封禪の由来
- 古来、天命を受けた帝王で封禪(泰山で天を祀り、麓の梁父山で地を祀る儀礼)を行わなかった者はいないとされるが、天の瑞応があっても事に及ばなかった例や、天命を受けても功業・徳が及ばず実施しなかった例もある。世が隆盛するたびに封禪が行われ、衰えると絶えたため、その儀礼の詳細は千年余りの時を経て失われ、記録も定かではない。
五帝・三代の郊祀
- 『尚書』によれば、舜は璇璣玉衡で天体を観測し、上帝を祀り、六宗を祀り、山川を望んで諸神を遍く祀った。五瑞(諸侯の玉器)を集め、吉日を選んで四方の諸侯を引見し瑞玉を返した。二月には泰山(岱宗)を東の起点として巡狩し、五月に衡山(南嶽)、八月に華山(西嶽)、十一月に恒山(北嶽)を巡り、中嶽の嵩高を含め五年に一度巡狩する制度があったとする。
- 禹はこの制度を継承したが、十四代後の孔甲が淫らに神を求めたため神霊が離れ、さらに三代のちに湯王が桀を討った。八代後の太戊は桑と穀(不吉な植物)が朝廷に生えたのを恐れたが、臣下伊陟の「妖は徳に勝てない」という言に従い徳を修めて事なきを得た。十四代後の武丁(高宗)は雉が鼎の耳で鳴いたのを恐れたが、臣下祖己の勧めで徳を修め、殷を再興した。以後、武乙は神を侮って震死し、紂は淫乱の末に武王に討たれた。太史公はこれを「初めは慎み深くとも、後には怠慢になる」例として引く。
周代の祭祀制度
- 『周官』によれば、冬至には南郊で天を、夏至には地祇を祭り、いずれも音楽・舞を用いた。天子は天下の名山大川を、諸侯は自国内の名山大川を祭る(五嶽は三公に、四瀆=長江・黄河・淮水・済水は諸侯に准ずる格式)。天子の学び舎を明堂・辟雍、諸侯のそれを泮宮と呼んだ。
- 周公は成王を輔けて郊祀で后稷を天に配し、明堂で文王を上帝に配して祀った。禹の代からの社(土地神)祭祀、后稷の稼穡以来の稷祠など、郊社の由来は古い。
秦の勃興と雍の諸畤
- 周が衰えて幽王が犬戎に敗れ東遷したのち、秦の襄公が戎を討って周を助け諸侯に列せられた。襄公は西垂で少皞神を主とし西畤を作って白帝を祀った。十六年後、文公が黄蛇の夢を見て史敦の勧めで鄜畤を作り白帝を郊祭した。
- 雍の地は古来「神明の隩(奥まった聖地)」とされ、黄帝の時代から用いられたともいう(この説の出典は不確かで、士大夫は語らないと太史公は付記する)。鄜畤建立の九年後、文公は「陳寶」という夜な夜な現れる神石を得て祀った。
- 七十八年後、秦の徳公は雍に都を定め、鄜畤で三百頭の牛を用いる祭祀と伏祠を始め、四門で犬を裂いて疫病を祓った。徳公は在位二年で没し、六年後の宣公は渭南に密畤を作り青帝を祀った。十四年後、繆公は病中に上帝の夢を見て晋の内乱平定を命じられたとされる伝説が記録に残る。
- 繆公即位九年、覇者となった斉の桓公が諸侯を葵丘に会し封禪を望んだ際、管仲は「古来封禪した者は七十二家あるが、確かな記録は十二家のみ」と述べ、無懷氏・虙羲・神農・炎帝・黄帝・顓頊・帝俈・堯・舜・禹・湯・周成王の各封禪の逸話を列挙した。その上で「今は鳳凰麒麟も来ず嘉穀も実らず、蓬や梟ばかりが目立つのに封禪は不可」と諫め、桓公はこれを取りやめた。同年、繆公は晋の夷吾を擁立し、後に三度晋君を擁立するなど晋の内乱を平定し、三十九年間在位して没した。
孔子の時代から秦統一まで
- その後百余年、孔子は六蓺を論じ、易姓革命による封禪は七十余人に及んだが儀礼の詳細は不明であるとした。禘の祭祀について問われた孔子は「知らない」と答えたと伝わる。周成王の封禪は徳の隆盛にふさわしいものであったが、後に陪臣が権を執り季氏が泰山で旅祭を行った際、孔子はこれを非礼として批判した。
