史記卷四十七 孔子世家第十七 孔子
魯の陬邑に生まれた孔子(字は仲尼、BCE551–BCE479年)。若くして礼を修め、魯で中都の宰から大司寇・摂相事に昇り、夾谷の会盟や三都を墮つ策で功を挙げたが、季桓子の懈怠により魯を去り、衛・匡・宋・鄭・陳・蔡・楚など諸国を14年にわたり遊歴し、しばしば困厄に遭いながらも教えを説き続けた。晩年魯に戻り、詩書礼楽易を整理し『春秋』を作って三千の弟子を教えた儒家の祖。没後もその学統は歴代の学者に規範として仰がれた。
年表(15件)
- 魯襄公22年前551年昌平郷陬邑に生まれた
- 孔子十七歳孟釐子の遺言により懿子・南宮敬叔が礼を学びに来た
- 魯昭公20年前522年斉景公に秦穆公の覇道を説いた
- 孔子三十五歳魯の内乱を避け斉に赴き高昭子の家臣となった
- 孔子四十二歳魯定公が立った
- 定公五年季平子が死に桓子が嗣いだ
- 定公九年陽虎が斉に奔り、五十歳の孔子は中都の宰に任じられた
- 定公十年前500年夾谷の会盟で摂相事を務め、斉に鄆等の地を返還させた
- 定公十三年三桓の城を取り壊す墮三都を進めた
- 定公十四年大司寇から摂相事となり少正卯を誅殺した
- 定公十四年季桓子が斉の女楽を受け政を怠ったため魯を去った
- 魯哀公三年前492年衛出公が即位した
- 魯哀公六年前489年楚から衛に戻った
- 魯哀公十四年前481年大野の狩りで麟を得て「わが道は窮まった」と嘆き春秋の筆を絶った
- 魯哀公十六年四月己丑前479年73歳で没した
出自と生い立ち
- 孔子は魯の昌平郷陬邑の人。祖先は宋人で、孔防叔に始まる。防叔は伯夏を生み、伯夏は叔梁紇を生んだ。
- 叔梁紇は顏氏の女と野合して孔子を生んだ。尼丘に禱って孔子を得たという。魯襄公二十二年(前551年)の生まれ。頭頂がくぼんでいたため名を丘、字を仲尼、姓を孔氏という。
- 孔子が生まれてまもなく叔梁紇は死に、防山に葬られた。母は墓所を秘したため、孔子は父の墓を知らなかった。幼時から俎豆を並べ礼容をまねる遊びをした。母の死後、五父の衢に殯し、のちに郰人輓父の母の教えで防山に合葬した。
- 若くして季氏の饗応に赴いたが、陽虎に「士のための饗応で汝のためではない」と拒まれ退いた。
- 十七歳のとき、魯の大夫孟釐子が病死に際し、嗣子懿子に「孔丘は聖人の後裔であり、必ず達者となる。私が死んだら師事せよ」と遺言した。釐子の死後、懿子と南宮敬叔は孔子に礼を学んだ。この年、季武子が卒し平子が代わった。
- 孔子は貧賤の身から身を起こし、季氏の下で会計を掌る史、のち牧畜を掌る司職吏を務め、いずれも職務を全うした。のち司空となった。一時魯を去り斉・宋・衛を転々とし陳蔡の間で困窮したがのち魯に戻った。身長九尺六寸で「長人」と呼ばれ人々に異とされた。魯が厚遇したため戻ったという。
周への遊学と老子
- 南宮敬叔の進言で魯君は孔子に車馬と従者を与え、周に赴いて礼を問わせた。その際老子に会ったという。老子は「聡明で人を批判する者は死に近づき、博弁で人の悪を暴く者は身を危うくする。子たる者、臣たる者は己を恃みとしないように」と餞の言葉を送った。孔子は周から魯に戻り、弟子が次第に増えた。
斉への亡命
