史記卷六十九 蘇秦列傳第九 蘇秦(蘇代・蘇厲)

東周雒陽の人。困窮の末に自室にこもり周の秘伝書『陰符』を読み込み、六国合従を成し従約長として六国の相印を帯びた縦横家。のち燕のために斉へ潜入し密かに斉を疲弊させたが、大夫たちの妬みで刺客に襲われ瀕死となり、死に際に仕掛けた計略で真犯人を誅殺させた。弟の蘇代・蘇厲も遊説家として名を知られた。

年表(8件)

出自と不遇の日々

  • 蘇秦は東周雒陽の人。東方の斉に遊学し、鬼谷先生に学んだ。数年の遊説の旅で困窮して帰郷すると、兄弟・嫂・妻妾はみな彼をあざ笑い、「周の風習では家業を治め商工にいそしむのが常なのに、お前は本業を捨てて口先の仕事に走り、困窮するのも当然だ」と言った。
  • 蘇秦は恥じて自室にこもり、蔵書をすべて読み返し、周の秘伝書『陰符』を得てひたすら読み込んだ。1年の研究の末「これで当世の君主を説得できる」と考え、まず周の顕王に説こうとしたが、顕王の側近は昔から蘇秦を知っており軽んじて信用しなかった。

秦・趙で退けられ、燕で合従策を説く

  • 西へ秦に至り、恵王に「秦は四方が要害に囲まれた天府の国であり、その民と兵法をもってすれば天下を併呑して帝を称せる」と説いたが、恵王は「羽毛が生えそろわなければ高く飛べず、道理が明らかでなければ併呑はできない」と答え、ちょうど商鞅を誅殺した直後で弁士を疎んじ用いなかった。
  • 東の趙へ赴いたが、粛侯の弟で宰相の奉陽君(成)が気に入らず用いられなかった。
  • 燕へ移り、1年余りしてようやく文侯に謁見し、燕の地勢(東は朝鮮・遼東、北は林胡・楼煩、西は雲中・九原、南は嘑沱・易水、方2千余里、甲兵数十万、車600乗、騎6千匹、数年分の食糧)を説き、「燕が無事なのは趙が南の盾となっているためで、秦は遠征の困難から燕を実質的に害せないが、趙が本気で攻めれば数日で都に迫る」と述べ、趙との合従を勧めた。文侯は同意し、車馬・金帛を与えて趙へ送った。

六国合従の完成

  • 趙では既に奉陽君が死去しており、蘇秦は粛侯に「安民の本は外交の選択にある、斉秦いずれとも対立すれば民は安まらない」と説き、六国それぞれが結束すれば燕は旃裘狗馬の地、斉は魚塩の海、楚は橘柚の園、韓・魏・中山も貢献をもたらすと述べた。秦・魏・韓・楚それぞれとの利害得失を詳細に論じ、山東随一の強国である趙こそ合従の要であり、堯・舜・禹・湯武もわずかな地・兵から天下を得たと励まし、「諸侯の地は秦の5倍、兵は10倍、六国が力を合わせれば秦は必ず破れる」と説いた。洹水のほとりで諸侯が盟約し、秦を攻める側と守る側の役割分担(各国が担当する戦線)を細かく取り決める案を提示し、趙王はこれを容れて上客として遇し、車百乗・黄金千溢・白璧百対・錦繡千純を与えて各国との交渉に当たらせた。

