史記卷五十二 齊悼惠王世家第二十二

高祖の庶長子、齊悼惠王劉肥に始まる斉王家の世家。子の哀王襄・弟の朱虚侯章らは呂太后没後、諸呂誅滅と文帝擁立に加わったが、王位自体は結局代王(文帝)に譲られた。文帝16年に悼惠王の遺児たちが斉・済北・済南・菑川・膠西・膠東の諸王に分封されたが、多くは呉楚の乱への加担で誅滅・自殺し、斉の宗家も厲王の代に主父偃の讒言を受けて絶えた。城陽・菑川の系統のみが末裔として存続した。

年表(14件)
  • 高祖
  • 6年劉肥が斉王に立てられた
  • 惠帝
  • 6年悼惠王が没し子の襄(哀王)が立った
  • 高后の時代呂太后が済南・琅邪等の郡を割いて呂氏や劉沢を王に立て斉の領土を削った
  • 高后崩御の翌年朱虚侯章・斉哀王らが挙兵し諸呂誅滅を図った
  • 誅呂の後大臣らは斉王でなく代王(文帝)を天子に擁立した
  • 文帝
  • 元年割かれた城陽・琅邪・済南の3郡が斉に復帰し、この年哀王が没し太子則(文王)が立った
  • 文王
  • 在位14年文王が没し後継なく国は除かれた
  • 文帝
  • 16年悼惠王の子らが斉・済北・済南・菑川・膠西・膠東の6王に分封された
  • 孝王
  • 11年呉楚の乱で臨菑を包囲されたが漢軍に救われ、のち3国との通謀が発覚し毒を飲んで自殺した
  • 孝王没後太子寿(懿王)が斉王を継ぎ、乱に加担した膠西・膠東・済南・菑川の4王は誅滅された
  • 懿王
  • 在位22年懿王が没し子の次景(厲王)が立った
  • 厲王
  • 在位5年主父偃の讒言で姉との姦通を暴かれ毒を飲んで自殺し、後継なく国は漢に入った
  • 文帝
  • 2年朱虚侯章が城陽王に立ち、東牟侯興居も済北王に立った
  • (文帝親征の報に乗じ)済北王興居が反乱を起こしたが漢軍に敗れ自殺した

出自と斉王即位

  • 齊悼惠王劉肥は高祖の庶長子。母は外妾の曹氏。高祖6年、肥を斉王に立て70城を与え、斉語を話せる民は皆斉王に付けた。
  • 斉王は孝惠帝の兄。孝惠帝2年、斉王入朝し惠帝と家人の礼で酒宴を持った。呂太后が怒り誅殺しようとしたが、内史勲の計により城陽郡を献上して魯元公主の湯沐邑とし、事なきを得て帰国できた。
  • 悼惠王は在位12年、惠帝6年に死去。子の襄が立ち哀王となる。

呂氏専権期の斉

  • 哀王元年、孝惠帝崩御、呂太后が称制。2年、高后は兄の子呂台を呂王に立て斉の済南郡を割いてその封邑とした。
  • 哀王3年、弟の章が漢に宿衛入りし呂太后により朱虚侯に封ぜられ呂禄の娘を娶らされた。4年後、弟の興居も東牟侯に封ぜられ、共に長安で宿衛した。
  • 哀王8年、高后は斉の琅邪郡を割いて営陵侯劉沢を琅邪王に立てた。
  • 翌年、趙王友が入朝し邸で幽閉死。3人の趙王がみな廃され、高后は諸呂を3王に立て権勢をふるった。
  • 朱虚侯章は20歳、剛勇の士。宴席で酒吏となり、軍法により酒を行うと申し出て許され、逃げた呂氏の一人を追って斬殺した。太后の左右は驚いたが、軍法を許した手前咎められず。これ以降諸呂は朱虚侯を憚り、大臣も朱虚侯に依るようになった。

