史記卷六十八 商君列傳第八 商鞅(衛鞅・公孫鞅)
衛の公族出身、名は鞅、姓は公孫氏、のち商君と号す(?–前338年)。魏の公叔座に仕えた後、秦の孝公に用いられて二度の変法を断行し、什伍の連座制・軍功爵制などで秦を強国へ導いた法家の代表。魏を破って商・於の15邑に封じられたが、孝公の死後に反逆の疑いをかけられ、車裂きの刑に処された。
年表(8件)
- 変法施行から1年新法を不便とする声が多く、太子の代わりに傅の公子虔・師の公孫賈を処罰した
- 変法施行から10年道に落し物を拾う者なく山に盗賊なく、民の暮らしが治まった
- 大良造となって3年後咸陽に遷都し県制を敷き、田の阡陌・封疆を開いて税制を統一した
- その4年後公子虔が再び禁を犯し劓刑に処された
- その5年後秦は富強となり、周の天子が孝公に祭肉を送った
- その翌年魏を攻め公子卬を欺いて撃破し河西の地を得て、商・於15邑に封じられ商君と号した
- 秦の宰相となって10年宗室・貴戚の恨みを買い、趙良の諫言を受けるも従わなかった
- 孝公の死の5か月前後孝公が没すると公子虔一派の告発で追捕され、魏でも拒まれ、秦軍に敗れて殺され車裂きにされた
出自と魏での不遇
- 商君は衛の庶子の家系で、名は鞅、姓は公孫氏。祖先はもと姫姓であった。若くして刑名の学を好み、魏の宰相公叔座に仕えて中庶子となった。
- 公叔座はその才を知りながら推挙する前に病に倒れた。魏の恵王が見舞いに訪れ、後継の相について問うと、公叔座は「中庶子の公孫鞅は年少ながら奇才がある、国をあげて彼の言に聞き従ってほしい」と言った。王は黙して答えなかった。
- 王が退出する際、公叔座は人払いをして「王が鞅を用いないのなら、必ず殺して国外に出さないように」と勧め、王は承諾して去った。公叔座は鞅を呼んで「先に君に、次いで臣に語るのが道理だ、王が用いなければ殺せと勧めておいた、王はそれも承諾した、急いで逃げよ、さもなくば捕らえられる」と告げたが、鞅は「王が座殿の言を用いて私を登用しないのなら、座殿の言を用いて私を殺すこともできますまい」と言い、逃げなかった。恵王は退出後、側近に「公叔座の病は重い、哀れなことだ、公孫鞅に国政を任せよと言うとは」と語り、まともに取り合わなかった。
秦での登用と変法論争
- 公叔座の死後、鞅は秦の孝公が国中に賢者を求める令を出し、繆公の事業を復興して東方の失地を回復しようとしていると聞き、西へ入って孝公の寵臣景監を頼りに拝謁を求めた。
- 最初は帝道を説いたが孝公は居眠りをして取り合わず、景監を叱った。二度目は王道を説いたがまだ意にかなわず、三度目にようやく孝公は関心を示した。四度目、覇道と富国強兵の術を説くと、孝公は膝を進めて何日も話し込んで飽きなかった。鞅は景監に「帝王の道は久遠すぎて君主は待てないと言われた、それで強国の術を説いたのだ、殷周の徳とは比べられないが」と語った。