韓・魏・斉・楚を説く

  • ちょうど秦が魏を攻め将軍龍賈を捕らえ雕陰を奪ったため、蘇秦は秦兵が趙へ及ぶのを恐れ、張儀を怒らせて秦へ送り込む策を用いた(詳細は張儀列伝)。
  • 韓の宣王には、韓の要害の地勢と精強な弩・剣(谿子・少府時力・距来の弩、冥山・棠谿・墨陽など8か所の名剣)を説き、「鶏口となるも牛後となるなかれ」の諺を引いて秦への臣従を退けるよう促した。韓王は激高し合従に同意した。
  • 魏の襄王には、地勢と人口の稠密さ、越王句践や武王がわずかな兵で大功を成した例を挙げ、秦に仕える臣はみな私利に走る姦臣だと断じ、合従を説いた。魏王も同意した。
  • 斉の宣王には、四方を要害に囲まれた地勢、臨菑7万戸・兵21万という国力、市街の繁栄ぶり(車轂が触れ合い、人の肩がすれ合い、汗が雨のように降るという形容)を説き、韓・魏が秦と国境を接するため已むを得ず服従するのに対し、斉は地理的に秦の攻撃を受けにくいと論じて合従に導いた。斉王も同意した。
  • 楚の威王には、楚の広大さ(方5千余里、甲兵百万、車千乗、騎万匹、十年分の食糧)を説き、秦にとって最大の脅威は楚であり、楚と秦は共存できない関係にあると論じ、合従に応じなければ秦が武関・黔中の二方面から攻め鄢郢が危うくなると警告した。楚王も、韓・魏が信頼できず一人で秦に当たる不安を認め、合従に応じた。

従約長として六国を束ねる

  • こうして六国は合従を成し、蘇秦は従約長となって六国の相印を帯びた。趙王への帰途、雒陽を通ると諸侯の護送の使者が多く、王者に見紛うほどの威容であった。周の顕王は恐れて道を掃き清め出迎えた。かつて蘇秦を侮っていた兄弟・妻・嫂は目を伏せて畏まり、食事の世話をした。蘇秦が嫂に「なぜ以前は横柄で今は恭しいのか」と問うと、嫂は「あなたの地位が高く金が多いからです」と答えた。蘇秦は「同じ一人の人間なのに、富貴なら親族に畏れられ、貧賤なら軽んじられる、まして他人はなおさらだ、もし雒陽に少しの田畑でもあれば六国の相印など佩びなかっただろう」と嘆き、千金を宗族・友人に分け与えた。かつて燕へ赴く際に百銭を貸してくれた者にも百金で報い、恩義のある者すべてに報いた中、一人だけ報われなかった従者が申し出ると、蘇秦は「忘れたのではない、困窮時に何度も離れようとしたお前を、恨みが深かったため後回しにしただけだ」と語り、その者にも報いた。
  • 六国合従の効果で秦は15年間函谷関から出兵しなかった。

燕・斉間の外交と蘇秦の死

  • その後、秦が犀首を使って斉・魏を欺き趙を共に攻めさせ合従を破ろうとした。趙王がこれを蘇秦の責任として咎めると、蘇秦は恐れて燕への使者を願い出て、斉に報復すると約束したが、蘇秦が趙を去ると合従は崩れた。
  • 秦の恵王は娘を燕の太子の妻とした。文侯が没し太子(易王)が立つと、斉の宣王は喪に乗じて燕を攻め10城を奪った。易王が蘇秦に返還を求めると、蘇秦は大いに恥じ、斉王に「弔いつつ祝う」という奇妙な態度で謁見した。理由を問われると「飢えた者が毒のある烏喙を食べないのは、腹は満たしても餓死と同じ害を招くからだ、燕は弱小でも秦王の娘婿の国であり、10城の利にとらわれて強秦と長く仇敵となれば、それは烏喙を食べるのと同じだ」と説き、10城を返せば燕・秦双方の歓心を得られ、天下に号令できると勧めた。斉王は同意して10城を燕へ返した。

蘇秦への讒言と忠信をめぐる弁明

  • 蘇秦を「国を裏切り反覆する臣で、乱を起こそうとしている」と誹る者がいた。恐れた蘇秦が燕王に弁明した際、忠信であることがかえって疑いを招く逆説を、曾参のような孝、伯夷のような廉、尾生のような信の人物ですら弱小の燕に仕えるのは難しいという比喩で説き、また薬酒を隠すため自ら倒れて笞を受けた妾の逸話を引いて「忠信でも罪を得ることはある」と説いた。燕王は納得し、蘇秦を元の官職に復し厚遇した。

