、斉が孤立すれば臨菑・即墨も危ういと警告した。斉王は同意した。
- 趙王には、秦が15年函谷関を出なかったのは深謀があってのことで、今や秦は巴蜀・漢中・両周を制し、諸国も秦に服しているとし、蘇秦の合従が結局は本人の車裂きで終わった例を引いて服属を勧めた。趙王は先王の代の宰相奉陽君の専横を反省し、秦に従うことを約した。
- 燕の昭王には、趙の襄子がかつて代王を金の斗で謀殺した故事(代王の姉が摩笄山で自害した逸話も含む)を引いて趙の信用できなさを説き、趙が既に秦へ服属した以上、燕も秦に従うべきだと勧めた。燕王は恒山の麓の5城を献上して従った。
- 帰国途中、秦の恵王が没し武王が即位した。武王はもともと張儀を嫌っており、群臣も「信を欠き国を売って取り入る者」と讒言したため、諸侯は次々と秦に背き合従に戻った。
武王のもとでの謀と魏での客死
- 秦の武王元年、張儀への非難が絶えず斉からも抗議が来たため、張儀は誅殺を恐れ武王に「東方で大きな政変が起これば大王は多くの地を割かせられる、斉は私を深く憎んでいるので私が行けば必ず攻めてくる、その隙に韓を討ち三川に入り函谷関から兵を出さずに周へ迫れば九鼎の祭器を得られる」と献策した。武王は同意し、張儀を魏へ送った。
- 斉は果たして魏を攻めた。哀王は恐れたが、張儀は舎人の馮喜を使って斉王に「王は張儀を憎むあまり、かえって張儀を秦にとって重要な人物に仕立て上げている」と説き、先の献策の内容(斉魏を戦わせている隙に秦が韓を討ち周を制する策)を明かし、「今王が魏を攻めれば、国内を疲弊させ外の同盟国を攻め、敵を増やして自らを危うくし、張儀を秦王にとってさらに重用させる結果になる」と論じた。斉王は納得して兵を退いた。
- 張儀は魏の宰相となって1年ののち、魏で没した。