史記卷五十 楚元王世家第二十 劉交(楚元王)
高祖劉邦の同母の末弟、楚元王劉交(字は游)の世家。高祖6年に楚王に立てられ彭城を都とした。子孫は代々楚王を継いだが、景帝の代に王戊が呉楚の乱に加担して敗死し、後に元王の子礼(楚文王)が跡を継いで存続した。附伝として、高祖の子で趙幽王友の子孫にあたる趙王遂の系譜も収める。趙王遂も呉楚の乱に呼応して挙兵し、漢軍に邯鄲を水攻めにされ自殺、趙国は一時断絶した。
年表(11件)
- 高祖
- 6年楚王韓信を捕らえた後、弟の交が楚王に立てられ彭城を都とした
- 楚元王
- 在位23年元王が没し子の夷王郢が立った
- 夷王
- 在位4年夷王が没し子の王戊が立った
- 王戊即位20年薄太后服喪中の私通で東海郡を削られ、呉王と共謀して反乱を起こしたが敗れて自殺した
- 文王
- (礼)即位3年文王が没し子の安王道が立った
- 安王
- 在位22年安王が没し子の襄王注が立った
- 襄王
- 在位14年襄王が没し子の王純が立った
- 地節2年(BCE68年)王純が謀反を告発され自殺し、楚国は除かれ彭城郡となった
- 趙王
- 遂在位26年鼂錯の献策で常山郡を削られ、呉楚の乱に呼応して挙兵したが漢軍に邯鄲を水攻めにされ自殺した
- 孝文帝
- 即位2年遂の弟辟彊を河閒王に立てた(文王)
- 文王
- (辟彊)在位13年文王が没し子の哀王福が立ったが1年で没し後継が絶え国は除かれた
出自
- 楚元王劉交は、高祖の同母の末弟で字は游。
兄弟の処遇と羹頡侯の逸話
- 高祖の兄弟は四人。長兄の伯は早くに死んだ。高祖が微賤であった頃、しばしば事を避けて賓客とともに長兄の嫁(巨嫂)の家で食事をしたが、嫂はこれを嫌い、客が来るとわざと羹(スープ)が尽きたふりをして釜を掻き鳴らし、客を帰らせた。後に釜の中にまだ羹が残っていたことを見た高祖は嫂を怨んだ。高祖が即位し兄弟を封じた際、伯の子だけは封じられなかった。太上皇がこれを咎めると高祖は「忘れたのではない、彼の母が長者ではなかったからだ」と述べ、結局伯の子信を羹頡侯に封じた。次兄の仲は代に王とした。
楚元王の即位と代々の継承
- 高祖六年、楚王韓信を陳で捕らえたのち、弟の交を楚王に立て彭城を都とした。在位二十三年で卒し、子の夷王郢が立った。夷王は四年で卒し、子の王戊が立った。
王戊の反乱と楚文王の即位
- 王戊は即位二十年、冬に薄太后のための服喪中に私通した罪で東海郡を削られた。春、戊は呉王と共謀して反し、相の張尚・太傳の趙夷吾が諫めたが聞かず、戊は張尚・趙夷吾を殺し、呉とともに西の梁を攻め棘壁を破った。昌邑の南に至り漢将周惡夫(周亜夫)と戦ったが、漢軍が呉楚の糧道を断ったため士卒は飢え、呉王は敗走、楚王戊は自殺し軍は漢に降った。
- 漢が呉楚を平定した後、孝景帝は徳侯(呉の一族)の子に呉を継がせ、元王の子礼に楚を継がせようとした。竇太后は「呉王は老人であり本来宗室として順善であるべきだった。それが率先して七国の反乱を起こし天下を乱したのだから、その後を継がせてはならぬ」と述べ、呉の継承は許さず楚の継承のみ許した。当時、礼は漢の宗正であったが、楚王に任じられ元王の宗廟を奉じ、楚文王となった。
その後の楚王の系譜
- 文王は即位三年で卒し、子の安王道が立った。安王は二十二年で卒し、子の襄王注が立った。襄王は在位十四年で卒し、子の王純が代わって立った。王純の代、地節二年(BCE68年)、ある人が楚王の謀反を告発し、王は自殺、国は除かれ彭城郡として漢に編入された。
趙幽王と趙国の顛末
- 趙王劉遂は、その父を高祖の次子で名は友、諡を「幽」といった。幽王は憂いのうちに死んだためこの諡がついた。高后は呂祿を趙王に立てたが一年で高后が崩じた。大臣が諸呂を誅した際、幽王の子遂が趙王に立てられた。
- 孝文帝即位二年、遂の弟辟彊を趙の河閒郡に立てて河閒王とし、これを文王という。在位十三年で卒し、子の哀王福が立ったが一年で卒し、子がなく後継が絶え、国は除かれ漢に編入された。
- 遂は趙王として二十六年、孝景帝の代、鼂錯の献策により適法な理由で趙王の常山郡を削られた。呉楚の乱に際し趙王遂も共謀して挙兵。相の建德、内史の王悍が諫めたが聞き入れず、遂は建德・王悍を焼き殺し、西界に兵を屯して呉の西進を待ち、北の匈奴に使者を送り連合して漢を攻めようとした。漢は曲周侯酈寄に討伐させ、趙王遂は邯鄲に籠城し七ヶ月抗戦した。呉楚の軍が梁で敗れ西進できなくなると、匈奴もこれを聞いて動きを止め漢の辺境に入らなかった。斉討伐から戻った欒布は軍を合わせて趙城に水を引き入れ、城は壊れ趙王は自殺し邯鄲は降伏した。趙幽王の後継は絶えた。
史論
- 太史公曰く、国が興ろうとするときは必ず吉祥があり、君子が用いられ小人は退けられる。国が滅びようとするときは賢人が隠れ乱臣が貴ばれる。もし楚王戊が申公を刑罰に処さずその言に従い、趙が防與先生を任用していたなら、簒奪や殺戮の謀はなく天下の恥辱を受けることもなかったであろう。賢人こそ肝要、賢人こそ肝要である。実質を備えていなければどうしてこれを用いることができようか。まことに「安危は号令の出し方にあり、存亡は人材の任用にあり」との言葉は真実である。