史記卷四十三 趙世家第十三
造父を祖とし、周繆王から趙城を賜って趙氏を称した一族の世家。晋に仕えた趙衰・趙盾を経て、晋景公の代に屠岸賈による一族誅滅(趙氏孤児の変)を受けたが趙武が復位し家名を存続させた。趙簡子・趙襄子の代に晋陽の難で知伯を滅ぼし韓・魏と共に晋を三分、戦国の一国として自立した。武靈王は胡服騎射の軍制改革で強国化したが沙丘の変で餓死し、以後孝成王の長平の戦いでの大敗を経て国力は衰え、幽繆王遷の代に秦に滅ぼされた。
年表(24件)
- 晋襄公6年趙衰が没した
- 靈公14年趙盾が亡命し、趙穿が靈公を弑した
- 晋景公3年屠岸賈が下宮を襲い趙氏一族を滅ぼした(趙氏孤児の変)
- 晋出公17年簡子が没し太子毋卹(襄子)が立った
- 襄子4年韓・魏と共に知伯の晋陽水攻めを逆転して滅ぼした
- 襄子33年襄子が没し獻侯浣が立った
- 獻侯15年獻侯が没し子の烈侯籍が立った
- 烈侯9年烈侯が没し弟の武公が立った
- 武公13年武公が没し烈侯の太子章(敬侯)が立った
- 敬侯11年魏・韓と共に晋を滅ぼしその地を分けた
- 敬侯12年敬侯が没し子の成侯種が立った
- 成侯25年成侯が没し太子肅侯が位を継いだ
- 肅侯24年肅侯が没し子の武靈王が立った
- 武靈王
- 19年群臣の反対を退け胡服騎射を断行した
- 27年王位を子の何(惠文王)に譲り主父と号した
- 惠文王
- 4年沙丘の変で公子章の反乱を経て主父が幽閉され餓死した
- 29年趙奢が閼与で秦軍を大破した
- 33年惠文王が没し太子丹(孝成王)が立った
- 孝成王
- 4年上黨17邑の帰属を受諾し秦との対立が深まった
- 7年趙括が長平で秦に降り40万余の兵が生き埋めにされた
- 21年孝成王が没し子の偃(悼襄王)が立った
- 悼襄王
- 9年悼襄王が没し子の幽繆王遷が立った
- 幽繆王
- 遷7年讒言により李牧を誅し趙軍が大敗した
- 遷8年邯鄲が秦のものとなり趙は滅んだ
趙氏の始祖
- 趙氏の先祖は秦と祖を同じくする。中衍の代に帝大戊の御者を務めた。その後裔の蜚廉には二子があり、長子悪来は紂王に仕えて周に殺され、その子孫が秦となった。悪来の弟季勝の子孫が趙となる。
- 季勝の子孟増は周成王に寵愛され宅皋狼と呼ばれた。孟増の子衡父、その子造父は周繆王に寵愛された。造父は駿馬(盗驪・驊騮・綠耳)を繆王に献じ、御者として西方巡狩に随行し西王母に謁見して帰りを忘れるほどであった。その間に徐偃王が反乱を起こすと、繆王は千里を走る馬で急ぎ戻り徐偃王を大破した。この功により造父は趙城を賜り、以後趙氏を称した。
晋における趙氏の興り
- 造父から6代後の奄父(公仲)は周宣王時代に戎を伐ち、千畝の戦いで宣王を救った。その子叔帶の代、周幽王の無道を見て周を去り晋に移り晋文侯に仕え、晋国において趙氏の基礎を築いた。
- 叔帶から5代を経て趙夙が出た。趙夙は晋献公16年、霍・魏・耿を伐つ将となり霍を攻めた。霍公は斉に逃れたが、晋に大旱が起き占うと「霍太山の祟り」と出たため、趙夙が霍君を斉から呼び戻し霍太山の祭祀を復させると晋は再び豊作となった。献公は趙夙に耿を賜った。
- 趙夙の子共孟(魯閔公元年に生まれる)、その子趙衰(字は子餘)。
趙衰
- 趙衰は晋献公とその公子たちに仕えることを占ったが吉と出ず、公子重耳に仕えることを占うと吉と出たため重耳に仕えた。重耳が驪姫の乱で翟に亡命すると趙衰も従った。翟が廧咎如を伐って得た二人の女のうち、少女は重耳の妻となり、長女は趙衰の妻となって盾を生んだ。晋にいた趙衰の先妻も趙同・趙括・趙嬰齊を生んでいた。
- 趙衰は重耳の亡命に19年間従い、共に帰国を果たした。重耳は晋文公となり、趙衰は原大夫として国政を担った。文公の帰国と覇業の多くは趙衰の計略によるものであった。
- 帰国後、晋の先妻は翟の妻を正妻として迎え入れることを求め、その子盾を嫡子とし、先妻の三子はみな盾に仕える立場となった。晋襄公6年、趙衰が没し成季と諡された。
趙盾
- 趙盾は父の後を継ぎ国政を2年執ったところで晋襄公が没し、太子夷皋が幼かったため、盾は襄公の弟雍を秦から迎え立てようとした。しかし太子の母が日夜泣いて盾に訴えたため、盾は迫害を恐れて結局太子を立てた(靈公)。靈公即位後、盾の専権はさらに強まった。
- 靈公14年、驕慢を増した靈公は盾の諫めを聞かず、熊の掌の料理が生煮えだったことで料理人を殺しその屍を運び出させるなど暴虐に走った。盾を殺そうとしたが、盾がかつて食を恵んだ餓えた男に助けられ亡命の途につく。国境を出る前に趙穿が靈公を弑し襄公の弟黒臀を立てた(成公)。盾は復帰し国政に戻ったが、君子は「正卿でありながら国境を出ずに戻り、賊を討たなかった」と盾を非難し、太史はこれを「趙盾其の君を弑す」と記した。晋景公の代に盾は没し宣孟と諡され、子の朔が後を継いだ。