- この頃、萇弘は周霊王に方術で仕え、諸侯の来朝が絶えたことを憂い鬼神の術(射《貍首》)で諸侯を招こうとしたが従わせられず、晋人に殺された。周の方怪の言説はここに始まるとされる。
- 百余年後、秦の霊公は吳陽に上畤(黄帝を祀る)・下畤(炎帝を祀る)を作った。四十八年後、周の太史儋は秦の献公に「秦は周と合し、離れ、五百年後に再び合し、十七年で覇王が出る」と予言し、櫟陽に金が降った瑞祥を受けて献公は畦畤を作り白帝を祀った。その百二十年後に秦は周を滅ぼし九鼎を得た(一説に鼎は泗水に沈んだとも伝わる)。さらに百十五年後、秦は天下を統一した。
始皇帝の封禪
- 始皇帝は天下統一に際し、五行相勝説(黄帝=土徳、夏=木徳、殷=金徳、周=火徳、秦=水徳)に基づき、黄河を「徳水」と改称し、十月を年首とし、色は黒、六を基準の数とするなど制度を定めた。
- 即位三年、東方を巡り騶山・嶧山で秦の功業を頌え、斉魯の儒生七十人を集めて泰山で封禪の議論をさせたが、儒生たちの意見が食い違い実用に堪えなかったため、始皇帝は儒生を退け独自に道を開いて泰山に登り石碑を立てて封じ、梁父で禪祭を行った。儀礼は雍の上帝祭祀に倣ったが、封蔵の内容は秘され後世に伝わらなかった。
- 登山中に暴風雨に遭ったことを、退けられた儒生たちは非難した。その後始皇帝は東方の海上を巡り、名山大川と八神(天主・地主・兵主・陰主・陽主・月主・日主・四時主、それぞれ斉の特定の山川に対応)を祀り、僊人(不老不死の仙人)を求めた。
- 斉の騶衍らの陰陽五徳終始説が秦に採用され、燕の宋毋忌・正伯僑・充尚・羨門高らが方僊道を唱え、鬼神の術を語る怪迂の徒がこの頃から輩出したと記される。斉の威王・宣王・燕の昭王以来、渤海の蓬萊・方丈・瀛洲の三神山を求めて人が遣わされたが、いずれも到達できなかったという伝説が語られる。始皇帝も同様に童男女を海に送ったが得られず、東方巡行を重ね、最終的に沙丘で崩じた。
- 二世皇帝も元年に碣石・泰山・会稽を巡り始皇帝の石碑に追記させたが、その秋に諸侯が秦に叛き、三年後に二世は弑された。太史公は、始皇帝の封禪の十二年後に秦が滅んだことを、天下の民が「暴風雨で封禪を果たせなかったからだ」と噂したことと結びつけ、「徳なくして事を用いた者」の例として位置づける。
秦代の祭祀の整理
- 秦は天下統一後、崤山以東の名山五(太室=嵩高、恒山、泰山、会稽、湘山)・大川二(済水・淮水)、崤山以西の名山七(華山・薄山・岳山・岐山・吳岳・鴻冢・瀆山)・名川四(河・沔・湫淵・江水)を定め、季節ごとに牲を用いて祀った。雍の地には日・月・北斗・熒惑・太白・歳星・填星・辰星・二十八宿・風伯・雨師など百余の廟が置かれ、四大冢や陳寶などにも特別の祭祀が行われた。
漢の高祖と初期の祭祀
- 高祖は微賤の頃に大蛇を斬った故事(「白帝の子を殺した赤帝の子」の伝説)で知られ、挙兵時には蚩尤を祀り軍旗に釁(血祭り)を行った。十月に灞上に至り漢王となったため、十月を年首とし色は赤を用いた。
- 二年、故秦の四帝(白・青・黄・赤)の祠を継承し、「天に五帝あるはずが四つしかない」との疑問から自ら黒帝祠(北畤)を立て、故秦の祝官を復して太祝・太宰を置き、県ごとに公社を建てさせた。以後、豊の枌榆社・長安の蚩尤祠・梁巫・晋巫・秦巫・荊巫・九天巫など各地方の巫祝による祭祀が宮中で行われるようになった。高祖十年には民間の社稷祭祀の規定も定められた。
文帝の祭祀改革
