史記卷三十一 吳太伯世家第一 季札

季札は呉王壽夢の四男。譲位を辞退し延陵に封じられた賢人(延陵季子)として知られる。その没後、公子光(闔廬)は専諸に王僚を刺殺させて自立し、伍子胥・孫武を用いて楚を攻め一時は都の郢を陥落させるなど覇権を築いたが、晩年、越を攻めて檇李で句踐に敗れ没した。子の夫差は即位後まもなく越を夫椒で破り会稽で句踐を降したが、伍子胥の諫言を退けて講和を許して自死させ、斉への北伐に力を注ぐ間に越が国力を蓄えて呉都を急襲、二十三年、越に攻め滅ぼされ甬東で自刎して没した。

年表(15件)
  • 王僚十三年四月丙子専諸に王僚を刺殺させ自ら即位して呉王闔廬となる
  • 闔廬元年伍子胥を行人に取り立て国事を諮る
  • 三年伍子胥・伯嚭と楚を攻め舒を抜く
  • 五年越を攻め破る
  • 六年楚将子常を豫章で大破し居巢を奪う
  • 九年楚の都郢を陥落させ、伍子胥・伯嚭に平王の遺体を鞭打たせる
  • 十年弟夫概の呉王僭称を討ち、楚は郢へ復帰する
  • 十一年太子夫差に楚の番を攻めさせる
  • 十九年闔廬、越を攻めて檇李で句踐に敗れ、指の傷がもとで没す
  • 夫差元年伯嚭を太宰に任じ対越報復のため軍備を訓練する
  • 二年越を夫椒で破り会稽に追い詰めた句踐の臣従を許す
  • 七年伍子胥の諫言を退け斉を攻め艾陵で斉軍を破る
  • 十四年黄池で諸侯と覇を争う間に越が呉都を急襲し太子友を捕虜とする
  • 十八年越に笠澤で敗れる
  • 二十三年十一月丁卯越に呉を滅ぼされ、甬東に遷されるも自刎して没す

季札の諸国歴訪

  • 餘祭三年、斉の宰相慶封が罪を得て呉に亡命し、呉は朱方の県を与えて厚遇した。四年、季札は魯に使いし周の音楽の鑑賞を願った。『周南』『召南』から『邶』『鄘』『衛』『王』『鄭』『齊』『豳』『秦』『魏』『唐』『陳』の各国風、『小雅』『大雅』『頌』に至るまで、季札はそれぞれの音楽に対し国の徳や将来を評する言葉を残した。舞楽『象箾』『南籥』『大武』『韶護』『大夏』『招箾』についても同様に鑑賞と評言を行い、特に『招箾』の舞に至って「これ以上の徳はない、これで観るのをやめよう」と述べたと伝わる。
  • 魯を去って斉に至り、晏平仲(晏嬰)に対し「早く邑と政を返上せよ、そうすれば難を免れる」と説き、晏子はこれに従って陳桓子を通じて邑と政を返上し、後の欒高の乱から免れた。
  • 斉を去って鄭に至り、旧知のように子産と会い、「鄭の執政は驕っており、いずれ難が及ぶので、政を執る際は礼を慎むように」と説いた。鄭を去って衛に至り、蘧瑗・史狗・史鰌・公子荊・公叔發・公子朝ら衛の君子たちを評し「衛には君子が多く憂いはない」と述べた。
  • 衛から晋へ向かう途上、宿で鐘の音を聞き「弁は立つが徳がない者は必ず戮に遭う。この人物(孫文子)は君に罪を得てここにいるのに、まだ楽しんでいる」と評し、立ち去った。この評は孫文子(文子)に伝わり、彼は終生琴瑟を聴かなくなったという。
  • 晋に至り趙文子・韓宣子・魏獻子に「晋の国政はやがてこの三家に集約されるだろう」と語り、去り際に叔向に対し「君は驕り良臣は多いが、大夫はみな富み、政はやがて三家に帰す。あなたは正直な人なので、身の安全を図るように」と忠告した。

徐君の剣の逸話

  • 季札が初めて使者として出発した際、北で徐君を訪れた。徐君は季札の剣を欲しがりながらも口には出さなかったが、季札はその心を察しつつ、使命のため未献のままとした。帰路に徐に立ち寄ると徐君は既に没しており、季札は剣を解いて徐君の墓の樹に掛けて立ち去った。従者が「徐君は既に亡いのに誰に贈るのか」と問うと、季札は「初めから心の中で贈ると決めていた。死んだからといって己の心に背くわけにはいかない」と答えたという。

