史記卷六十六 伍子胥列傳第六 伍子胥(員)

楚の人、名は員。祖先は楚の名族。讒言により父の伍奢・兄の伍尚を平王に殺され、呉へ亡命した(?–前484年頃)。呉王闔廬を助けて楚の郢を陥落させ、平王の墓を暴いてその屍を鞭打ち恨みを晴らした。のち夫差への諫言が容れられず、太宰嚭の讒言により自刎を命じられた呉の忠臣。

年表(6件)

出自

  • 伍子胥は楚の人、名は員。父は伍奢、兄は伍尚。祖先の伍挙は正しい諫言で楚の荘王に仕え功があり、以来一族は楚で名を知られた。

太子建の廃嫡

  • 楚の平王には建という太子がいて、伍奢を太傅、費無忌を少傅とした。無忌は太子建に忠実でなかった。平王が無忌に命じて太子のため秦から嫁を迎えさせたところ、秦の女が美しかったので無忌は急いで戻り平王に「秦女は絶世の美人です、王ご自身が娶り、太子には別の嫁を迎えてはいかがですか」と勧めた。平王はこれに従い秦女を自ら娶って寵愛し、子の軫を生んだ。太子には改めて別の嫁を娶らせた。
  • 無忌は秦女を通じて平王に取り入り、太子建を離れて平王に仕えるようになった。いつか平王が死んで太子が即位すれば自分は殺されると恐れ、太子建を讒言した。建の母は蔡の女で平王の寵を得ていなかったこともあり、平王は次第に建を疎んじ、辺境の城父を守らせ国境の兵を統率させた。
  • しばらくして無忌はさらに太子の悪口を日夜王に告げ、「太子は秦女の一件で恨みを抱いているに違いありません、王もどうかご用心を。太子は城父にいて兵を統率し外は諸侯と交わっており、乱を起こそうとしています」と言った。平王は太傅の伍奢を召して問いただした。伍奢は無忌が太子を讒言していることを知り「王はなぜ讒言する小臣の言葉で肉親を疎んじられるのですか」と述べた。無忌は「王が今制せねば事は成ってしまいます、王は捕らえられることになりましょう」と言い、平王は怒って伍奢を投獄し、城父の司馬奮揚に太子を殺させようとした。奮揚は先に人を遣って太子に「急いで逃げよ、さもなくば殺される」と告げさせ、太子建は宋へ亡命した。

伍奢父子の処断

  • 無忌は平王に「伍奢には二人の子があり、いずれも賢才です、誅殺しなければ楚の憂いとなります。父を人質にして呼び寄せましょう、さもなくば楚の患いとなります」と言った。王は使者を送り伍奢に「二人の子を来させれば生かすが、来なければ殺す」と伝えさせた。伍奢は「尚は仁の人ですから呼べば必ず来ますが、員は剛強で忍耐強く大事を成せる人物ですから、来れば共に捕らえられると悟り、決して来ないでしょう」と答えた。王は聞き入れず使者を送って二子に「来れば父を生かす、来なければ今すぐ奢を殺す」と伝えた。
  • 伍尚は行こうとしたが、員は「楚が我ら兄弟を呼ぶのは父を生かすためではなく、逃げた者が後の患いとなることを恐れ、父を人質に二子を騙して呼び寄せようとしているのです。行けば父子ともに死ぬだけで、父の死に何の益もありません。行けば恨みを晴らせなくなります。他国へ逃れ力を借りて父の恥を雪ぐべきで、共に滅びる必要はありません」と言った。伍尚は「行けば父の命を救えないと私も分かっている。しかし父が生を求めて呼んでいるのに行かず、後に恨みを雪ぐこともできなければ、いずれ天下に笑われるだけだ」と答え、員に「お前は逃げよ、父の仇を報いてくれ、私は帰って死のう」と言った。
  • 伍尚は捕らえられ、使者は伍胥(員)を捕らえようとしたが、伍胥は弓を引き矢をつがえて使者に向け、使者は近づけず、伍胥は逃げた。太子建が宋にいると聞き、これを頼って向かった。伍奢は子胥の逃亡を聞いて「楚の君臣はこれから戦乱に苦しむだろう」と言った。伍尚が楚に至ると、楚は奢と尚を共に殺した。