趙氏孤児
- 趙朔は晋景公3年、下軍を率いて鄭を救援し楚莊王と河上で戦った。朔は晋成公の姉を妻とした。
- 同じ景公3年、大夫屠岸賈は趙氏の誅殺を企てた。かつて趙盾は叔帶が泣き笑う夢を見て占わせたところ、「凶事は君でなく子に及び、なお君の咎でもある。孫の代には趙氏はさらに衰える」との卦を得ていた。屠岸賈は靈公の賊を討つという名目で趙盾を糾弾し、諸将に「盾は賊の首魁であり、子孫が朝にあるのは筋が通らない、誅すべし」と説いた。韓厥は「靈公の変事で盾は国外におり無罪とされたのに、今その後裔を誅するのは先君の意に反する妄誅」と反対したが賈は聞かず、韓厥は趙朔に急ぎ逃げるよう告げた。朔は「趙の祭祀さえ絶やさなければ死んでも恨みはない」と応じ、韓厥は病と称して事に加わらなかった。屠岸賈は許可を得ぬまま諸将と共に下宮の趙氏を襲い、趙朔・趙同・趙括・趙嬰齊を殺しその一族を滅ぼした。
- 趙朔の妻(成公の姉)は身重で公宮に逃げ隠れた。朔の食客公孫杵臼は朔の友人程嬰に「なぜ死なぬ」と問い、程嬰は「生まれた子が男子なら育て、女子ならそこで死のう」と答えた。まもなく男子が生まれ、屠岸賈は宮中を捜索した。夫人は赤子を袴の中に隠し「趙氏の血筋が絶えるなら泣け、絶えないなら声を出すな」と祈ると、赤子は声を立てなかった。
- 一度目の捜索を逃れたのち、程嬰と公孫杵臼は再捜索を恐れ、他人の嬰児を身代わりとして山に隠す策を立てた。杵臼は「孤児を守るのと死ぬのとどちらが難しいか」と問い、「死は易く孤児を守るほうが難しい」と答えた程嬰に対し、杵臼は自ら難しい役(孤児を守り生きる)を程嬰に譲り、自分は死を選ぶことにした。程嬰は諸将に「私は趙氏の孤児の居場所を金で売る」と偽り情報を漏らし、諸将は喜んで杵臼を攻めた。杵臼は程嬰を裏切り者と罵り「孤児だけは助けよ、私だけを殺せ」と叫んだが、諸将は許さず杵臼と偽の孤児を殺した。諸将は本物の趙氏の孤児が死んだと信じて喜んだが、実際には真の孤児(趙武)は程嬰と共に山中に隠れ続けた。
- 15年後、晋景公が病に伏し、占いで「大業の後裔で祀りが絶えている者の祟り」と出た。景公が韓厥に問うと、厥は趙氏の孤児が生きていることを知っていたため、中衍以来の嬴姓の功績と趙氏の代々の功を説き、趙氏のみが祀りを絶たれていることが国人の同情を集め祟りとなって現れたと述べた。景公は趙氏の子孫の有無を尋ね、厥は事実を告げた。景公は厥と謀り趙武を宮中に匿い、諸将が病気見舞いに来た際、厥の兵をもって諸将を脅し趙武と対面させた。
- 諸将はやむなく「下宮の変は屠岸賈が君命を偽って行ったもの、それでなければ誰が乱を起こそうか。君の病がなくとも我々は趙氏の後継を立てるつもりだった」と述べ、趙武・程嬰を拝礼して屠岸賈を攻め滅ぼし、趙武にはかつての田邑が返された。
- 趙武が成人し元服すると、程嬰は諸大夫に別れを告げ「下宮の変で皆死んだ中、私は趙氏の存続を思って生き延びた。今や趙武は成人し旧地位に復した、私は下って趙宣孟と公孫杵臼に報いる」と語り、趙武が涙ながらに引き留めたが、程嬰は「杵臼は私が事を成すと信じて先に死んだ、今私が報いなければ彼の死が無駄になる」と述べて自殺した。趙武は喪に服すこと3年、祭邑を設けて春秋の祭祀を絶やさなかった。
趙武から簡子まで
- 趙氏復位から11年後、晋厲公が大夫三郤を殺すと、欒書は自分にも累が及ぶことを恐れて厲公を弑し、襄公の曾孫周を立てた(悼公)。これ以降、晋では大夫の力が強まった。
- 趙武が趙氏を継いで27年、晋平公が立った。平公12年、趙武は正卿となった。13年、呉の延陵季子(季札)は「晋国の政はついに趙武子・韓宣子・魏獻子の子孫に帰するだろう」と評した。趙武の死後、文子と諡された。
- 文子の子景叔の代、斉景公が晏嬰を晋に遣わし、晏嬰は晋の叔向と語り「斉の政はいずれ田氏に帰す」と述べ、叔向も「晋の政は六卿に帰する、我が君はそれを憂えられない」と応じた。
- 景叔が没し子の趙鞅(簡子)が継いだ。
趙簡子
- 簡子は晋頃公9年、諸侯を率いて周に戍守させ、翌年、王子朝の乱を避けて周敬王を周に入れた。
- 晋頃公12年、六卿は法により公族の祁氏・羊舌氏を誅し、その邑を十県に分け、各卿の一族を大夫とした。晋の公室はこれによりさらに弱まった。
- 13年後、魯の賊臣陽虎が晋に亡命し、簡子は賄賂を受けて厚遇した。
- 趙簡子が病に倒れ5日間人事不省となった。医の扁鵲が診て「血脈は正常」と述べ、董安于に、昔秦繆公も同様の状態から7日で目覚め、天帝の所で楽しみ、晋国の大乱と後の覇者の早世、覇者の子の代の男女無別を予言されたという故事を語った。(この予言は献公の乱・文公の覇業・襄公の殽での秦師撃破後の放縦として的中していた。)