- 当時、晉の平公は淫乱で六卿が権を専らにし、楚の霊王は強兵で中原を脅かし、斉は大国として魯に迫っていた。魯は小国で晉・楚・斉のいずれにも従いがたい立場にあった。
- 魯昭公二十年(前522年)、孔子三十歳のころ、斉の景公が晏嬰を伴い魯に来た際、景公が「秦穆公は小国辺地から覇者となったのはなぜか」と問い、孔子は「志が大きく行いが正しかったため。五羖大夫を抜擢し重用したことにより、王たる資質さえあった」と答え、景公は喜んだ。
- 孔子三十五歳のとき、季平子と郈昭伯の闘鶏を発端に魯昭公が季平子を攻めたが、季氏・孟氏・叔孫氏の三家が結束して昭公を破り、昭公は斉に奔った(乾侯に留め置かれる)。魯が乱れたため孔子は斉に赴き、高昭子の家臣となって景公に近づこうとした。斉の太師と音楽を論じ、《韶》を学んで三月肉の味を忘れるほど没頭し、斉人に称賛された。
- 景公が政を問うと孔子は「君君、臣臣、父父、子子」と答え、景公は深く賛同した。のちにまた政を問われ「政は節財にあり」と答えた。景公は尼谿の田を孔子に封じようとしたが、晏嬰が「儒者は滑稽で法に則らず、喪礼を崇めて家産を破り、遊説して国政に適さない」と諫めたため取りやめ、また「季氏並みには待遇できぬ」と告げた。斉の大夫が孔子を害そうとする動きもあり、景公も「老いて用いられぬ」と告げたため、孔子は魯に帰った。
定公即位から仕官まで
- 孔子四十二歳のとき魯昭公が乾侯で没し定公が立った。定公五年、季平子が死に桓子が嗣いだ。桓子が井戸を掘って土缶を得て「羊のような」ものを「狗」と偽って孔子に問うたところ、孔子は木石の怪は夔・罔閬、水の怪は龍・罔象、土の怪は墳羊であると正しく答えた。
- 呉が越を伐ち会稽を破って専車ほどの巨大な骨を得た際、呉の使者が孔子に問うと、孔子は禹が会稽山に群神を集めた際に遅参した防風氏を誅殺した故事を語り、山川の神・封禺の山を守る汪罔氏の系譜、また巨人の身長の限度(僬僥氏三尺・長者もその十倍まで)を答え、呉の客に「聖人なるかな」と賞賛された。
- 桓子の嬖臣仲梁懷と陽虎が対立し、陽虎が懷を捕えたことから桓子も陽虎に囚われた(のち盟をして釈放)。以後陽虎は季氏を軽んじ、陪臣が国政を専らにする状態となり、魯の秩序は乱れた。孔子はこの間仕官せず、詩書礼楽を修め、弟子はますます増えた。
- 定公八年、公山不狃が季氏に不満を持ち陽虎と結んで三桓の嫡流を廃そうとして季桓子を捕えたが、桓子は謀って脱した。定公九年、陽虎は敗れて斉に奔った。このとき孔子は五十歳。
- 公山不狃が費を拠点に季氏に反し孔子を招いたが、子路が反対し、結局孔子は赴かなかった(「我を用いる者あれば東周を興そう」と述べたのみ)。
- その後定公は孔子を中都の宰に任じ、一年で四方が模範とするほど治績を挙げた。中都宰から司空、司空から大司寇に昇進した。
夾谷の会盟
- 定公十年(前500年)春、魯斉が講和し、夏、斉の大夫黎鉏の進言で夾谷での会盟が持たれた。孔子は摂相事として「文事には武備、武事には文備が要る」と左右司馬を具えることを進言し、定公はこれを許した。