楚との攻防と餘眜・季札の継承

  • 七年、楚の公子圍が王夾敖を弑して自立し霊王となった。十年、楚の霊王は諸侯を集めて呉の朱方を討ち、亡命していた斉の慶封を誅した。呉も楚を攻め三邑を奪って引き上げた。十一年、楚が呉を攻め雩婁に至った。十二年、楚が再び来攻し乾谿に陣したが楚軍は敗走した。
  • 十七年、餘祭が没し弟の餘眜が立った。餘眜二年、楚の公子棄疾が霊王を弑して自立した。
  • 四年、餘眜が没し季札に位を譲ろうとしたが、季札は辞して逃れた。呉人は「先王の遺命では兄弟継承の末に季子へ至るはずだが、季子が位を辞したため餘眜の後は」と協議し、餘眜の子である僚を王に立てた。

王僚と公子光の対立、専諸の刺殺

  • 王僚二年、公子光が楚を攻めたが敗れて王の舟を失い、光は自ら襲撃して舟を取り戻した。
  • 五年、楚の亡臣伍子胥が呉に亡命し、公子光がこれを客分として迎えた。公子光は諸樊の子であり、本来は父兄弟四人の順に季子まで位が伝わるはずだったが、季子が国を受けなかった以上、父(諸樊)が先に立った自分にこそ継承権があると考え、密かに賢士を集め王僚の襲撃を図っていた。
  • 八年、公子光は楚を攻め敗り、亡命していた楚の元太子建の母を居巣から連れ帰り、さらに北方で陳・蔡の軍を破った。九年、公子光は楚を攻め居巣・鍾離を抜いた。この年、楚の辺邑と呉の辺邑の女性間の桑をめぐる争いが両国の衝突に発展し、呉王は怒って楚の両都を奪った。
  • 伍子胥は当初、王僚に楚討伐の利を説いたが、公子光は「子胥は父兄の恨みを晴らしたいだけで、国益にはならない」と見抜き、伍子胥もまた光の別の志を察し、勇士専諸を光に引き合わせた。光は喜んで伍子胥を厚遇し、子胥はいったん田野に退いて専諸の機会を待った。
  • 十二年冬、楚の平王が没した。十三年、呉は楚の喪に乗じて攻め入ろうとし、公子蓋餘・燭庸に六・灊を包囲させ、季札を晋に派遣して諸侯の動向を探らせた。ところが楚軍に退路を断たれ呉軍は帰還できなくなった。この機を捉え公子光は専諸に「王僚を討つ好機であり、自分こそ正統な王嗣である」と決意を語り、専諸も「王僚は母老い子弱く、両公子は楚に釘付けにされ内に頼るべき臣もない、好機である」と応じた。
  • 四月丙子、光は地下室に甲士を伏せ、王僚を宴に招いた。王僚は厳重な護衛を伴ったが、光は足の病と偽り地下室に入り、専諸に匕首を炙り魚の腹に隠して王僚に献上させ、専諸はこれで王僚を刺殺した。公子光はついに自ら王位に立ち、呉王闔廬となった。専諸の子は卿に取り立てられた。
  • 季札は帰国後、「先君の祭祀が絶えず、民に主があり、社稷が保たれるならばそれが我が君である」として王位の争いを咎めず、王僚の墓に哭してから元の地位に復した。楚を包囲していた公子燭庸・蓋餘は光の簒奪を知り、兵を率いて楚に降伏し、楚は二人を舒に封じた。

呉王闔廬の治世と楚攻略

  • 闔廬元年、伍子胥を行人(外交官)に取り立て国事を諮った。楚が伯州犂を誅殺すると、その孫伯嚭が呉に亡命し大夫に任じられた。
  • 三年、闔廬は伍子胥・伯嚭とともに楚を攻め舒を抜き、かつて楚に降伏した二公子(燭庸・蓋餘)を殺した。楚都郢への侵攻を望む光に対し、将軍孫武は「民が疲弊しているため時期尚早」と諫めた。四年、楚を攻め六・灊を奪った。五年、越を攻め破った。六年、楚の子常(囊瓦)が呉を攻めたが、呉はこれを豫章で大破し楚の居巢を奪って帰還した。
  • 九年、闔廬は伍子胥・孫武に「かつて郢侵攻の機は熟していないと言ったが、今はどうか」と問うと、二人は「楚の将子常は貪欲で唐・蔡から恨みを買っている。唐・蔡と結べば大挙して攻めることができる」と答え、闔廬はこれに従い唐・蔡とともに西進し漢水に至った。楚も兵を発して対峙したが、闔廬の弟夫概が独断で五千の兵で楚軍を急襲し大勝、呉軍はそのまま追撃を続け五戦五勝して楚の都郢に至った。楚の昭王は郢を脱出し鄖・随へと逃れた。伍子胥・伯嚭は父の仇である平王の遺体を鞭打って報復した。
  • 十年、越は呉が郢に在って国内が手薄になった隙を突いて呉を攻め、呉は別動隊で応戦した。楚は秦に援軍を求め、秦軍が呉を破った。闔廬の弟夫概はこの混乱に乗じ、呉が郢に留まり続ける間に無断で帰国して自ら呉王を称した。これを知った闔廬は兵を引いて夫概を討ち、夫概は楚に逃れ敗れて堂谿に封じられ堂谿氏となった。楚の昭王は九月に郢へ復帰した。十一年、闔廬は太子夫差に楚の番を攻めさせ、楚は郢を捨て鄀へ遷った。
  • 十五年、孔子が魯の相となった。
  • 十九年夏、呉が越を攻めると、越王句踐は檇李で迎撃し、決死隊に自刎させて呉軍を動揺させる奇策で呉を破り、闔廬は指に傷を負って没した。闔廬は太子夫差に「越王句踐がお前の父を殺したことを忘れるな」と遺言し、夫差は「忘れません」と誓った。三年後、夫差は越への報復を果たすこととなる。