- 2日半後、簡子は目覚め、大夫たちに、天帝の所で百神と鈞天で遊び、二頭の熊・羆を射て射止め、天帝から二つの箱と、傍らにいた我が子に授けるという翟犬を賜った夢を語った。天帝はまた「晋国は世々衰え七世で亡ぶ、嬴姓が范魁の西で周人を大破するがそれも保てない、虞舜の功を思い我が娘孟姚をその七世の孫に配す」と告げたという。董安于はこれを書き留め、扁鵲には田4万畝が賜られた。
- 後日、簡子の道を塞ぐ者があり、従者が斬ろうとしたが、その者は主君への謁見を求めて簡子に会い、「私は天帝の側におりました」と述べ、簡子の見た熊・羆の夢(晋の大難の予兆で簡子が二卿を滅ぼす意)、箱の夢(子が翟の二国に勝つ意)、翟犬の夢(子孫代々の代の地の獲得と胡服・革政の予兆)を解いたのち、姓名を名乗らず立ち去った。簡子はこれも書き留めさせた。
- また姑布子卿が簡子の諸子を人相見したところ「将軍となる器はない」と評し、路上で見た一子(毋卹=母が翟の婢という賤しい身の子)こそ真の将軍の相と判じた。簡子は諸子と語り、毋卹の賢明さを見出し、常山に隠した符を諸子に競って探させたところ毋卹だけが「常山から代を望めば代を取れる」との策を見出し符を得た。これにより簡子は太子伯魯を廃し毋卹を太子とした。
晋陽の難と趙氏の危機
- 晋定公14年、范氏・中行氏が乱を起こした。翌春、簡子は邯鄲の大夫午に衛の民500家の返還を求めたが、午の父兄がこれに従わず約束を破ったため、簡子は午を捕らえ晋陽に幽閉し、後に殺した。趙稷・涉賓は邯鄲で反乱を起こし、晋君は籍秦に邯鄲包囲を命じた。荀寅・范吉射は午と親しく秦に協力せず乱を謀り、董安于がこれを知った。10月、范・中行氏は趙鞅を攻め、鞅は晋陽に逃れ包囲された。
- 荀櫟の進言で范吉射・荀寅は放逐され、11月、荀櫟・韓不佞・魏哆が公命を奉じて范・中行氏を攻めたが克てなかった。范・中行氏が逆襲すると公自ら撃退し、両氏は朝歌へ逃れた。韓・魏の取りなしで趙氏は赦され、12月、趙鞅は絳に入り公宮で盟った。
- 翌年、知伯文子は趙鞅に「乱の発端を作った董安于も罪に問うべき」と迫った。安于は「私が死ねば趙氏は定まり晋国も安んずる」と述べ自殺した。趙氏はこれを知伯に告げ、以後趙氏は安泰となった。
- 孔子はこの一連の出来事について、簡子が晋君に請わず邯鄲午を捕らえ晋陽に拠ったことを非難し、『春秋』に「趙鞅、晋陽を以て畔く」と記した。
- 簡子には直諫を好む臣周舍がおり、その死後、簡子は朝廷で不満を漏らし、大夫が罪を請うたが、簡子は「千枚の羊の皮より一枚の狐の腋のほうが貴い。諸大夫が唯々諾々とするばかりで周舍のような直言を聞けぬことを憂う」と答えた。簡子はこうして趙の邑を懐柔し晋人の心を得た。
趙簡子の晩年と趙襄子
- 晋定公18年、簡子は范・中行氏を朝歌に包囲し、中行文子は邯鄲に逃れた。翌年、衛靈公が没し、簡子は陽虎と共に衛の太子蒯聵を送ったが衛に入れず戚に留まった。
- 定公21年、簡子は邯鄲を抜き中行文子は柏人に逃れ、簡子はさらに柏人を包囲、中行文子・范昭子は斉に逃亡した。趙は邯鄲・柏人を領有し、范・中行の残りの邑は晋に帰した。趙は名目上晋の卿であったが実質は晋の権を専らにし、その領地は諸侯に匹敵した。
- 定公30年、定公は呉王夫差と黄池で盟主を争い、簡子は定公に従い呉を盟主とすることを認めさせた。定公37年に没すると、簡子は喪を3年でなく期年(1年)で切り上げた。この年、越王句踐が呉を滅ぼした。
- 晋出公11年、知伯が鄭を攻め、簡子は病のため太子毋卹に軍を率いさせ鄭を包囲させた。知伯は酔って毋卹に酒をかけたが、毋卹は臣下の復讐を望む声を抑え「主君が私を立てたのは屈辱に耐えられるからだ」と述べつつ、内心は知伯を恨んだ。知伯は帰国後、簡子に毋卹の廃嫡を勧めたが簡子は聞かず、毋卹の知伯への怨みはここに始まった。
- 晋出公17年、簡子が没し太子毋卹が立った(襄子)。
趙襄子
- 襄子元年、越が呉を包囲した際、襄子は喪に服す身として食を減らし、楚隆を遣わし呉王を見舞わせた。
- 襄子の姉はかつて代王の夫人であった。簡子の葬儀後、喪服のまま襄子は夏屋山に登り代王を招いた。厨人に銅の柄杓で酒を注がせつつ、密かに料理人に柄杓で代王とその従者を撃ち殺させ、その勢いで代の地を平定した。姉はこれを聞いて天を仰ぎ泣き、笄(かんざし)で自らを刺して死んだ。代人はこれを憐れみ、その死んだ場所を摩笄山と名づけた。代の地は伯魯の子周に与えられ代成君とされた(伯魯は襄子の兄で本来の太子であったが早世していたため、その子に代を与えた)。
- 襄子4年、知伯は趙・韓・魏と共に范・中行氏の旧領を分け取った。晋出公はこれに怒り斉・魯に訴え四卿討伐を図ったが、四卿は逆に共同して出公を攻め、出公は斉へ逃れる途中で死んだ。知伯は昭公の曾孫驕を立てた(晋懿公)。知伯はさらに驕り高ぶり、韓・魏には領地を要求して与えられたが、趙には鄭包囲での屈辱を理由に拒まれ、怒った知伯は韓・魏を率いて趙を攻めた。襄子は恐れて晋陽に逃れ立て籠もった。