- 会見の場で斉が「四方の楽」と称し夷狄の楽舞を奏そうとすると、孔子は壇に上り「両君の好会に夷狄の楽は不要」と制止し、景公は恥じてこれを退けた。次に「宮中の楽」として俳優・侏儒が戯れると、孔子は「匹夫が諸侯を惑わすは死罪」と有司に命じ、手足を斬らせた。景公は畏れ、帰国後、群臣に「魯は君子の道で君を輔けたが、私は夷狄の道で王を誤らせた」と嘆いた。有司の勧めに従い、斉は魯から奪っていた鄆・汶陽・龜陰の田を返還し謝罪した。
三都を墮つ
- 定公十三年夏、孔子は定公に「臣下に私兵を蓄えさせず、大夫の城は百雉を越えさせない」よう進言し、仲由(子路)を季氏の宰として三桓の居城を取り壊させる計画(墮三都)を進めた。まず叔孫氏の郈を取り壊した。
- 季氏の費を取り壊そうとした際、公山不狃・叔孫輒が費人を率いて魯を襲い、定公と三桓は季氏の宮に入り武子の台に登った。費人の攻撃を孔子は申句須・樂頎に命じて撃退させ、費人は敗走し姑蔑で討たれた。公山不狃・叔孫輒は斉に奔り、費は取り壊された。
- 孟氏の成を取り壊そうとしたが、公斂処父が「成を失えば斉が北門に迫り、孟氏の保塁がなくなる」と反対し、成の攻略は失敗に終わった。
大司寇摂相事と少正卯誅殺
- 定公十四年、孔子五十六歳、大司寇から摂相事となり喜色を見せた。門人が「君子は禍に恐れず福に喜ばずと聞く」と問うと、孔子は「貴きをもって人に下るを楽しむのだ」と答えた。魯の乱政の大夫少正卯を誅殺し、国政に参与すること三月で、商人は不当な価格をつけず、男女の別が保たれ、遺失物も拾われず、他国の客も便宜を得られるほど治まった。
- 斉はこれを恐れ、覇を唱えられれば領地を脅かされると危惧し、黎鉏の献策で美女八十人と文馬三十駟を魯に贈った。季桓子はこれを受け入れ、定公とともに遊興にふけり政務を怠った。子路の進言に対し孔子は「郊祭の際に大夫へ膰肉が届けば留まる」と待ったが、桓子は女楽を受けたのち三日政を聴かず、郊祭の膰肉も大夫に届けなかったため、孔子は遂に魯を去った。屯の地で師己が見送り、孔子は「彼婦の口、以て出走すべし。彼婦の謁、以て死敗すべし」と歌った。師己が桓子に報告すると、桓子は「夫子は私を群婢の故で責めたのだ」と嘆いた。
衛への亡命と匡・蒲での遭難
- 孔子は衛に至り子路の妻兄顏濁鄒の家に寄寓した。衛霊公に禄六万を給された。ある人が孔子を讒言したため霊公が監視をつけたことを恐れ、十ヶ月ほどで衛を去った。
- 陳へ向かう途中、匡で御者顏刻が「かつてここから侵入した」と語ったのを匡人が陽虎の再来と誤認し、孔子を五日間拘禁した。孔子は「文王既に没するも文はここに在り。天いまだ斯の文を喪ぼさざれば、匡人我を如何せん」と述べ、のち衛の甯武子の臣を頼って脱した。
- 蒲を経て衛に戻り蘧伯玉の家に寄寓。衛霊公夫人南子の求めに応じ已むを得ず面会。子路が不満を示すと孔子は天に誓って潔白を主張した。のち霊公が夫人と同車し宦者雍渠を陪乗させ孔子を次車とし市中を練り歩かせたことを恥じ、「吾未だ徳を好むこと色を好むが如き者を見ず」と述べて衛を去り、曹を経た。この年、魯定公が卒した。
宋・鄭・陳での逸話
- 曹から宋に至り、弟子と大樹の下で礼を習っていたところ、宋の司馬桓魋がその樹を抜いて孔子殺害を図った。孔子は「天、徳を予に生ず。桓魋それ予を如何せん」と述べて立ち去った。
- 鄭に至り弟子と離散し独り郭の東門に立っていたところ、鄭人が子貢に「その額は堯に、項は皋陶に、肩は子産に似るが、腰から下は禹に及ばず、喪家の狗のようだ」と評した。子貢がこれを告げると孔子は「容貌の評は末事だが、喪家の狗とはまことにその通り」と笑った。