呉への亡命

  • 伍胥が宋に至ると宋で華氏の乱が起こり、太子建と共に鄭へ逃れた。鄭人は厚くもてなした。太子建はさらに晋へ赴き、晋の頃公は「太子は鄭とよしみを結んでおり鄭は太子を信じています。太子が内応し我らが外から攻めれば必ず鄭を滅ぼせます、滅ぼしたら太子を封じましょう」と持ちかけた。太子は鄭に戻ったが、事が実行される前に自らの従者を私情で殺そうとし、従者はその企てを鄭に密告した。鄭の定公と子産は太子建を誅殺した。
  • 建には勝という子があり、伍胥は恐れて勝と共に呉へ亡命した。昭関に至ると関吏が捕らえようとしたので、伍胥は勝と二人だけで徒歩で逃げ、危うく脱出した。追手が背後に迫った。長江に至ると一人の漁夫が船に乗っており、伍胥の危急を知って渡してくれた。渡り終えた伍胥は帯びていた剣を解いて「この剣は百金の価値がある、これをあなたに」と言ったが、漁夫は「楚の法では伍胥を捕らえれば粟五万石と執珪の爵位が与えられる、百金の剣どころではない」と言って受け取らなかった。
  • 伍胥は呉に至る前に病を得て途中で止まり、食を乞うほどであった。呉に着くと呉王僚が政を執り、公子光が将であった。伍胥は公子光を通じて呉王に謁見を求めた。

公子光との出会いと専諸

  • しばらくして楚の辺邑鍾離と呉の辺邑卑梁氏の女たちが桑の葉を争って両国が兵を挙げるまでに至った。呉は公子光に楚を攻めさせ、鍾離・居巣を落として帰った。伍子胥は呉王僚に「楚は破れます、どうか再び公子光を遣わしてください」と説いた。公子光は呉王に「伍胥の父兄は楚で殺されました、彼が王に楚討伐を勧めるのは自らの恨みを晴らすためです、楚を討っても破れません」と言った。
  • 伍胥は公子光が王を殺して自立する内心の志を抱いていることを見抜き、外事を説く時ではないと悟り、専諸を公子光に推挙し、自らは退いて太子建の子勝と共に田野を耕した。

闔廬の即位

  • 五年後、楚の平王が死んだ。かつて平王が太子建から奪った秦女が生んだ子の軫は、平王の死後、後継として即位し、これが昭王である。呉王僚は楚の喪に乗じて二人の公子に兵を率いて楚を襲わせた。楚は兵を出して呉軍の退路を断ち、呉軍は帰れなくなった。呉の国内が手薄になると、公子光は専諸に呉王僚を襲撃させて刺殺し、自ら即位した。これが呉王闔廬である。
  • 闔廬は即位し志を得ると、伍員を召して行人(外交官)とし、国事を共に謀った。

楚への攻勢

  • 楚は大臣の郤宛・伯州犁を誅殺し、伯州犁の孫の伯嚭は呉へ亡命し、呉は嚭を大夫とした。かつて王僚が遣った二人の公子は、道が絶たれ帰国できずにいたが、闔廬が王僚を弑して自立したと聞くと兵を率いて楚に降り、楚は彼らを舒に封じた。
  • 闔廬即位三年、伍胥・伯嚭と共に軍を興して楚を伐ち、舒を落として、呉から寝返った二将軍を捕らえた。さらに郢まで進もうとしたが、将軍孫武が「民は疲弊しています、今はまだ時期ではありません、もうしばらく待ちましょう」と言い、軍を引いた。
  • 闔廬四年、呉は楚を伐ち六と灊を取った。五年、越を伐ち破った。六年、楚の昭王は公子の囊瓦に兵を率いて呉を伐たせた。呉は伍員に迎撃させ、豫章で楚軍を大破し楚の居巣を取った。