- 原過が遅れて随行する途中、王沢で上半身だけ見える三人の人物に会い、竹の節を託され「これを趙毋卹に届けよ」と言われた。原過が竹を割ると朱書きがあり、「霍泰山山陽侯の天使」を名乗り、3月丙戌に知氏を滅ぼす助けをする、代わりに百邑に自分を祀り林胡の地を与えると告げ、さらに後世に現れる伉王の異相(赤黒い肌、龍面鳥噣など)と、その征服する範囲(北の黒姑まで)を予言していた。襄子はこの神託を拝受した。
- 三国(知・韓・魏)が晋陽を攻めること1年余り、汾水を引いて城を水攻めにし、城は水没を免れたのはわずか三版(約2メートル弱)のみ、城中では釜を吊るして炊事し子を交換して食べるほど困窮した。群臣は動揺し礼を失う者が多い中、高共だけは礼を失わなかった。襄子は恐れて夜密かに相の張孟同を韓・魏に遣わして内通させ、三国は謀を合わせ3月丙戌、逆に知氏を滅ぼしその地を分け取った。
- 論功行賞で襄子は高共を第一とした。張孟同が「晋陽の難で共には功がなかった」と異を唱えると、襄子は「晋陽の危急の際、群臣が皆気を緩める中、共だけが臣の礼を失わなかった、だから第一とした」と答えた。こうして趙は北に代、南に知氏の旧領を得て韓・魏より強大となり、三神を百邑に祀り、原過に霍泰山の祭祀を司らせた。
- 襄子は後に空同氏を娶り五子を得たが、兄伯魯が立てなかった経緯から自分の子を立てず、伯魯の子代成君に位を伝えようとした。代成君が先に死んだため、その子浣を太子とした。襄子は在位33年で没し、浣が立って獻侯となった。
獻侯から敬侯まで
- 獻侯は幼くして即位し中牟を治めた。
- 襄子の弟桓子は獻侯を逐って自ら代で立ったが1年で没した。国人は「桓子の即位は襄子の意ではない」として桓子の子を殺し、再び獻侯を迎え立てた。
- 獻侯10年、中山武公が初めて立った。13年、平邑に城を築いた。15年、獻侯が没し子の烈侯籍が立った。
- 烈侯元年、魏文侯が中山を伐ち、太子撃に守らせた。6年、魏・韓・趙が相次いで諸侯を称し、獻子を追尊して獻侯とした。
- 烈侯は音楽を好み、相国公仲連に寵姫を厚遇できないかと問うたが、公仲は「富ませることはできても貴くはできない」と答えた。烈侯が鄭の歌者槍・石の二人に田を賜ろうとすると、公仲は表面上承知しつつ実行しなかった。1か月後、烈侯が代から戻り再度催促するも公仲は言を左右にし、遂には病と称して朝せず抵抗した。番吾君が公仲に、賢者の推薦(善を好むが人を得ていない)を勧め、公仲は牛畜・荀欣・徐越の三人を推挙した。朝廷で歌者への田の話が再度出た際、公仲は「選定中」と答え、代わりに牛畜が仁義と王道を説き、荀欣が人材登用の要諦を説き、徐越が節約と功徳査定を説くと、烈侯は深く納得し、歌者への田の話を撤回、牛畜を師、荀欣を中尉、徐越を内史に任じ、公仲には衣二着を賜った。
- 烈侯9年、烈侯が没し弟の武公が立った。武公13年に没し、烈侯の太子章が立った(敬侯)。この年、魏文侯が没した。
- 敬侯元年、武公の子朝が乱を起こしたが敗れ魏に逃れた。趙はこの頃邯鄲に都を定めた。
- 敬侯2年、斉を靈丘で破った。3年、魏の廩丘を救援し斉軍を大破。4年、魏に兔臺で敗れ、剛平に築城して衛を侵した。5年、斉・魏が衛のために趙を攻め剛平を奪われた。6年、楚から兵を借り魏を伐ち棘蒲を取った。8年、魏の黄城を抜いた。9年、斉を伐ち、斉が燕を伐つと趙は燕を救援。10年、中山と房子で戦った。
- 敬侯11年、魏・韓・趙が共に晋を滅ぼしその地を分けた。中山を伐ち中人でも戦った。12年、敬侯が没し子の成侯種が立った。
成侯・肅侯
- 成侯元年、公子勝が成侯と位を争い乱を起こした。2年6月、雪が降った。3年、太戊午が相となり、衛を伐って73邑を取ったが魏に藺で敗れた。4年、秦と高安で戦い勝った。5年、斉を鄄で伐ち、魏に懐で敗れた。鄭を攻めて破り韓に譲る代わりに長子を得た。
- 成侯6年、中山が長城を築いた。魏を伐ち渜澤で破り魏惠王を包囲。7年、斉に侵攻し長城に至り、韓と共に周を攻めた。8年、韓と周を二分した。9年、斉と阿の下で戦った。10年、衛を攻め甄を取った。11年、秦が魏を攻め趙が石阿で救援。12年、秦が魏少梁を攻め趙が救援。13年、秦獻公が庶長国に魏少梁を攻めさせ魏の太子と痤を虜にしたが、魏は趙を澮で破り皮牢を奪った。成侯は韓昭侯と上黨で会見。14年、韓と秦を攻めた。15年、魏を助けて斉を攻めた。
- 成侯16年、韓・魏と晋を分け、晋君に端氏を封じた。17年、成侯は魏惠王と葛孼で会見。19年、斉・宋と平陸で会し、燕と阿で会した。20年、魏が榮椽を献じ檀臺を築いた。21年、魏が邯鄲を包囲。22年、魏惠王が邯鄲を抜き、斉も桂陵で魏を破った。24年、魏が邯鄲を返還し漳水のほとりで盟約、秦が藺を攻めた。25年、成侯が没し、公子緤と太子肅侯が位を争い緤は敗れ韓に亡命した。