- 陳に至り司城貞子の家に寄寓。呉王夫差が陳を伐ち三邑を奪って去り、趙鞅が朝歌を伐ち、楚が蔡を囲み蔡は呉に遷った。呉は越王句踐を会稽で破った。
- 隼が陳の廷に楛矢石砮を身に受けて死んだ際、陳湣公の問いに孔子は「これは粛慎の矢である。武王が商に克った後、九夷百蛮に方物を貢がせ、粛慎も楛矢石砮を貢いだ。先王はその令徳を示すため、この矢を娘の大姫に分け、虞胡公に配して陳に封じた」と由来を説明し、探させると果たして故府から発見された。
- 陳に三年いる間、晉楚の抗争と呉の侵攻で陳は度々被害を受けた。孔子は「帰らんかな。吾が党の小子は志高く進取的だが、初心を忘れている」と述べ陳を去った。
蒲での再度の遭難と衛への往還
- 蒲を過ぎる際、公叔氏が蒲を拠って畔いており、蒲人に留められた。弟子の公良孺が私車五乗で従い勇戦し、蒲人は恐れて「衛に行かなければ解放する」と誓約した。孔子は衛に向かい、子貢が「盟いは破ってよいのか」と問うと孔子は「強要された盟いに神は従わない」と答えた。
- 衛霊公は孔子の来訪を喜び郊迎し、蒲討伐の可否を問うた。孔子は「可」と答え、霊公は大夫の反対を伝えたが、孔子は「死を賭す男と西河を守る意志の女しかおらず、討つ相手は四五人に過ぎない」と述べた。霊公は納得したが結局蒲は討たなかった。
- 霊公は老いて政務を怠り孔子を用いなかった。孔子は「我を用いる者あれば期年で成果を挙げ、三年で成し遂げよう」と嘆いて衛を去った。
佛肸の招きと諸国遊歴の逸話
- 中牟の宰佛肸が趙簡子に叛き孔子を招いた。子路が「不善を行う者の下には入らぬと聞く」と諫めたが、孔子は「堅きものは磨いても薄くならず、白きものは染めても黒くならない。我は匏瓜ではない、繋がれて食われずにいられようか」と答えた(結局赴かなかった)。
- 磬を撃つ孔子を聞いた荷蕢の者が「志あるかな、この響き。誰も己を知らぬのに執着しているようだ」と評した。
- 孔子は師襄子に琴を学び、曲・技法・志・人物像の順に段階を踏んで深く理解し、最後に「威厳があり黒く、長身で遠くを望むような人物」を悟り、それが文王であると言い当てた。師襄子は席を退いて再拝し「これは《文王操》であった」と述べた。
- 衛で用いられなかった孔子が趙簡子を頼ろうと河まで来たとき、竇鳴犢・舜華という晉の賢大夫が趙簡子に殺されたと聞き、「美しい水よ、この河を渡らぬのは天命か」と嘆いた。子貢の問いに、孔子は「胎を裂き幼獣を殺せば麒麟は来ず、沢を涸らせば蛟龍は現れず、巣を壊せば鳳凰は舞わない。君子は同類を傷つけることを忌む」と説き、《陬操》を作って哀悼し、衛に戻り蘧伯玉の家に寄寓した。
- 衛霊公が軍陣について問うたとき、孔子は「俎豆の事は聞いたことがあるが、軍旅の事は学んでいない」と答え、翌日霊公が飛雁に気を取られ孔子を疎かにしたため、孔子は再び陳へ向かった。
衛出公の即位と陳での日々
- 夏、衛霊公が卒し孫の輒が立って衛出公となった。六月、趙鞅が太子蒯聵を戚に入れた。この歳(魯哀公三年、前492年)、孔子は六十歳。斉は蒯聵を擁して戚を包囲する衛を援けた。
