史記卷五十一 世家第二十一 燕王劉澤

要約

燕王劉澤は劉氏の遠縁で、高帝三年に郎中となり、高帝十一年には将軍として陳豨を撃ち王黄を捕らえた功により営陵侯となった。斉人田生は策謀をもって澤に取り入り金二百斤を贈らせ、いったん去った後に大邸宅を構えて呂后の寵臣張卿に接近し、太后が呂産を王に立てたがっている胸中を察して大臣にほのめかすよう説かせ、呂太后を喜ばせた。その功で呂産が呂王となると、田生はさらに澤を琅邪王に推挙させ、澤は急ぎ国へ赴いて呂氏の追及を逃れた。高后崩御後、澤は「帝は幼く諸呂が権力を握り劉氏は孤立している」と見て兵を率い斉王と結んで西進を図ったが、途中で単騎長安に馳せ参じ、諸将とともに代王(文帝)を迎え立てた。天子はそこで澤を移して燕王とし、琅邪はもとの斉に返した。澤の死後、子の嘉、孫の定国と継いだが、定国は父の妃や弟の妻、実の娘とまで姦通し、告発者を殺して口を封じたため発覚し、朝廷に禽獣の行いとして誅されるべしとされ自殺、国は廃された。太史公は、劉賈が策略により江淮を鎮め、劉澤も権謀によって呂氏を刺激しつつ三代にわたり王位を保ったことを、事の絡み合いの妙として評した。

年表

劉氏の遠い一族に連なる燕王劉澤。郎中から出発し、高帝十一年の功により営陵侯となった。呂后期に田生の策で琅邪王に立てられ、太后崩御後は諸呂誅滅の兵を挙げたのち燕王に移封された。孫の定国は乱倫の罪で国を除かれた。

年表(3件)
  • 高帝
  • 三年郎中となる
  • 十一年将軍として陳豨を撃ち王黄を捕らえ、営陵侯となる
  • 元朔元年孫定国の乱倫が発覚し自殺、国は廃された

現代語訳全文

燕王劉澤の出自

  • 燕王劉澤は、劉氏の遠い一族であった。高帝三年、澤は郎中となった。高帝十一年、澤は将軍として陳豨を撃ち、王黄を捕らえ、営陵侯となった。

田生の説得

  • 高后のとき、斉の人である田生は遊説に窮乏していたが、計略をもって営陵侯澤に取り入った。澤は大いにこれを喜び、金二百斤を田生の長寿祝いに贈った。
  • 田生はすでに金を得ると、すぐに斉へ帰った。二年後、澤は人を遣わして田生に言わせた、「もう贈らないぞ」と。
  • 田生は長安へ赴いたが、澤には会わず、大きな邸宅を借り、その子に呂后の寵臣である大謁者張子卿に取り入らせた。
  • 数ヶ月して、田生の子は張卿を招いて臨席してもらい、自ら食事の準備を整えた。張卿は行くことを承知した。
  • 田生は帷帳を盛んに飾り具えて、まるで列侯のような饗応をした。張卿は驚いた。
  • 酒がたけなわになると、人を退けて張卿に説いて言った、「私が見るところ、諸侯王の邸宅は百軒あまりありますが、いずれも高祖の一通りの功臣たちのものです。
  • 今、呂氏はもとより高帝を推し立てて天下を取らせたのであり、その功績は極めて大きく、また太后の身近な親族という重みもあります。
  • 太后は歳を重ねられ、諸呂はまだ弱いので、太后は呂産を王に立てて、代の王としようとされています。しかし太后はまたこれを言い出すことをためらっておられます、大臣が聞き入れないことを恐れておられるのです。
  • 今、あなたは最も寵愛を受けており、大臣にも敬われています、どうして大臣にほのめかして太后にこのことを聞き入れさせないのですか、太后はきっとお喜びになるでしょう。
  • 諸呂がすでに王となれば、万戸侯の位もまたあなたのものとなるでしょう。太后は内心これを望んでおられるのに、あなたはこれまで宮中の臣として、急いでこれを実行しなければ、禍がわが身に及ぶことを恐れます」と。
  • 張卿はこれを大いにもっともだと思い、そこで大臣にほのめかして太后にこのことを語らせた。太后が朝見を受けると、大臣に問うた。大臣は呂産を立てて呂王とすることを求めた。
  • 太后は張卿に金千斤を賜い、張卿はその半分を田生に与えた。田生はこれを受け取らず、そこでこう説いた、「呂産が王となっても、諸大臣はまだ大いに心服しておりません。
  • 今、営陵侯澤は劉氏の一族であり、大将軍でありながら、ひとりこれに不満を抱いております。今、あなたが太后に申し上げ、十数県を連ねてこれの王としてやれば、彼は王を得て、喜んで去り、諸呂の王位はますます固まることでしょう」と。
  • 張卿が入って言上すると、太后はこれをもっともだと思った。そこで営陵侯劉澤を琅邪王とした。
  • 琅邪王はそこで田生とともに国へ赴いた。田生は澤に急いで行くよう勧め、留まらないようにさせた。関を出たとき、太后は果たして人を遣わしてこれを追って引き止めようとしたが、すでに関を出ていたので、そのまま帰った。

呂氏誅滅と燕王への転封

  • 太后が崩じるに及んで、琅邪王澤はこう言った、「帝は幼く、諸呂が権力を握っている、劉氏は孤立して弱い」と。
  • そこで兵を率いて斉王と合謀して西へ向かい、諸呂を誅そうとした。梁に至り、漢が灌将軍を遣わして滎陽に駐屯させたと聞き、澤は兵を返して西の国境を守り、そのまま単騎で長安へ馳せ参じた。
  • 代王もまた代から到着した。諸将は琅邪王とともに代王を立てて天子とした。天子はそこで澤を移して燕王とし、そして再び琅邪を斉に返し、もとの地に戻した。

燕王澤の系譜と定国の淫乱

  • 澤は燕で王となって二年、薨じ、諡は敬王といった。子の嘉に伝わり、康王となった。
  • 孫の定国に至り、父の康王の妃と姦通し、男子を一人生んだ。弟の妻を奪って自分の妃とした。子の娘三人とも姦通した。
  • 定国は誅殺しようとした臣下がいた、肥如の令である郢人であった。郢人らが定国のことを告発すると、定国は謁者に命じて他の罪状で郢人を捕らえ、これを撲殺して口を封じさせた。
  • 元朔元年に至り、郢人の兄弟が再び上書して定国の秘事を詳しく告げ、これによって発覚した。
  • 詔を公卿に下し、皆議して言った、「定国は禽獣のような行いをし、人倫を乱し、天に逆らっている、誅殺されるべきである」と。
  • 上(皇帝)はこれを許した。定国は自殺し、国は廃されて郡となった。

史論

  • 太史公は言う。荊王が王となったのは、漢がようやく天下を定めたばかりで、天下がまだ落ち着いていなかったためである、それゆえ劉賈は血縁が疎遠であったとはいえ、策略によって王となり、江淮の間を鎮めることになった。
  • 劉澤が王となったのは、権謀によって呂氏を刺激することによるものであったが、しかし劉澤はついに南面して孤(王の自称)を称すること三代に及んだ。
  • 事の発端は互いに絡み合っていた、なんと偉なることではないか。