- 肅侯元年、晋君から端氏を奪い屯留に移した。2年、魏惠王と陰晉で会見。3年、公子范が邯鄲を襲ったが敗死した。4年、天子に朝見。6年、斉を攻め高唐を抜いた。7年、公子刻が魏の首垣を攻めた。11年、秦孝公が商君に魏を攻めさせ将の公子卬を捕虜にし、趙も魏を伐った。12年、秦孝公が没し商君も死んだ。15年、壽陵を築いた。魏惠王が没した。
- 肅侯16年、肅侯が大陵に遊び鹿門から出た際、大戊午が馬を止め「農繁期に一日でも耕さねば百日の食に困る」と諫め、肅侯は車を降りて謝した。
- 肅侯17年、魏の黄を包囲したが抜けず、長城を築いた。18年、斉・魏が趙を攻め、趙は河水を決壊させ防いだ。22年、張儀が秦の相となる。趙疵が秦と戦い敗れ河西で殺され、藺・離石を奪われた。23年、韓舉が斉・魏と戦い桑丘で戦死。24年、肅侯が没し、秦・楚・燕・斉・魏が精鋭各1万を出して会葬した。子の武靈王が立った。
武靈王の即位と初期
- 武靈王元年、陽文君趙豹が相となった。梁襄王と太子嗣、韓宣王と太子倉が信宮に来朝した。武靈王は若く親政できなかったため博聞の師と司過の臣を各3人置いた。親政に際し先王の重臣肥義を重んじその俸禄を加増し、国の老人(80歳以上)には月々礼を尽くした。
- 3年、鄗に築城。4年、韓と区鼠で会見。5年、韓の女を夫人に迎えた。
- 8年、韓が秦を攻めたが勝てず退いた。五国が互いに王を称える中、趙だけは「実力が伴わないのに名分だけを取るべきでない」として王号を用いず国人に「君」と呼ばせた。
- 9年、韓・魏と共に秦を攻めたが秦に敗れ首8万級を失い、斉にも観澤で敗れた。10年、秦が中都・西陽を奪い、斉が燕を破った。燕の相子之が君となり、燕王が逆に臣下となった。11年、王は公子職を韓から呼び戻し燕王に立て(燕昭王)、樂池に送らせた。13年、秦が藺を抜き将軍趙莊を虜にした。楚・魏の王が来訪し邯鄲を通過。14年、趙何(後の惠文王)が魏を攻めた。
- 16年、秦惠王が没した。王は大陵に遊んだ際、処女が琴を弾き歌う夢を見た。後日、酒宴でその夢を繰り返し語ると、吳廣がこれを聞いて自らの娘娃嬴(孟姚)を後宮に入れさせた。孟姚は王に深く寵愛され惠后となった。
- 17年、王は九門に出て野臺を築き斉・中山の境を望んだ。
- 18年、秦の武王が孟説と鼎を挙げ争って脛を折り死んだ。趙王は代の相趙固を燕に遣わし公子稷を秦王に迎え立てた(昭王)。
胡服騎射
- 19年春正月、信宮で大朝を行い、肥義を召して天下の情勢を5日間協議した。王は中山の地を北に巡って房子・代に至り、北は無窮、西は河に至り黄華の上に登った。楼緩を召して謀り、「先王は世の変化に応じて南藩の地を広げ漳・滏の険を頼りに長城を築き、藺・郭狼を取り林人を荏で破ったが功業はまだ成らない。今、中山は我が腹心に位置し、北に燕、東に胡、西に林胡・樓煩・秦・韓の境を抱えながら強兵の備えがなく、社稷を失いかねない。高い名声を得ようとすれば古い風俗との摩擦は避けられない、私は胡服を採り入れたい」と語った。楼緩は賛成したが群臣は皆反対だった。
- 肥義に対し王は、簡子・襄子の功業に倣い胡・翟の利を図りたいと述べ、臣下の道(親への孝順と主君への貢献)を説きつつ、胡服騎射により少ない労力で多くの成果を上げ民の負担を軽減しながら先人の功業を継ぎたいと語った。ただし高い功業には旧習との摩擦、独自の見識には民の不満が伴うため世の非難を懸念した。肥義は「疑いを抱いては功も名も成らない、王が既に旧習との摩擦を覚悟した以上、世論を気にする必要はない。至徳を論じる者は俗に和さず、大功を成す者は衆に謀らない。舜が有苗の地で舞い、禹が裸の国で肌をさらしたのも欲のためでなく徳と功を全うするため」と後押しした。王は「胡服そのものを疑うのでなく天下の笑いを恐れるのだ」と答えつつも、「たとえ世に笑われても胡地・中山は必ず我がものとする」と決意し、胡服を実行した。
- 王緤を通じ公子成に胡服採用を求める使者を送り、王は「家は親に、国は君に従うのが古今の道理、兄が服さねば天下の議論を招く。徳の広まりは賤しい者から、政の信は貴い者から行われるべきものだが、胡服は私欲でなく事の必要から出たもの」と説いた。公子成は病を理由に固辞しつつも、「中国は文化・道義・技芸の集まる地であり、遠方の風俗を襲い古の教えと道を変えることは人心に背き学者の意に反し中国から離れることになる」と諫めた。