郢の陥落

  • 闔廬九年、呉王は子胥・孫武に「かつてあなた方は郢にはまだ入れないと言ったが、今はどうか」と問うた。二人は「楚の将軍囊瓦は貪欲で、唐・蔡はこれを怨んでいます。王が大討伐を望まれるなら、まず唐・蔡を得るべきです」と答えた。闔廬はこれに従い、全軍を興して唐・蔡と共に楚を伐ち、楚と漢水を挟んで対陣した。呉王の弟夫概は従軍を願ったが王は許さなかった。それでも夫概は自らの兵五千で楚の将軍子常を攻め、子常は敗走して鄭へ逃れた。呉はこれに乗じて進撃し、五戦して郢に至った。己卯の日、楚の昭王は逃亡し、庚辰の日、呉王は郢に入城した。

昭王の逃亡

  • 昭王は逃れて雲夢に入ったが盗賊に襲われ、鄖へ走った。鄖公の弟の懐は「平王は私の父を殺した、私がその子を殺すのも当然ではないか」と言った。鄖公はその弟が王を殺すのを恐れ、王と共に随へ逃れた。呉軍は随を包囲し「漢水流域にいる周の子孫は楚が皆滅ぼした」と随人に伝えた。随人は王を殺そうとしたが、王子綦が王を匿い自ら王のふりをして事に当たった。随人は王を呉に引き渡すか占ったところ不吉と出たため、呉の要求を断り王を渡さなかった。

平王の墓を鞭打つ

  • かつて伍員と申包胥は交友があり、員が亡命する際「私は必ず楚を覆す」と言うと、包胥は「私は必ず楚を存続させる」と答えた。呉軍が郢に入ると伍子胥は昭王を捜したが見つからず、そこで楚の平王の墓を掘り起こしその屍を出して三百回鞭打ってようやくやめた。
  • 山中に逃れていた申包胥は人を遣って子胥に「あなたの復讐はあまりにひどいのではないか。人が多ければ天に勝てるが、天の定めが定まればまた人に勝つと聞く。あなたはもと平王の臣で北面して仕えた身、それが今死者を辱めるに至るとは、天道の無さの極みではないか」と伝えさせた。伍子胥は「私のために申包胥に伝えてくれ、日は暮れて道は遠い、それゆえ道理に逆らう行いをするのだ、と」と答えた。
  • 申包胥は秦へ走り急を告げ救援を求めたが秦は許さなかった。包胥は秦の朝廷に立ち昼夜哭き続け、七日七夜声を絶やさなかった。秦の哀公はこれに憐れみを覚え「楚に道はなくとも、これほどの臣がいるなら滅ぼすには忍びない」と言い、五百乗の兵車を送って楚を救い呉を撃たせた。六月、秦は稷で呉軍を破った。ちょうどそのとき、呉王が長く楚に留まって昭王を探していた隙に、闔廬の弟夫概が国へ逃げ帰り自ら王を名乗った。闔廬はこれを聞いて楚を捨てて帰国し、弟の夫概を討った。夫概は敗走し楚へ逃れた。楚の昭王は呉の内乱を見て再び郢に入った。夫概は堂谿に封じられ堂谿氏となった。楚は再び呉と戦い、呉を破り、呉王はついに帰国した。