- 変法にあたり、鞅は世論を恐れる孝公に「疑いながら事を行えば功はなく、高い見識を持つ者は世に非難され、独自の考えを持つ者は民に嘲られる、民は事を始める際には共に議論できないが成果は共に楽しめる、聖人は国を強くできるなら古法に従わず、民を利するなら旧礼にこだわらない」と説いた。孝公は同意したが、甘龍は「聖人は民を変えずに教化し、知者は法を変えずに治める、それが役人に慣れ民に安んじられる道だ」と反対し、鞅は「それは世俗の言にすぎない、三代は礼を異にして王となり、五伯は法を異にして覇となった、智者は法を作り愚者はそれに縛られ、賢者は礼を改め凡人はそれに拘束される」と論じた。杜摯も「利益が百倍でなければ法を変えず、功が十倍でなければ制度を変えない、古法に従えば過ちなく、旧礼に従えば邪でない」と反論したが、鞅は「治世に一つの道はなく、国を利するのに古法にこだわる必要はない、湯武は古法によらず王となり、夏殷は礼を変えずに滅んだ」と退けた。孝公は同意し、鞅を左庶長に任じて変法の令を定めた。
変法の内容と徹底
- 民を什伍の組織に編成して相互に監視・連座させ、悪事を告発しない者は腰斬、告発した者は敵将を斬った者と同賞、悪事を匿った者は降伏者と同罰とした。二人以上の男子を分家させない家には税を倍にした。軍功のある者には身分に応じた爵位を与え、私闘をした者はその軽重に応じて処罰した。農業と機織りに励んで多くの穀物・布帛を納める者は税役を免じ、末利(商業)に走り怠けて貧しくなった者は奴婢として没収した。宗室でも軍功がなければ属籍を認めず、身分・爵位の等級を明確にして田宅・家臣の待遇を差別化し、功のある者は栄達させ、功のない者は富があっても華美を許さなかった。
- 法令を公布する前に民の信を得るため、都の南門に三丈の木を立て、北門に移した者に十金を与えると布告した。誰も動かなかったため五十金に引き上げると、ある者が移して即座に五十金を与え、欺かないことを示したうえで正式に発令した。
- 施行から1年、都では新法を不便とする声が千を数えた。太子が法を犯すと、鞅は「法が行われないのは上の者が犯すからだ」として太子を罰しようとしたが、君位継承者に刑罰は科せず、代わりに太子の傅の公子虔を処罰し、師の公孫賈には黥刑を科した。翌日から秦人は挙って法に従うようになった。10年後には道に落し物を拾う者なく、山に盗賊なく、家々は豊かになり、民は公戦には勇敢に私闘には臆病になり、郷邑はよく治まった。かつて不便と訴えた者が便利だと言い出すと、鞅は「これも法を乱す民だ」として辺境へ移住させ、以後誰も法について論じなくなった。
秦の強大化と諸侯との攻防
- 鞅は大良造となり、魏の安邑を包囲して降した。3年後、咸陽に冀闕・宮殿を築いて都を雍から遷し、父子兄弟が同室に住むことを禁じ、小さな都邑や郷邑を集めて県とし、令・丞を置いて全31県とした。田の阡陌・封疆を開いて税制を公平にし、升・秤・尺度も統一した。4年後、公子虔が再び禁を犯し鼻を削ぐ刑(劓刑)を科された。5年後、秦は富強となり、周の天子が孝公に祭肉を送り、諸侯もこぞって祝賀した。
- 翌年、斉が馬陵で魏軍を破り太子申を捕らえ将軍龐涓を討った。さらにその翌年、鞅は孝公に「秦と魏は互いに腹心の疾のような関係で、いずれかが他方を併合する、魏は山河を挟んで秦と接し東方の利を独占しているが、今斉に大敗して諸侯も離反しており、これを好機として魏を攻めるべきだ」と説き、孝公は同意して鞅に魏征討を命じた。
- 魏は公子卬を将として迎え撃たせたが、鞅はかつての友誼を口実に和議の会盟を持ちかけ、酒宴の隙に伏兵で公子卬を捕らえ、魏軍を撃破して秦へ帰った。魏の恵王は斉・秦に相次いで敗れて国力が衰え、河西の地を割いて秦に和を求め、安邑を捨てて大梁に遷都した。恵王は「公叔座の言に従わなかったことを悔いる」と嘆いた。鞅は魏を破った功により於・商の15邑を封じられ商君と号した。