諸呂誅滅と斉王擁立の企て

  • 翌年、高后が崩御。趙王呂禄が上将軍、呂王産が相国となり長安に集結して兵権を握り、乱を図った。朱虚侯章は呂禄の娘を妻としていたためその謀を知り、密かに人を遣り兄の斉王に告げ、西へ発兵させて朱虚侯・東牟侯が内応して諸呂を誅し斉王を帝に立てようとした。
  • 斉王は舅の駟鈞、郎中令祝午、中尉魏勃と謀り発兵。斉相召平が王宮を守ろうとしたが、魏勃に欺かれ逆に相府を包囲され、召平は「当断不断、反受其乱」と嘆いて自殺した。斉王は駟鈞を相、魏勃を将軍、祝午を内史とし国中の兵を挙げた。
  • 祝午は琅邪王を欺き、斉王のため兵を率いて西征を助けるよう臨菑に誘い出し、そのまま留め置いて琅邪の兵も併合した。
  • 欺かれたことを悟った琅邪王劉沢は、斉王に「大王こそ高帝の適長孫で立つべきだが、諸大臣が決めかねている今、自分が劉氏で最年長ゆえ入関して取り決めるほうがよい」と説き、斉王はこれを納得し車を整えて送り出した。
  • 琅邪王出発後、斉は済南に進撃。哀王は諸侯に檄文を送り、高后・諸呂の専権と趙王殺害・梁燕趙の分裂・斉の四分割を非難し、不当な王を誅すると宣言した。
  • 漢は斉の挙兵を聞き、相国呂産は大将軍灌嬰を東へ派遣したが、灌嬰は滎陽で「諸呂を滅ぼす前に斉を破れば呂氏を利するだけ」と考え兵を留め、斉王・諸侯と結んで呂氏の変を待った。斉王も済南を取り戻し西境に屯兵した。
  • 呂禄・呂産が関中で乱を図ると、朱虚侯・太尉周勃・丞相陳平らがこれを誅した。朱虚侯が真っ先に呂産を斬り、太尉勃らが諸呂を誅滅した。琅邪王も斉から長安に至った。
  • 大臣らは斉王擁立を議したが、琅邪王らは斉王の母家駟氏が「虎冠」と評される悪しき一族であることを理由に反対し、母家が君子とされる代王を推挙。大臣は代王擁立を決め、朱虚侯を遣わして誅呂の顛末を斉王に告げ罷兵させた。
  • 灌嬰は滎陽で、魏勃が元々斉王に反を勧めたと聞き呼び出して詰問した。魏勃は「失火の家、大人に断ってから消すいとまなし」と弁明し震え上がり、それ以上は語らなかった。灌嬰は「勇者と評判の魏勃も凡庸な男に過ぎぬ」と笑って放免した。
  • 魏勃の逸話:父は琴で秦皇帝に見えた。魏勃は若く貧しく、斉相曹参邸の門前を毎夜掃いて謁見を求め、舎人となって曹参に評価され悼惠王に推挙されて内史となった。悼惠王の代から二千石を自ら任命でき、哀王の代には斉相以上の実権を持った。

文帝即位後の斉再編

  • 斉王が罷兵して帰り、代王が即位し孝文帝となった。
  • 文帝元年、高后時代に割かれた城陽・琅邪・済南の3郡を斉に復帰させ、琅邪王を燕王に転封し、朱虚侯・東牟侯にそれぞれ2000戸を加増した。
  • 同年、斉哀王が死去し太子則が立ち文王となる。
  • 文王元年、漢は斉の城陽郡で朱虚侯を城陽王、済北郡で東牟侯を済北王に立てた。
  • 2年、済北王が反し漢に誅殺され、その地は漢に入った。
  • 後2年、文帝は斉悼惠王の子罷軍ら7人を皆列侯に封じた。
  • 文王は在位14年で死去、子なく国除、地は漢に入った。
  • 翌年、文帝は悼惠王の子らに斉を分封した。斉孝王将閭(悼惠王の子、楊虚侯)を斉王とし、他の子たちを済北王(志)・済南王(辟光)・菑川王(賢)・膠西王(卬)・膠東王(雄渠)に立て、城陽と合わせて計7王とした。

呉楚の乱と斉孝王

  • 孝王11年、呉王濞・楚王戊が反乱し「賊臣鼂錯を誅し宗廟を安んず」と諸侯に告げた。膠西・膠東・菑川・済南は呉楚に応じ擅に挙兵したが、斉孝王は動揺しつつ籠城して従わず、3国軍に臨菑を幾重にも包囲された。
  • 斉王は路中大夫を天子に遣わし、天子は「堅く守れ、まもなく呉楚を破る」と返答を託したが、路中大夫は3国軍に捕らえられ「漢はすでに敗れた、斉は降れ」と偽って告げるよう脅された。路中大夫は表向き承知しながら城下で真実(漢が呉楚百万の兵を発し太尉周亞夫に撃破させつつあり援軍が来る、堅守すべし)を叫び、3国軍に誅された。
  • 斉は当初包囲の急に3国と密かに通謀しかけたが、路中大夫の言葉を聞いて喜び大臣も王に降伏しないよう勧めた。まもなく漢将欒布・平陽侯らが到着し3国軍を撃破、斉の包囲を解いた。しかしその後、斉が当初3国と通謀していたことが発覚し兵を向けられそうになると、斉孝王は毒を飲んで自殺した。
  • 景帝は斉が本来忠実で脅迫による謀議であり罪はないとして、孝王の太子寿を斉王(懿王)に立て後を継がせた。膠西・膠東・済南・菑川の4王は誅滅され地は漢に入った。済北王は菑川に移封された。懿王は在位22年で死去、子の次景が立ち厲王となる。