闔廬の死と夫差の即位

  • 二年後、闔廬は太子夫差に兵を率いさせ楚を伐たせ番を取った。楚は呉の再来を恐れ、郢を去って鄀へ移った。この頃、呉は伍子胥・孫武の計略によって西で強楚を破り、北で斉・晋を威圧し、南で越人を服属させていた。
  • その四年後、孔子は魯の宰相となった。
  • その五年後、呉は越を伐った。越王句践は迎え撃ち、姑蘇で呉を破り闔廬の指を傷つけ、呉軍は退いた。闔廬は傷が元で死の床につき、太子夫差に「お前は句践が父を殺したことを忘れたか」と言った。夫差は「決して忘れません」と答え、その夕べ闔廬は死んだ。
  • 夫差は即位すると伯嚭を太宰とし、戦の訓練に励んだ。二年後に越を伐ち、夫湫で越を破った。越王句践は残兵五千を率いて会稽山に籠もり、大夫種に厚い礼物を持たせ呉の太宰嚭に和睦を求めさせ、国を挙げて臣妾となることを申し出た。呉王はこれを許そうとしたが、伍子胥は「越王は苦難に耐える性質の人物です、今滅ぼさなければ後で必ず後悔します」と諫めた。しかし呉王は聞き入れず、太宰嚭の計に従って越と和睦した。

伍子胥の諫言と讒言

  • その五年後、呉王は斉の景公が死に大臣が寵を争い新君が弱いと聞き、兵を興して北の斉を伐とうとした。伍子胥は「句践は食事を質素にし死者を弔い病者を見舞っており、何かに用いようとしています。この人物が死なねば必ず呉の患いとなります。今、呉にとって越は腹心の病のようなものです、それなのに王は越を後回しにして斉に力を注いでいます、誤りではありませんか」と諫めたが、呉王は聞かず斉を伐ち、艾陵で斉軍を大破し鄒・魯の君を威圧して帰った。これにより子胥の諫言はますます疎まれた。
  • その四年後、呉王が再び北の斉を伐とうとしたとき、越王句践は子貢の計を用いて自ら兵を率いて呉を助け、重宝を太宰嚭に贈った。太宰嚭はしばしば越の賄賂を受け越を深く信頼するようになり、日夜呉王に取り成した。呉王は嚭の計を信用した。伍子胥は「越は腹心の病であるのに、今その甘言と偽りを信じて斉を貪ろうとしています。斉を破っても石だらけの田のようなもので何の役にも立ちません。『盤庚の誥』にも『従わず不遜な者は皆殺しにし子孫を残さず、この邑に再びその種を残させるな』とあります、これが殷の興った所以です。どうか斉を捨てて越を先にしてください、さもなくば後で悔いても及びません」と諫めたが、呉王は聞かず子胥を斉への使者に送った。
  • 子胥は出発に際し子に「私はしばしば王を諫めたが用いられなかった、私は呉の滅亡を見ることになるだろう。お前が呉と共に滅びても益はない」と言い、子を斉の鮑牧に託して呉に戻り報告した。

伍子胥の死

  • 呉の太宰嚭はかねて子胥と不仲であり、讒言して「子胥の人となりは剛暴で薄情、猜疑深く、その怨みは深い禍となりましょう。先に王が斉を伐とうとした時、子胥は不可としましたが、王はついに伐って大功を立てました。子胥は自分の計略が用いられなかったことを恥じ、かえって怨みを抱いています。今また王が斉を伐とうとするに際し、子胥は執拗に強く諫め、事を妨げ、ひそかに呉の敗北を望んで自分の見通しの正しさを証明しようとしているだけです。今、王が自ら出陣し国中の兵力を挙げて斉を伐とうとしているのに、子胥の諫言が用いられないとして病と偽り従軍を拒んでいます。王はどうか備えを怠らぬよう、事が起きるのは難しくありません。しかも嚭が人を使って探らせたところ、子胥は斉への使者に赴いた際、子を斉の鮑氏に託していました。人臣たる者が国内で意を得ず外は諸侯に頼り、自らを先王の謀臣と任じながら今用いられないことに常に不満を抱いています、どうか早くお手を打ちください」と言った。
  • 呉王は「あなたが言わずとも私も疑っていた」と答え、使者を送って伍子胥に属鏤の剣を賜り「これで死ね」と命じた。伍子胥は天を仰いで嘆いた、「ああ、讒臣の嚭が乱をなすというのに、王はかえって私を誅する。私はお前の父を覇者にした。お前がまだ立たぬ時、諸公子が位を争い、私は死を賭してお前のために先王に争い、ほとんど立てられぬところであった。お前が立ってから呉国を分けて私に与えようとしたが、私はそれを望まなかった。それなのに今、お前は諂う臣の言葉を信じて年長者を殺そうとしている」と。そして家臣に「必ず私の墓に梓の木を植えよ、今から棺の材とせよ。そして私の目をえぐり呉の東門に懸けよ、越の賊軍が入って呉を滅ぼすのを見届けさせよ」と言い、自ら首を刎ねて死んだ。呉王はこれを聞いて大いに怒り、子胥の遺骸を鴟夷の革袋に入れて長江に流した。呉人はこれを憐れみ、江のほとりに祠を立て、その地を胥山と名付けた。