- 夏、魯の桓廟・釐廟が焼け、南宮敬叔が消火にあたった。陳にいた孔子はこれを聞き「災いは必ず桓釐廟に起きたはず」と述べ、果たしてその通りだった。
- 秋、季桓子は病中に魯の城を望み「かつてこの国は興隆しかけたが、私が孔子に罪を得たため興らなかった」と嘆き、嗣子の康子に「相となれば必ず仲尼を召せ」と遺言した。桓子の死後、康子は召そうとしたが、公之魚に「先君も用い切れず諸侯の笑い者となった、また同じ轍を踏むな」と諫められ、代わりに冉求を召した。冉求の出立に際し孔子は「魯人が求を召すのは小さくは使わぬ意図だ」と述べ、帰国への望みを口にした。子贛(子貢)は冉求を見送り「用いられたら孔子を招くように」と託した。
陳蔡の困厄と楚への招聘
- 冉求が去った翌年、孔子は陳から蔡に移った。蔡昭公が呉に召され赴こうとした際、大夫たちは再遷を恐れ、公孫翩が昭公を射殺し、楚が蔡に侵攻した。秋、斉の景公が卒した。
- 翌年、孔子は蔡から葉に至った。葉公の政治の問いに「遠きを来たらせ近きを懐かせるにあり」と答えた。葉公が子路に孔子の人物を尋ね子路が答えられなかったことを聞き、孔子は「学を厭わず人を教えて倦まず、憤りを発して食を忘れ、楽しみて憂いを忘れ、老いの至るを知らぬ人だと答えればよい」と述べた。
- 葉を去り蔡に戻る途上、長沮・桀溺という隠者が耕作していた。子路が渡し場を尋ねると、二人は世を避ける生き方を説き、孔子を暗に批判した。子路の報告に孔子は「鳥獣とは群れられぬ。天下に道があれば私は変えようとしない」と述べた。別の日、荷蓧の丈人に会った子路は「四体を働かせず五穀も分からぬ者が夫子か」と批判された。
- 孔子が蔡に移って三年、呉が陳を伐ち、楚がこれを救援して城父に軍を置いた。楚は孔子を招聘しようとしたが、陳蔡の大夫は「孔子が楚に用いられれば我々が危うくなる」と謀り、徒役を発して孔子を野に囲んだ。食糧が尽き従者は病み倒れたが、孔子は講誦・弦歌を絶やさなかった。子路の「君子も窮することがあるのか」との問いに「君子固より窮す、小人窮すれば濫る」と答えた。
- 子貢が動揺した際、孔子は「予は多学して憶えているだけの者ではない、一を以て貫く」と説いた。子路・子貢・顏回にそれぞれ「わが道は間違っているのか、なぜここまで追い詰められるのか」と問い、子路は「仁・知が足りぬからでは」と答え、伯夷叔齊・比干の例を引いて反論された。子貢は「道を少し曲げてはどうか」と進言し「志が遠くない」と叱られた。顏回は「道が大きいゆえに容れられぬのだ、容れられずして初めて君子と分かる」と答え、孔子は喜び「顏氏の子よ、汝が富めば私はその宰となろう」と称えた。
- 子貢を楚に遣わすと楚昭王が軍を興して孔子を迎え、囲みを脱した。
楚昭王の招聘辞退と接輿
- 昭王が書社の地七百里で孔子を封じようとしたが、令尹子西は「王の使者・輔相・将率・官尹に子貢・顏回・子路・宰予に匹敵する者はいない。楚の祖は周から子男五十里に封じられたに過ぎぬのに、孔丘が三代の法を説き周召の業を明らかにすれば、楚は世々方数千里を保てなくなる。文王・武王も百里の君から天下の王となった。孔丘が土地と賢弟子を得れば楚の福とはならない」と諫め、昭王は取りやめた。その秋、楚昭王は城父で卒した。