斉への出奔と暗殺

  • 易王の母(文侯夫人)と蘇秦は私通しており、燕王がこれを知りながらかえって厚遇したため、蘇秦は誅殺を恐れ「私が燕にいては燕は重んじられないが、斉にいれば燕のためになる」と燕王に説き、罪を得たふりをして斉へ出奔した。斉の宣王は客卿として迎えた。
  • 宣王の死後、湣王が即位すると、蘇秦は厚葬・宮室の華美を勧め、密かに斉を疲弊させて燕のために働いた。燕の易王も没し、噲が王位に就いた。斉の大夫たちが蘇秦の寵を妬んで刺客を放ち、蘇秦は瀕死の傷を負った。犯人が捕まらない中、蘇秦は死に際に斉王へ「私が死んだら車裂きにして『蘇秦は燕のため斉で乱を起こした』と布告してほしい、そうすれば真犯人が名乗り出る」と進言し、その通りにすると果たして刺客が現れ、斉王はこれを誅殺した。燕はこれを聞き「斉は蘇秦のために手厚く仇を討った」と評した。

弟の蘇代・蘇厲

  • 蘇秦の死後、事の真相が漏れ、斉は燕を恨むようになった。蘇秦の弟の代と、代の弟の厲も遊説を学んでいた。代は燕王に面会し「明王は自らの過ちを聞くことを求める」として、燕が仇敵の斉・趙を助け援国である楚・魏を攻める過ちを指摘した。燕王が斉討伐の意志を語ると、代は「戦国7国の中で燕は弱く、附属する国次第で重んじられる」とし、斉が既に楚・秦との戦や燕との交戦で疲弊し、宋を併呑して勢力を伸ばしつつも民力が尽きていることを分析し、質子や賄賂で斉に取り入り油断させる策を勧めた。燕王は納得し王子を斉に人質として送った。
  • 弟の蘇厲もこの縁で斉に仕えたが、燕の宰相子之と蘇代が姻戚関係にあり燕の実権を握ろうとしたことから燕は内乱に陥り、斉が燕を討って王噲・子之を殺した。燕は昭王を立て、蘇代・蘇厲は帰国できず斉にとどまり厚遇された。
  • 蘇代は魏で捕らえられた際、斉の使者の口添えで釈放され、その後宋へ逃れて厚遇された。斉が宋を攻めた際、蘇代は燕の昭王に長文の書簡を送り、燕が質子を出して斉の宋攻めを助けることの不利、斉が宋・楚淮北を併呑すればさらに強大化し燕への脅威が増すことを説き、むしろ秦・燕・趙が「西帝・北帝・中帝」を称して天下に号令し、斉に宋の返還と楚淮北の帰属を迫るべきだと提案した。燕昭王はこの策には応じなかったが、蘇代を再び重用し斉討伐を共に謀り、ついに斉を破って湣王を出奔させた。

秦の欺瞞を説く蘇代の諫言

  • その後、秦が燕王を招いた際、蘇代は「楚は枳の地を得て国を滅ぼしかけ、斉は宋を得て国を滅ぼしかけた、功のある者こそ秦の深い仇となる」と諫め、秦が楚・韓・魏それぞれに「正告」と称して脅迫し従わせた実例(蜀・漢中からの水軍による楚への圧力、少曲・宜陽からの韓への圧力、安邑・軹道からの魏への圧力など)を詳細に語り、秦が宋の攻略を巡って斉を利用し後に罪に着せたこと、韓攻めのため天下を欺いたことなど、秦の外交の欺瞞ぶりを列挙した。燕・趙が争って秦に仕える様を批判し、燕昭王は結局秦への訪問を取りやめ、蘇代は再び燕で重んじられた。
  • 燕は蘇秦の時のように諸侯の合従を試みたが、従うかどうかは国によりまちまちであった。天下は蘇氏の合従策を宗としたと言われる。代・厲はともに天寿を全うし、諸侯にその名を知られた。

史論

  • 太史公は言う。蘇秦兄弟三人はいずれも諸侯に遊説して名を顕したが、その術は権謀と変転に長けていた。蘇秦は反間の計により命を落とし、天下はこぞってこれを笑い、その術を学ぶことを憚った。しかし世間で語られる蘇秦の逸話には誇張が多く、似た出来事があればみな蘇秦に結び付けられる。とはいえ蘇秦が市井から身を起こし六国の合従を成し遂げたことは、他に抜きん出た智謀があった証である。太史公はその行いを記し時の順に並べ、悪評だけを一身に背負わせないようにした。