呉の滅亡

  • 呉王は伍子胥を誅殺した後、斉を伐った。斉では鮑氏が君の悼公を殺し陽生を立てていた。呉王はその賊を討とうとしたが勝てずに引き上げた。その二年後、呉王は魯・衛の君を橐皋に集めて会合した。その翌年、北で諸侯を黄池に大会させ周室に命令を発しようとした。この隙に越王句践は呉の太子を襲い殺し、呉軍を破った。呉王はこれを聞いて帰国し、厚い礼物を送って越と和睦した。その九年後、越王句践はついに呉を滅ぼし夫差王を殺した。そして太宰嚭を誅殺した。忠を尽くさず外から重い賄賂を受けて越と結託していたためである。

白公勝の乱

  • 伍子胥が初め共に亡命した楚の太子建の子勝は呉に留まっていた。呉王夫差の頃、楚の恵王は勝を楚に呼び戻そうとした。葉公が「勝は勇を好み密かに死士を求めています、私心があるやもしれません」と諫めたが、恵王は聞かず勝を召し、楚の辺邑の鄢に住まわせ白公と号させた。白公が楚に帰って三年後、呉は子胥を誅殺した。
  • 白公勝は楚に帰ると、父を殺した鄭を恨み、密かに死士を養い鄭への復讐を求めた。楚に帰って五年後、鄭討伐を願い出て楚の令尹子西はこれを許した。しかし出兵前に晋が鄭を攻め、鄭は楚に救いを求めた。楚は子西を遣って救援させ、鄭と盟約を結んで帰った。白公勝は怒って「鄭の仇ではなく、子西こそ仇である」と言い、剣を研ぎ始めた。人が「何のためか」と問うと勝は「子西を殺すためだ」と答えた。子西はこれを聞いて笑い「勝は卵のように弱い者だ、何ができようか」と言った。
  • その四年後、白公勝は石乞と共に朝廷で楚の令尹子西と司馬子綦を襲い殺した。石乞は「王を殺さねばなりません」と言い、王を高府に監禁した。石乞の従者の屈固は楚の恵王を背負って昭夫人の宮へ逃げた。葉公は白公の乱を聞き国人を率いて白公を攻めた。白公の徒党は敗れ山中に逃げて自殺した。石乞は捕らえられ、白公の遺骸のありかを問われたが答えず釜茹での刑にされることになった。石乞は「事が成れば卿となり、成らねば釜茹でにされる、それが自分の役目だ」と言い、最後まで遺骸のありかを告げず釜茹でにされた。そして恵王は再び立てられた。

太史公の見解

史論

  • 太史公は言う。「怨みと毒念が人に及ぼす力の激しさよ。王者でさえ臣下に対してこれを抑えきれないのだから、同列の者同士ではなおさらである。もし伍子胥が父奢と共に死んでいたなら、螻蛄や蟻と何ら変わらなかったであろう。小さな義を捨て大きな恥を雪ぎ、名を後世に垂れたことは、悲しくも偉大なことである。子胥が長江のほとりで困窮し食を乞い歩いた時も、その志はかつて一瞬たりとも郢を忘れたことがあっただろうか。忍耐を重ねてついに功名を成し遂げたのは、烈丈夫でなければ成し得なかったであろう。白公が自ら君主となろうとしなければ、その功と謀もまた語り尽くせぬほどのものであっただろう」と。