- 楚の狂人接輿が孔子の前を歌いながら通り「鳳よ鳳よ、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諫めがたいが来る者はなお追える。已みなん已みなん、今の政に従う者は殆うい」と評した。孔子は下車して語ろうとしたが、避けられて言葉を交わせなかった。
衛への帰還と正名論
- 孔子は楚から衛に戻った。魯哀公六年(前489年)、孔子六十三歳。
- 翌年、呉が魯と繒で会し百牢を求め、太宰嚭が季康子を召したが子貢が赴いて事なきを得た。
- 孔子は「魯衛の政は兄弟のようなもの」と述べた。当時、衛の輒(出公)の父蒯聵は国外にあり諸侯にしばしば非難されていた。孔子の弟子の多くが衛に仕えており、衛君は孔子の登用を望んだ。子路が「衛君が政を任せたら何を先にするか」と問うと、孔子は「必ずや名を正すこと」と答え、「名正しからざれば言順わず、言順わざれば事成らず、事成らざれば礼楽興らず、礼楽興らざれば刑罰中らず、刑罰中らざれば民手足を措く所なし」と説いた。
冉有の戦功と魯への帰国
- 翌年、冉有が季氏の将として斉と郎で戦い勝利した。季康子が「軍事は学んだのか天性か」と問うと冉有は「孔子に学んだ」と答え、孔子の人物を問われ「用いれば必ず名を挙げ、民に施し鬼神に問うても恥じるところがない。千社を積んでも夫子は利を求めない」と答えた。康子が「召してよいか」と問うと「小人に妨げさせなければよい」と答えた。
- 一方、衛の孔文子が太叔を攻めようとし孔子に策を問うたが、孔子は答えず「鳥は木を選べても木は鳥を選べない」と述べて立ち去ろうとした。文子が引き留める一方、季康子が公華・公賓・公林を退け、幣礼をもって孔子を魯に迎えた。孔子が魯を去ってから十四年目のことであった。
魯での晩年
- 魯哀公の政治の問いに「臣を選ぶことにあり」と答え、季康子の問いには「直きを挙げて枉れるものの上に置けば、枉れる者も直くなる」と答えた。盗賊を憂う康子に「あなたが欲さなければ賞を与えても盗まぬ」と答えた。しかし魯は結局孔子を用いず、孔子も仕官を求めなかった。
詩書礼楽易の整理
- 周室が衰え礼楽が廃れ詩書が散逸する中、孔子は三代の礼を跡付け《書伝》を整理し、唐虞の際から秦繆に至るまでを編次した。「夏の礼は語れるが杞は証を成さず、殷の礼も宋は証を成さない。文献が足りていれば私は証を立てられる」と述べ、殷夏の損益を観て「百代の後も一文一質の変化として知り得る、周は二代を鑑として文華なり、我は周に従う」と語った。《書伝》《礼記》はここに孔氏より出た。
- 魯の大師に音楽論を語り「始めは翕如、続いて純如・皦如・繹如として一曲が成る」と説いた。また「衛から魯に帰ってのち音楽が正され、雅頌おのおのその所を得た」と述べた。
- 古の《詩》三千余篇から重複を除き礼義に適うものを選び、契・后稷に始まり殷周の盛時を経て幽厲の衰えに至るまでを男女の情から説き起こし、《関雎》を風の始め、《鹿鳴》を小雅の始め、《文王》を大雅の始め、《清廟》を頌の始めとした。三百五篇すべてを弦歌し韶武雅頌の音に合わせ、礼楽はここから伝えられ王道の完成、六藝の完備をみた。
- 晩年《易》を好み、《彖》《繋》《象》《説卦》《文言》を序した。読み込みすぎて韋編(竹簡を綴じた革紐)が三度切れるほどで、「あと数年生きられれば易に精通できよう」と語った。