趙良の諫言
- 商君が秦の宰相となって10年、宗室・貴戚の多くが恨みを抱いた。趙良が商君を訪ねると、商君は交友を求めたが、趙良は「私は不肖であり、賢を推して立つ人には従うが、不肖の者が王となるのを見て退くのが孔子の教え、あなたの義に従えば貪位・貪名の誹りを免れない」と辞退した。
- 商君が秦の治世をどう見るかと問うと、趙良は「反省する耳を聡といい、内省する目を明といい、自ら克つことを強という、虞舜も謙譲を尊んだ、あなたが舜の道を歩まないなら私に問う意味はない」と答えた。商君が「私が秦の風俗を改め男女の別を立て魯・衛のような都を築いたことと、五羖大夫(百里奚)の治世を比べてどうか」と問うと、趙良は「千枚の羊皮より一枚の狐の毛皮、千人のへつらいより一人の直言の方が価値がある、武王は直言によって栄え、殷の紂は沈黙によって滅んだ」と諭し、商君は「良薬は苦い、正言を聞かせてくれ」と請うた。
- 趙良は、五羖大夫がもと荊の田舎者で、繆公の賢を慕い自ら奴隷として身を売って牛飼いをしていたところ、繆公に見出されて宰相となり、東は鄭を伐ち三度晋の君主を立て、一度は楚の禍を救い、教化を国内に広めて巴の朝貢を得、諸侯に徳を施して八戎を服させ、由余さえも自ら訪れたことを語り、五羖大夫が労苦を厭わず質素に過ごし、死後は秦の民が男女を問わず涙し子供も歌を歌わなかったほど慕われたと述べた。
- 対して商君については、寵臣景監を頼って王に近づいたのは名誉のためではなく、民のためでなく大築冀闕をしたのは功のためではなく、太子の師に黥刑を科して民を厳刑で傷つけたのは怨みと禍を積むものであり、公子虔が8年も門を閉ざし、祝懽を殺し公孫賈を黥刑に処したことなども人心を得る道ではないと批判した。また外出のたびに武装した護衛を大勢従えねば出られない有様を指摘し、「徳に頼る者は栄え、力に頼る者は滅びる」との言葉を引き、今すぐ商・於の15邑を返上し田園に隠棲して賢者を顕彰し、老人を養い孤児を育て、功ある者を序し徳ある者を尊べば身の安全が図れると勧めたが、商君はこれに従わなかった。
商君の最期
- 5か月後、孝公が没し太子が立った。公子虔一派が商君の謀反を告発し、追捕の令が出された。商君は逃亡して関所の宿に泊まろうとしたが、宿の主人は身分証を持たない者を泊めれば連座するという商君自身の定めた法により拒んだ。商君は「法の弊害がここまで及ぶとは」と嘆いた。
- 魏へ逃れようとしたが、かつて公子卬を欺いて魏軍を破ったことを恨まれ拒絶された。他国へ行こうとしても「商君は秦の賊、秦は強く賊を受け入れれば禍を招く」として魏は秦へ送り返した。商君は再び秦へ戻り、商邑に拠って自らの手勢を率い北の鄭を攻めたが、秦の追討軍に敗れ鄭の黽池で殺された。秦の恵王は商君の遺体を車裂きにして「商鞅のような反逆者になるな」と諸国に示し、その一族も皆殺しにした。
史論
- 太史公は言う。商君はもともと苛烈な性質の人であった。孝公に取り入るのに帝王の術を借りて説き、浮ついた説を用いたのは彼の本質ではなかった。寵臣を頼って登用され、公子虔を処罰し魏の公子卬を欺くなど、趙良の諫言にも従わなかったことは、彼の薄情さをよく示している。太史公はかつて商君が著したとされる『開塞』『耕戦』の書を読んだが、その内容は本人の行いとよく似ていた。最後に秦で悪名を残したのも道理があってのことだろう。