- 文帝十三年、祕祝(過ちを下に転嫁して祈る祝官)を廃止する詔を出し、名山大川の祭祀を諸侯任せにせず整理した。同じ年、在位十三年の治世の安定を上帝・諸神の賜物とし、雍の五畤や河・湫・漢水への祭祀を増強する詔を出した。
- 魯の公孫臣が「秦は水徳、漢は土徳に当たり、黄龍の出現がその瑞応となる」と上書したが、丞相張蒼は漢を水徳とする説を主張し公孫臣の説は退けられた。しかし三年後、成紀に黄龍が現れ、公孫臣は博士に任じられ改暦・服色の改定が議論された。文帝は夏四月に初めて雍の五畤で郊祀を行い、服色を赤とした。
- 翌年、趙人の新垣平が望気の術で「長安東北に神気あり」と説き、渭陽に五帝廟が作られた。新垣平は玉杯の献上や日が一度傾いて再び中天に戻ったとする偽りの奇瑞を演出し重用されたが、後にこれらが詐術であったことが露見し誅殺された。以後文帝は改暦・服色・神明の事業に消極的になった。
- 景帝の代(十六年間)は祠官が旧例通り祭祀を行うのみで新たな事業はなかった。
武帝初期の祭祀と方士たち
- 武帝は即位当初から鬼神の祭祀を特に重んじた。元年、儒学を重んじ趙綰・王臧らを登用して明堂の造営や巡狩・封禪の改暦を議論させたが、黄老思想を奉じる竇太后の反対で頓挫し、趙綰・王臧は自殺に追い込まれた。竇太后の崩後、公孫弘らの文学の士が再び登用された。
- 武帝は雍で五畤を郊祀し、以後三年に一度郊祀する慣例ができた。長陵の女性の霊とされる「神君」を上林苑に祀り、李少君という方士が竈神の祭祀・穀断ち・不老の術で寵愛を受けた。李少君は丹砂を黄金に変え、それによって蓬萊の仙人に会い不死を得るという説を唱えたが、まもなく病死した。武帝はこれを「化去(仙化)」と信じ、その方術を黄錘の史寛舒に継がせた。
- 亳の謬忌が太一神への祭祀を上奏し、長安東南郊に太一祠が立てられた。以後も上書によって天一・地一・太一の三神を三年に一度太牢で祀る制度、黄帝・冥羊・馬行などへの祭祀が追加された。
元狩年間の瑞祥と方士欒大
- 白鹿の皮を用いた瑞応の造作、雍での一角獣(麒麟とされた)の出現を機に、諸侯へ白金を下賜する事業が行われた。済北王が泰山とその周辺の邑を天子に献上し、常山王の罪により常山が郡に編入されたことで、五岳がすべて天子の直轄領内に入った。
- 斉人の少翁が鬼神の術で亡き王夫人の姿を幻に映して見せ、文成将軍に任じられたが、方術が衰えたため偽の書を牛の腹に仕込んで発覚し誅殺された。
- その死の翌年、武帝が病に伏した際、上郡の巫を通じて神君のお告げを受け快復したとされ、壽宮に神君を祀る事業が拡大された。この頃、年号を瑞祥に基づいて「建元」「元光」「元狩」と定める制度も始まった。
- 汾陰で后土を祀る祠が建てられ、太史公・祠官寛舒らの議により、后土の祭祀は澤中の圜丘に五壇を築いて行われることとなった。周王朝の後裔を周子南君に封じる詔もこの頃出された。
- 楽成侯の推挙で膠東の方士欒大が武帝に謁見し、大言壮語をもって信任を得た。欒大は文成の轍を踏むことを恐れつつも、五利将軍・天士将軍・地士将軍・大通将軍などの印綬を与えられ、衛長公主を妻とし莫大な富貴を得たが、蓬萊の師を求めるという口実で東方に去り、実際には何も得られなかったことが露見して誅殺された。
- 汾陰の巫錦が土中から鼎を発見し、これが甘泉に迎えられ「宝鼎」として尊ばれた。公卿は黄帝が神鼎を得た故事に倣い、鼎の出現を漢の徳の証とすべきと論じ、武帝はこれを祖廟に供え、以後を元鼎と改元した。
泰山封禪の実現
- 斉人の公孫卿が黄帝の鼎の逸話(黄帝が鼎湖で竜に乗って昇天した話、鬼臾区の言など)を献上し、武帝の心を強く動かした。武帝は隴西・崆峒を経て甘泉に至り、寛舒らに太一祠壇を作らせ、雍の祭祀に准じつつ醴・棗脯などを加えた儀礼を整えた。