- 詩書礼楽をもって教え、弟子はおよそ三千人、六藝に通じた者は七十二人。顏濁鄒のような外部の受業者も多かった。
人となりの逸話
- 孔子は文・行・忠・信の四つを教えの柱とし、意(憶測)・必(断定)・固(固執)・我(我執)の四つを絶ち、斉戒・戦争・疾病を慎んだ。利・命・仁について語ることは稀であった。憤りを発せぬ者には教えず、一隅を挙げて三隅を返せぬ者には繰り返し教えなかった。
- 郷党では慎み深く言葉少なく見え、宗廟朝廷では明晰に弁じつつも謹厳であった。朝廷では上大夫と語るとき和やかに、下大夫と語るとき快活であった。
- 公門に入るときは身をかがめ、趨り進むときは翼のように整い、君命で儐(接待役)を命じられると顔色を改め、召しがあれば車を待たずに出発した。
- 魚肉が傷んでいたり切り方が正しくなければ食さず、席が正しくなければ座らず、喪中の者の傍らで食するときは満腹にならなかった。
- 哭泣した日は歌わなかった。喪服の者や盲人を見ると、たとえ童子相手でも態度を改めた。
- 「三人行けば必ず我が師あり」「徳が修まらず学が講ぜられず、義を聞いても行いを改められないのが私の憂いだ」と語った。人の歌を聞き、善ければ繰り返させてから和した。
- 怪異・武力・変乱・鬼神については語らなかった。
- 子貢は「夫子の文章は聞けるが、天道性命についての話は聞けない」と述べた。顏淵は「仰げばいよいよ高く、鑽ればいよいよ堅い。前にあるかと思えば後ろにある。夫子は順序立てて人を導き、文で博く礼で約め、やめようにもやめられない」と述べた。達巷の党人が「孔子は博学だが名を成す専門がない」と評すると、孔子は「私は御(馬車操縦)を専らにしよう」と冗談を返し、弟子の牢は「試されなかったから諸芸に通じた、と夫子は仰った」と伝えた。
獲麟と春秋の作成
- 魯哀公十四年(前481年)春、大野での狩りで叔孫氏の御者鉏商が不吉な獣を得た。孔子はこれを見て「麟である」と述べた。「河に図出でず、洛に書出でず、我は已んぬるかな」と嘆いた。顏淵の死に際しては「天、予を喪ぼせり」と、麟を見ては「わが道は窮まった」と嘆き、「誰も私を知らない」と言った。子貢が理由を問うと「天を怨まず人を咎めず、下学して上達す、我を知る者はそれ天か」と答えた。
- 伯夷・叔齊は「志を降さず身を辱めなかった」、柳下惠・少連は「志を降し身を辱めた」、虞仲・夷逸は「隠居して放言し、行いは清に、廃するも権に中った」と評し、自らは「これらと異なり、可も不可もない」と述べた。
- 「君子は没後に名が称えられぬことを病む。わが道は行われなかった、何をもって後世に自らを示そうか」と述べ、史記(魯の史書)に基づき《春秋》を作った。上は隱公から下は哀公十四年まで十二公にわたり、魯を拠り所とし周を親とし殷を故として三代を運らせ、簡約な文辞に深い意を込めた。呉楚の君が王を自称しても《春秋》はこれを貶して「子」と記し、践土の会で実際は周天子が召されたのに《春秋》は「天王河陽に狩す」と諱った。この類推によって当世を正し、その貶損の義は後の王者によって開かれることを期した。《春秋》の義が行われれば天下の乱臣賊子は恐れをなす。