- 王は自ら公子成の家を訪ね、「服は用のため、礼は事のためにある。聖人は土地に応じ事に応じて礼を制する」と説き、甌越・大吳の風俗の例を挙げ、「習俗は一つでなくてよく、便利であることが本義」と論じた。さらに、趙の東は河・薄洛の水を斉・中山と共にしながら舟楫を持たず、常山から代・上黨にかけては燕・東胡・楼煩・秦・韓と境を接しながら騎射の備えがないことを指摘し、簡子・襄子の代からの版図拡大の経緯、中山にかつて鄗を水攻めにされ守り切れなかった屈辱を挙げ、胡服騎射こそ上黨の防衛と中山への雪辱を果たす道であると説得した。公子成はついに納得し胡服を受け入れ拝礼、翌日から胡服で朝見し、胡服令が正式に発布された。
- 趙文・趙造・周袑・趙俊らはなお胡服に反対したが、王は「先王は俗を同じくせず、帝王は礼を継承しない、聖人の興隆は古法の踏襲によらず、夏・殷の衰亡は礼を変えなかったために起きたのではない。反古(古に反すること)は非難されるべきでなく、旧礼の墨守も称賛に値しない」と説き、「衣服の奇抜さと志の淫乱、風俗の卑俗さと民の変節を結びつけるなら鄒・魯に奇行なく、呉・越に秀士がいないことになる」と反駁し、法や古制に頼るだけでは今を治められないと結論づけ、遂に胡服騎射を推し進めた。
武靈王後期と主父
- 20年、王は中山の地を寧葭まで、西は胡地の榆中まで攻略し、林胡王が馬を献じた。帰国後、樓緩を秦に、仇液を韓に、王賁を楚に、富丁を魏に、趙爵を斉に遣わし、代の相趙固に胡人を統率させた。
- 21年、中山を攻めた。趙袑を右軍、許鈞を左軍、公子章を中軍とし王自ら統率、牛翦が車騎を、趙希が胡・代の兵を率いた。丹丘・華陽・鴟の塞などを攻略し、鄗・石邑・封龍・東垣を得た。中山が4邑を献じて和を求め、王は許して兵を退いた。23年、再び中山を攻めた。25年、惠后が没した。周袑に胡服で王子何を教育させた。26年、再び中山を攻め、北は燕・代、西は雲中・九原まで領土を広げた。
- 27年5月戊申、東宮で大朝を行い、王位を子の何に譲った(惠文王、惠后吳娃の子)。廟見の礼を終えると武靈王は「主父」と号し、大夫は皆惠文王の臣となり、肥義が相国として王を輔佐した。
- 主父は子に国を治めさせつつ自らは胡服で西北の胡地を巡り、雲中・九原から直接秦を襲うことを企てて自ら使者と偽り秦に入った。秦昭王はその威容を怪しみ人を遣わし追わせたが、主父は既に関所を脱していた。後に調べて主父であったと知り秦人は大いに驚いた。この潜入は秦の地形と昭王の人となりを自ら観察するためであった。
- 惠文王2年、主父は新占領地を巡り代を出て西に樓煩王と西河で会し、その兵を得た。3年、中山を滅ぼしその王を膚施に遷し、靈壽に築城、北の地は一続きとなり代への道が開けた。凱旋後、恩賞と大赦を行い5日間酒宴を催し、長子章を代の安陽君に封じた。章は元来奢侈で弟の擁立に不服であった。主父はさらに田不禮を章の相とした。
沙丘の変
- 李兌は肥義に、公子章の驕慢と野心、田不禮の残忍さを説き、両者が結託すれば必ず陰謀を企てるとし、あなた(肥義)は要職にあるため真っ先に禍が及ぶと警告、称病して政務から退き公子成に譲るよう勧めた。肥義は「主父が王を私に託した際『度量を変えず考えを違えず一心を守り生涯を全うせよ』と言われ、私は拝命して記録した。今、田不禮の難を恐れて誓いを忘れることは大きな裏切りだ、進んで厳命を受けながら退いて全うしないのは甚だしい背信」と述べ、「死者が生き返っても恥じぬよう」との諺を引いて職を退かない決意を語った。李兌は涙して去り、以後しばしば公子成と会い田不禮への備えを固めた。
- 別の折、肥義は信期に、公子章と田不禮の危険性、姦臣・讒臣が国を損なうことへの憂いを語り、「自今以後、王を召す者があれば必ず私が先に対面し、身をもって当たる」と申し合わせた。
- 4年、群臣朝見の際、安陽君(公子章)も参朝した。主父は惠文王に朝を執らせながら傍らからその様子を観察し、兄章が屈服して弟に臣従する姿を憐れみ、趙を分割し章を代の王にしようと考えたが、決断がつかぬまま計画は流れた。
- 主父と王が沙丘に遊び別の宮に泊まった際、公子章とその徒、田不禮は主父の命と偽って王を呼び出し乱を起こした。肥義が先に入り殺害された。高信が王と共に戦う中、公子成と李兌が国都から駆けつけ四邑の兵を起こして難に当たり、公子章・田不禮とその一党を滅ぼし王室を安定させた。公子成は相となり安平君と号し、李兌は司寇となった。公子章の敗走の際、主父はこれを匿い、成・兌はそのまま主父の宮を包囲した。公子章の死後、公子成と李兌は「章のために主父を囲んだ以上、兵を解けば我らが誅される」と謀り、主父の包囲を継続、宮中の者に「後から出る者は誅す」と命じ、宮中の人々は全員脱出した。主父は出ることができず食も絶たれ、雛鳥を捕らえて食いつなぐも3か月余りで沙丘宮にて餓死した。死が確認された後、初めて諸侯へ喪が発せられた。
- 当時、王(惠文王)はまだ幼く、公子成・李兌が専政し誅殺を恐れて主父を包囲したのだった。主父は当初長子章を太子としていたが、後に得た吳娃を寵愛し数年出仕せず、生まれた子何のために太子章を廃して何を王とした。吳娃の死後、寵愛は薄れ、旧太子章への憐憫から両者を共に王にしようと迷ううちに乱が起き、父子ともに死ぬに至った。太史公は「天下の笑いものとなった、なんと痛ましいことか」と評している。