齊厲王の醜聞と滅亡

  • 厲王の母は紀太后。太后は弟の紀氏の娘を厲王の后に迎えたが王は寵愛せず、太后は長女の紀翁主を後宮に入れて厳しく取り仕切らせたが、王はかえって姉の翁主と姦通した。
  • 斉の宦者徐甲が漢の皇太后に仕え、皇太后の愛女脩成君(劉氏でない)の娘娥を諸侯に嫁がせようとして斉に遣わされた。斉人主父偃は自分の娘も後宮に入れるよう頼んだが、紀太后は「斉には既に后がおり、貧しい宦者や主父偃の娘の話など聞く耳もたぬ」と一蹴した。徐甲は皇太后に「王は娥を娶りたいが、燕王のような害(近親相姦)がある」と偽って報告し、太后は縁談を諦めた。この一件で主父偃は斉と確執を持つに至った。
  • 主父偃は天子に寵用され「臨菑十万戸・市租千金の斉は長安に匹敵し、天子の親子でなければ王たりえない。今の斉王は皇室から縁が薄い」と述べ、さらに「呂太后時代・呉楚の乱の際にも斉は乱を図った、今また王が姉と姦通していると聞く」と讒言した。天子は主父偃を斉相に任じ事を正させた。主父偃は王の後宮の宦者を厳しく取り調べ、証言をすべて王に結びつけさせた。若い斉王は大罪を恐れ毒を飲んで自殺し、後継なく国は絶えた。
  • 趙王は主父偃が自分にも累を及ぼすことを恐れ、収賄・専横を上書して弾劾。天子は主父偃を投獄した。公孫弘は「斉王を憂死させ後継を絶やしたのは偃、彼を誅さねば天下の非難は塞げない」と進言し、主父偃は誅殺された。
  • 斉厲王は在位5年で死去、後継なく国は漢に入った。

城陽・済北など分王の末裔

  • 斉悼惠王の後裔で残る国は城陽・菑川。菑川は斉に隣接する地。天子は斉を憐れみ、悼惠王の墓園がある地(臨菑東方の環邑)を割いて全て菑川に与え、悼惠王の祭祀を続けさせた。
  • 城陽景王章:悼惠王の子。朱虚侯として大臣と共に呂氏を誅し、自ら未央宮で相国呂王産を斬った功により2000戸を加増され金千斤を賜った。孝文2年、斉の城陽郡で城陽王に立ち2年で死去、子の喜(共王)が継いだ。
  • 共王8年、淮南へ転封、4年後に城陽へ復帰。在位計33年で死去、子の延(頃王)が継いだ。
  • 頃王26年、子の義(敬王)が継いだ。敬王は9年で死去、子の武(惠王)。惠王は11年で死去、子の順(荒王)。荒王は46年で死去、子の恢(戴王)。戴王は8年で死去、子の景が継ぎ、建始3年に15歳で死去した。
  • 済北王興居:悼惠王の子、東牟侯として大臣の呂氏誅滅を助けたが功は小さかった。文帝が代より来た際、太僕嬰と共に「宮中を清めさせてほしい」と願い出て少帝を廃し、大臣と共に孝文帝を擁立した。
  • 文帝2年、済北王に立つ(城陽王と同時)。呂氏誅滅の折、朱虚侯には趙地を、東牟侯には梁地を与える約束があったが、文帝は両者が当初斉王擁立を図ったと聞き功を減じ、両者はそれぞれ済北・城陽の2郡を分与されたに留まり不満を抱いた。章の死後、興居は匈奴の大挙侵入と文帝親征の報を聞き、天子自ら胡を撃つと考え発兵して済北で反乱を起こした。天子はこれを聞き丞相と出兵を止めて長安に帰し、棘蒲侯柴将軍に済北王を撃破させた。王は自殺し地は漢に入り郡となった。
  • 13年後、文帝16年、悼惠王の子・安都侯志を再び済北王に立てた。11年、呉楚の乱では志は堅守し諸侯の謀に加わらなかった。乱平定後、志は菑川へ転封された。
  • 済南王辟光:悼惠王の子、勒侯として文帝16年済南王となる。11年、呉楚に呼応して反乱、漢に撃破されて殺され、済南は郡となり漢に入った。
  • 菑川王賢:悼惠王の子、武城侯として文帝16年菑川王となる。11年、呉楚に呼応して反乱、漢に撃破されて殺された。
  • 天子は済北王志を菑川に転封した(菑川王賢の乱後、後継なし)。志は在位計35年で死去、諡は懿王。子の建(靖王)は20年で死去、子の遺(頃王)は36年で死去、子の終古(思王)は28年で死去、子の尚(孝王)は5年で死去、子の横が継ぎ建始3年、11歳で死去した。
  • 膠西王卬:悼惠王の子、昌平侯として文帝16年膠西王となる。11年、呉楚に呼応して反乱、漢に撃破されて殺され、膠西郡となった。
  • 膠東王雄渠:悼惠王の子、白石侯として文帝16年膠東王となる。11年、呉楚に呼応して反乱、漢に撃破されて殺され、膠東郡となった。

史論

  • 太史公曰く、諸侯の大国で斉悼惠王を上回るものはない。天下平定の初め、子弟がまだ少なく、秦が一尺の土も同姓に分封しなかったことを鑑み、大いに同姓を封じて万民の心を鎮めた。その後分裂したのも自然の理である。