夫差の治世と伍子胥の諫言・死

  • 夫差元年、伯嚭を太宰に任じ、戦の訓練を重ねて対越報復を志とした。二年、夫差は精鋭を挙げて越を夫椒で破り姑蘇の恥を雪いだ。追い詰められた越王句踐は会稽山に籠もり、大夫種を通じて太宰嚭に取り入り講和を求め臣従を申し出た。夫差はこれを許そうとしたが、伍子胥は夏の少康の故事(滅ぼされかけた王家が再興した先例)を引き、「今の句踐は少康より強大で、これを滅ぼさねば必ず後悔する」と諫めた。しかし夫差は太宰嚭の言に従い越との講和を結んで兵を退いた。
  • 七年、夫差は斉の景公の死と後継争いに乗じ斉への北伐を企てた。伍子胥は「越こそ腹心の疾患であり、これを先に滅ぼすべきなのに斉に注力するのは誤り」と諫めたが聞き入れられず、呉軍は艾陵で斉軍を破り、繒で魯の哀公を召し百牢の献納を求めた。魯の季康子は子貢を遣わし周礼を説いて太宰嚭を通じ献納を撤回させた。九年、騶(魯の属国)を討ち、十年には斉を伐って帰り、十一年には再び北伐を行った。
  • 越王句踐が臣従の礼をもって朝見し厚い献上を行うと夫差は喜んだが、伍子胥は「これは呉を滅ぼす布石だ」として、『盤庚の誥』(顛越(背く者)を除いてこそ商は興隆したという故事)を引いて諫めた。夫差はこれも聞き入れず、伍子胥を斉への使者として遣わした。子胥は自らの子を斉の鮑氏に託して帰国し復命したが、夫差はこれを知り激怒し、屬鏤の剣を賜って自死を命じた。子胥は死に際し「わが墓に梓を植え、それで器を作れるようにせよ。わが眼をえぐって呉の東門に掲げ、越が呉を滅ぼすさまを見せよ」と言い残した。

呉の滅亡

  • 斉では鮑氏が悼公を弑した。夫差はこれを聞き軍門の外で三日哭し、海路から斉を攻めたが敗れて撤退した。
  • 十三年、呉は魯・衛の君主を橐皋に会した。
  • 十四年春、夫差は黄池で諸侯を会し、中原に覇を唱えて周室を守ろうとした。その隙に越王句踐が呉を攻め、越軍五千が呉軍と戦い、呉の太子友を捕虜とし呉都に侵入した。夫差はこの敗報を隠そうとしたが漏れ、これを漏らした七人を斬った。七月、夫差は晋の定公と盟主の座を争い、「周室において我こそ長」と主張したが、晋は「姫姓において我こそ伯」と反論し、趙鞅の怒りを受けて呉は結局晋に主導権を譲った。太子を失い国内が手薄な中、夫差は宋への攻撃を諦め、厚い贈り物をもって越と講和し帰国した。
  • 十五年、斉で田常が簡公を弑した。
  • 十八年、越がいっそう強大化し、笠澤で再び呉軍を破った。楚は陳を滅ぼした。
  • 二十年、越王句踐が再び呉を攻め、二十一年には呉を包囲した。二十三年十一月丁卯、越は呉を破った。句踐は夫差を甬東に遷し百家を与えて生かそうとしたが、夫差は「わしは老いた。もはや君王に仕えることはできぬ。子胥の言を用いなかったことをここに悔いる」と述べ自刎した。越王は呉を滅ぼし、不忠を理由に太宰嚭も誅殺して帰国した。

史論

  • 太史公は、孔子が「太伯は至徳と言うべきである。三たび天下を譲り、民はその徳を称えることさえできなかった」と評したことを引く。自らが『春秋』の古文を読んで、中国内の虞と荊蛮の句吳とが兄弟の家系であったことを知ったと述べ、延陵季子(季札)の仁心と義への慕い、微かな兆しから物事の清濁を見抜く洞察力を称え、「なんと広く物事を見通す君子であったことか」と結ぶ。