- 孔子は在位して訴訟を裁く際、文辞を人と共有したが、《春秋》の執筆にあたっては筆すべきは筆し削るべきは削り、子夏らも一字も加えられなかった。弟子に《春秋》を授けるとき「後世、丘を知る者も丘を罪する者も《春秋》によるだろう」と述べた。
晩年の死
- 翌年、子路が衛で死んだ。孔子は病み、子貢が見舞うと、杖にすがり門で逍遥していた孔子は「賜よ、なぜこんなに遅く来たのか」と嘆き、「泰山は壊れるか、梁柱は摧けるか、哲人は萎れるか」と歌って涙を流した。子貢に「天下に道なきこと久しく、誰も私を宗としない。夏人は東階に、周人は西階に、殷人は両柱の間に殯する。昨夜私は両柱の間に座って祭られる夢を見た、私はもと殷人である」と語り、七日後に卒した。
- 孔子は七十三歳、魯哀公十六年四月己丑(前479年)に卒した。
- 哀公はこれを誄して「天は私を憐れまず、この老人を残してくれなかった。私一人を守らせようとして、私は寂しく病んでいる。ああ悲しいかな、尼父よ、自らを律することなかれ」と述べた。子貢は「君はきっと魯で終われまい。夫子は『礼を失えば昏く、名を失えば愆つ。志を失うを昏、所を失うを愆という』と言った。生きているときに用いず死んで誄するのは礼ではない。『余一人』と称するのも名分に合わない」と評した。
葬儀と弟子たちの喪
- 孔子は魯城北の泗水のほとりに葬られ、弟子はみな三年の喪に服した。喪が明けると互いに訣別して哭泣し、各々思いのままに立ち去るか留まった。子贛(子貢)だけは冢のそばに廬を結び六年間喪に服してから去った。弟子や魯人で冢のそばに家をなした者は百余室にのぼり、その地を孔里と称した。魯では代々歳時に孔子の冢を祀り、儒者たちも礼を講じ郷飲・大射の礼を冢のもとで行った。孔子の冢は一頃の広さで、旧居の堂には弟子たちが住み、後世廟となって孔子の衣冠・琴・車・書を蔵し、漢代二百余年絶えることがなかった。高祖(劉邦)は魯を過ぎった際、太牢の礼で祀った。以後、諸侯卿相も着任前に必ず孔子廟に謁するようになった。
子孫の系譜
- 孔子は鯉(字は伯魚)を生んだ。伯魚は五十歳で孔子に先立って死んだ。
- 伯魚は伋(字は子思、六十二歳)を生んだ。子思は宋で困窮し、《中庸》を作った。
- 子思は白(字は子上、四十七歳)を生み、子上は求(字は子家、四十五歳)を生み、子家は箕(字は子京、四十六歳)を生み、子京は穿(字は子高、五十一歳)を生み、子高は子慎(五十七歳、魏の相となる)を生んだ。
- 子慎は鮒(五十七歳、陳王涉の博士となり陳下で死す)を生んだ。
- 鮒の弟子襄(五十七歳)は孝惠皇帝の博士となり、のち長沙太守に遷った。身長九尺六寸。
- 子襄は忠を生み、忠は武を生み、武は延年および安国を生んだ。安国は今皇帝(武帝)の博士となり臨淮太守に至ったが早くに卒した。安国は卬を生み、卬は驩を生んだ。
史論
- 太史公曰く、《詩》に「高山仰止、景行行止」とある。至り得ずとも心はそこに向かう。私は孔氏の書を読み、その人となりを偲んだ。魯に赴き仲尼廟堂の車服礼器を観、諸生が時に応じて礼を習うのを見て、去りがたく留まった。天下の君王賢人は多いが、当代には栄えても没すればそれで終わる。孔子は布衣の身でありながら十余世にわたり学者に宗とされ続けており、天子王侯より中国で六藝を語る者はみな夫子を規範とする。至聖と言うべきである。