惠文王
- 5年、燕と鄚・易の地を交わした。8年、南行唐に築城。9年、趙梁が将となり斉と合軍して韓を攻め魯關に至った。10年、秦が西帝を自称した。11年、董叔が魏氏と共に宋を攻め河陽を得た。秦が梗陽を取った。12年、趙梁が斉を攻めた。13年、韓徐為が斉を攻め、公主が死去。14年、相国樂毅が趙・秦・韓・魏・燕を率いて斉を攻め靈丘を取り、秦と中陽で会した。15年、燕昭王が来訪。趙は韓・魏・秦と共に斉を撃ち、斉王は敗走、燕が単独で臨菑まで深く侵入した。
- 16年、秦は再び趙と共に斉を攻め、斉はこれを憂えた。蘇厲が斉のために趙王に長い書簡を送った。その要旨は、秦が趙を用いて韓・二周を滅ぼし天下を併呑しようとしている構図を説き、秦が実際には楚・趙・衛・斉を攻める余力・意志がないことを地理的に論証しつつ、韓が滅びれば秦の脅威は直接趙自身に及ぶこと、長年斉を伐ってきたことの不利益と、斉と結んで秦の脅威を防ぐことの利益を説き、趙が斉攻めを止めるよう説得するものであった。趙はこれを容れ、斉攻めを中止して秦に断りを入れた。
- その後、王は燕王と会見。廉頗が将となり斉の昔陽を攻め取った。
- 17年、樂毅が趙の軍を率いて魏の伯陽を攻めた。秦は趙が共に斉を攻めなかったことを怒り趙の2城を抜いた。18年、秦が石城を抜いた。王は再び衛の東陽に赴き河水を決壊させ魏を攻めた。大洪水で漳水が氾濫。魏冉が趙の相となった。19年、秦が趙の2城を奪い、趙は伯陽を魏に返した。趙奢が将となり斉の麥丘を攻め取った。
- 20年、廉頗が将となり斉を攻め、王は秦昭王と西河の外で会見。21年、趙は漳水を武平の西に移した。22年、大疫が起きた。公子丹を太子とした。
- 23年、樓昌が魏の幾を攻めたが取れず、12月に廉頗が代わって取った。24年、廉頗が魏の房子を攻め抜き、安陽も取った。25年、燕周が斉の昌城・高唐を取った。魏と共に秦を攻めたが秦の白起に華陽で破られ将軍一人を失った。26年、東胡から代の地を取った。
- 27年、漳水を武平の南に移した。趙豹を平陽君に封じた。河水が氾濫し大洪水となった。28年、藺相如が斉を伐ち平邑に至り、北九門の大城を破却した。燕の将成安君公孫操が燕王を弑した。29年、秦・韓が閼与を包囲した際、趙奢を将として秦を攻めさせ、閼与の下で秦軍を大破、馬服君の号を賜った。
- 33年、惠文王が没し太子丹が立った(孝成王)。
孝成王(触龍説太后・長平の戦い)
- 元年、秦が趙を攻め3城を抜いた。趙王が新たに立ち太后が政を執っていたため、秦は攻勢を強めた。趙は斉に救援を求めたが、斉は長安君(太后の末子)を人質に出すことを条件とした。太后は拒み、大臣が強く諫めると「今後、長安君を人質にと言う者があれば唾を吐きかける」とまで言い放った。
- 左師触龍が太后への謁見を願い出た。太后は怒りを含んで待ち構えたが、触龍は徐々に近づき座り、自らの脚の病を理由に長らく参内しなかったことを詫び、太后の体調を気遣う言葉から始めた。太后が輦に頼って歩いていることや食が細っていることなどの近況を語り合ううちに緊張がほぐれた。
- 触龍は自らの末子舒祺の任官を願い出て太后の許しを得、その流れで「男も女以上に末子を愛しむものか」との問答から、太后が娘(燕后)を嫁がせた際に別れを深く悲しみつつも、二度と戻らぬようにと祭祀で祈った故事を引き、これは子孫が代々王位を継ぐことを願う深謀であると説いた。
- さらに、諸侯の子孫で三代前から侯位を保っている者がほとんどいない事実を挙げ、これは位が高く功がなく、俸禄が厚く労苦がないまま重宝を抱えているためであると論じた。長安君も高い位と肥沃な領地、多くの重宝を与えられながら国への功績を立てていない現状では、太后が亡くなった後、長安君は趙で立つ拠り所を失うと説いた。太后はついに納得し、長安君を人質として斉に送ることを許し、斉兵が出動した。
- 子義はこれを聞き「王族の子でさえ功なき尊位・労なき俸禄・重い財宝を保てないのに、まして凡庸な臣下であればなおさらだ」と評した。
- 斉の安平君田単が趙軍を率いて燕の中陽・韓の注人を攻め落とした。2年、惠文后が没し田単が相となった。
- 4年、王は偏裻の衣を着て飛龍に乗り昇天しようとして墜落し、金玉が山のように積まれているのを見る夢を見た。占者の筮史敢はこれを「衣の異様さは災い、昇天して墜ちるのは実の伴わぬ気勢、金玉の山は憂いの兆し」と占った。