- 十一月辛巳朔旦冬至の日、武帝は自ら郊して太一を拝した。この祭祀は黄帝の暦法(二十歳ごとに朔旦冬至が巡る周期)に基づくとされ、瑞光が見えたと公卿は報告した。南越征討に際しては太一への告禱と「霊旗」による軍事祈祷も行われた。
- 五利将軍(欒大)が海に入らず泰山に留まって虚偽を重ねたため誅殺され、公孫卿は緱氏城で仙人の跡と称するものを発見したと報告した。
- 元封元年、武帝は泰山の東で禮楽をもって天を祀る封の儀を行い(玉牒書は秘され後世に伝わらず)、独り子侯(奉車都尉)とともに山頂で封の儀を行った後、山の東北・肅然山で后土を祀る禪の儀を行った。夜には光が現れ、昼には白雲が立ち上ったと記録される。
- 天子は封禪を終えて明堂に座し、大赦・恩賞の詔を発した。「五載一巡狩」の古制に倣い、諸侯に泰山下の邸宅を持たせる詔も出された。その後も方士たちの言に望みをつなぎ東方の海を巡ったが、随行の子侯が急死するなど、蓬萊への到達は果たせなかった。
元封年間以降の祭祀の展開
- 元封元年の秋、東井・三能に星が現れたことを填星の瑞応として吉兆と解釈された。翌年、雍の五帝を郊祀し太一を拝した後、公孫卿の報告に基づき東萊山で神人を探させたが成果はなく、旱魃も重なった。武帝は瓠子の黄河決壊の修復にも自ら臨んだ。
- 越人の風習に倣い越祝祠と鶏卜が採用され、公孫卿の勧めで長安に蜚廉桂観、甘泉に益延寿観、通天台などが築かれ、仙人を招くための施設が拡充された。甘泉宮の芝(霊芝)の出現を瑞祥として大赦が行われた。朝鮮征討の年には旱魃が「乾封」(黄帝の代の故事に倣う)とされた。
- 南巡・天柱山(南岳と号す)の巡拝、江陵・尋陽・彭蠡・琅邪を経て奉高で封を修めた。この際、済南人の公玉帯が献上した黄帝時代の明堂図に基づき、汶水のほとりに明堂が造営され、太一・五帝・高皇帝・后土を祀る複合的な祭祀が行われた。
- 十一月甲子朔旦冬至の日には明堂での祭祀のみを行い封禪は行わなかった。柏梁台の火災を機に甘泉での朝賀に切り替え、公孫卿の勧めで甘泉宮を「黄帝の明廷」に見立て、越の風習に倣い火災除けとして壮大な建章宮が築かれた(鳳闕・唐中・太液池・玉堂・璧門・神明台・井幹楼など)。
- 太初元年、暦を改めて正月を歳首とし色を黄とするなど新制度が定められた。この年、大宛遠征と蝗害が重なった。
- その後も雍の五畤の祭祀器物の整備、東方巡行での神仙探索、東泰山・凡山での禪祭(東泰山が小さいため実際には封禪を行わず祠官による祭祀のみとした逸話)、五年ごとの泰山修封と恒山での祭祀などが続けられたが、蓬萊神仙の探索はついに成果を得られなかった。
- 現在(本書執筆時点)の武帝の祭祀体系は、太一・后土を中心に三年ごとの親祭、五年ごとの泰山修封、薄忌の太一・三一・冥羊・馬行・赤星の五祠(寛舒の祠官が管掌)などから成り、封禪から十二年を経て五岳・四瀆を巡り終えたが、方士による神仙探索は蓬萊に至った例がなく、公孫卿の報告も「巨人の足跡」を口実にする域を出なかった。武帝は方士の怪しげな言説に倦みながらも、なお真の霊験に望みをつなぎ、これを完全には絶たなかった。
史論
- 太史公は自ら巡幸に従って天地・諸神・名山大川を祭り封禪に立ち会い、壽宮で神の言葉を伝える儀礼にも侍り、方士や祠官の意図を深く観察したとする。そこで得た知見を後の時代の記録として残すため、この書を著したと述べる。俎豆・珪幣の細かな儀礼の詳細については、担当の役人(有司)の記録に譲るとして筆を置く。