- その3日後、韓の上黨守馮亭の使者が来て、韓は秦に上黨を守り切れず、吏民は秦でなく趙への帰属を望んでいるとして17の城市邑の献上を申し出た。王は喜び、平陽君趙豹に諮ったが、豹は「理由のない利益は聖人が最も禍とするもの」と述べ、秦がすでに労苦を尽くしているのに趙だけが利益を得るのは不自然であり、韓が秦でなく趙に寝返るのは禍を趙に転嫁する意図と見て、受け取るべきでないと諫めた。しかし王は百万の軍を用いても一城すら得られない中で17邑を得られる大利と判断した。
- 趙豹の退出後、王は平原君・趙禹に諮り、両者は受諾を勧めたため、王は趙勝(平原君)を遣わし土地を受け取らせ、馮亭には万戸都に世襲の侯位、千戸都に世襲の県令位、吏民には爵位三級と金の恩賞を約した。しかし馮亭は使者に会わず涙を流し、「主君のために地を守れず、主命に背いて秦に入れず、主の地を売って利する、この三つの不義に耐えられない」と述べた。趙は結局兵を発して上黨を取り、廉頗を将として長平に布陣させた。
- 7月、廉頗が免ぜられ趙括が代わって将となった。秦軍は趙括を包囲し、趙括は降伏、40万余の兵は皆生き埋めにされた。王は趙豹の諫めを聞かなかったことを悔い、これが長平の禍となった。
- 王は帰還後も秦の要求を拒み、秦は邯鄲を包囲した。武垣令の傅豹・王容・蘇射は燕の民を率いて燕の地に反乱を起こした。趙は靈丘を楚の相春申君に封じた。
- 8年、平原君が楚に赴いて救援を求め、楚と魏の公子無忌(信陵君)も救援に来て秦の邯鄲包囲は解けた。
- 10年、燕が昌壯を攻め5月に抜いた。趙将楽乗・慶舎が秦の信梁軍を撃破。太子が死去。秦が西周を抜いた。徒父祺が出撃。11年、元氏に築城し上原を県とした。武陽君鄭安平が死に、その地を接収した。12年、邯鄲の廥(倉庫)が焼失。14年、平原君趙勝が死去。
- 15年、廉頗を尉文に封じ信平君とした。燕王は丞相栗腹を趙に遣わし友好を演出しつつ、実は「趙の壮者は皆長平で死に、遺児はまだ育っていない、今なら討てる」と燕王に報告した。燕王が昌国君樂閒に諮ると「趙は四方から攻められる国であり民は戦に慣れている、討つべきでない」と反対、王が兵力比を変えて重ねて問うても樂閒は不可と答えた。燕王は怒り群臣の賛成のみを頼りに出兵、栗腹が鄗を、卿秦が代を攻めさせたが、廉頗が将として栗腹を破り殺し、卿秦・樂閒を虜にした。
- 16年、廉頗が燕を包囲。樂乗を武襄君とした。17年、假相の大将武襄君が燕を攻めその国を包囲した。18年、延陵鈞が信平君(廉頗)に従い魏を助けて燕を攻めた。秦が榆次など37城を抜いた。19年、趙は燕と土地を交換した(龍兌・汾門・臨樂を燕に、葛・武陽・平舒を趙に)。
- 20年、秦王政が即位。秦が晉陽を抜いた。21年、孝成王が没した。廉頗が繁陽を攻め取ったが、樂乗にその地位を代わらせようとしたところ廉頗は樂乗を攻め、樂乗は逃走、廉頗も魏に亡命した。子の偃が立った(悼襄王)。
悼襄王
- 元年、魏への備えを固め、平邑と中牟を結ぶ道の開通を図ったが果たせなかった。
- 2年、李牧が将となり燕を攻め武遂・方城を抜いた。秦は春平君を召還したまま留め置こうとしたが、泄鈞は文信侯(呂不韋)に、これは春平君を妬む郎中の策謀に乗ることであり、留め置けば趙との関係が断たれると説き、代わりに平都を留め春平君を帰すよう進言、文信侯はこれを容れた。趙は韓皋に築城した。
- 3年、龐煖が将となり燕を攻め将の劇辛を捕らえた。4年、龐煖が趙・楚・魏・燕の精鋭を率いて秦の蕞を攻めたが抜けず、転じて斉を攻め饒安を取った。5年、傅抵が将となり平邑に駐留、慶舎が東陽河外の軍を率い河梁を守った。6年、長安君を饒に封じ、魏が趙に鄴を与えた。
- 9年、趙が燕を攻め貍陽城を取った。兵をまだ収めぬうちに秦が鄴を攻め抜いた。悼襄王が没し子の幽繆王遷が立った。
幽繆王遷(趙の滅亡)
- 元年、柏人に築城。2年、秦が武城を攻め、扈輒が救援に向かうも軍は敗れ戦死した。
- 3年、秦が赤麗・宜安を攻め、李牧がこれを肥下で迎え撃ち退けた。牧を武安君に封じた。4年、秦が番吾を攻め、李牧がこれを退けた。
- 5年、代の地で大地震があり、樂徐以西から平陰まで家屋・城壁の大半が壊れ、地が東西130歩にわたって裂けた。6年、大飢饉となり、民の間に「趙は号泣し秦は笑う、信じられなければ地から毛が生えるのを見よ」との謠が流れた。
- 7年、秦が趙を攻め、大将李牧・将軍司馬尚がこれを迎え撃ったが、李牧は讒言により誅殺され司馬尚は罷免、代わりに趙怱と斉将顏聚が指揮したが趙怱の軍は破れ顏聚は逃走、王遷は降伏した。
- 8年10月、邯鄲は秦のものとなった。
史論
- 太史公は言う。馮王孫によれば「趙王遷はその母が歌舞の芸人出身で悼襄王に寵愛されており、悼襄王は嫡子の嘉を廃して遷を立てた。遷は元来素行が悪く讒言を信じたため、良将李牧を誅し郭開を用いた」という。まったく愚かなことである。秦が遷を虜にした後、趙の亡命大夫たちは嘉を王に立て、代で6年在位したが、秦が兵を進めて嘉を破り、ついに趙を滅ぼして郡とした。