史記卷十三 三代世表
太史公の弁
- 太史公曰く、五帝・三代の記録は久しく古い。殷以前の諸侯は系譜を確定できないが、周以来はかなり明らかにできる。孔子は史文により春秋を編み、元年を紀し年月日を正したことは実に詳細であった。一方『尚書』の序では年月が略され、あっても多くが欠けており採録できない。故に疑わしきは疑わしきままに伝えるのが慎み深いあり方である。
- 私が諜記(系譜記録)を読むと、黄帝以来すべてに年数が付されているが、暦譜・諜(系図)・終始五徳の伝を調べると、古文の記述は一致せず食い違う。孔子がその年月を論じ定めなかったのも当然であろう。そこで五帝繋諜・尚書によって黄帝から共和に至るまでの世系をまとめ「世表」とした。
帝王の系図(黄帝から夏・殷・周の建国まで)
- 顓頊系: 黄帝は昌意を生み、昌意は顓頊を生んだ(顓頊は高陽氏となる。黄帝から三世、号は高陽)。
- 帝俈系: 黄帝は玄囂を生み、玄囂は蟜極を生み、蟜極は高辛を生んだ(高辛は帝俈となる。黄帝から四世、号は高辛)。
- 唐堯系: 高辛(帝俈)は放勛を生み、放勛が帝堯となった(黄帝から俈の子まで五世、号は唐)。
- 虞舜系: 昌意の子顓頊は窮蟬を生み、窮蟬は敬康を、敬康は句望を、句望は蟜牛を、蟜牛は瞽叟を生み、瞽叟は重華を生んだ(重華が帝舜となる。黄帝の玄孫の玄孫にあたり、号は虞)。
- 夏后系: 顓頊は鯀を生み、鯀は文命を生んだ(文命が禹となる。黄帝の耳孫にあたり、号は夏)。
- 殷系(建国以前の祖先): 蟜極の子高辛は卨(契)を生んだ(卨は殷の祖となる)。以下、卨は昭明を、昭明は相土を、相土は昌若を、昌若は曹圉を、曹圉は冥を、冥は振を、振は微を、微は報丁を、報丁は報乙を、報乙は報丙を、報丙は主壬を、主壬は主癸を生み、主癸が天乙を生んだ(これが殷湯である)。
- 周系(建国以前の祖先): 高辛は后稷を生んだ(后稷は周の祖となる)。以下、后稷は不窋を、不窋は鞠を、鞠は公劉を、公劉は慶節を、慶節は皇僕を、皇僕は差弗を、差弗は毀渝を、毀渝は公非を、公非は高圉を、高圉は亞圉を、亞圉は公祖類を、公祖類は太王亶父を生み、太王亶父は季歴を生み、季歴は文王昌を生んだ(文王は易の卦を増補したという)。文王昌は武王發を生んだ。
夏王朝の歴代(禹以降)
- 禹の後、啟が立つ(有扈氏を討ち「甘誓」を作った)。以下、太康、仲康(太康の弟)、相、少康、予、槐、芒、泄、不降、扃(不降の弟)、廑、孔甲(不降の子。鬼神を好み淫乱で徳を好まず、二龍が去ったという)、皋、發と続き、履癸(桀)に至る。禹から桀まで十七世、黄帝から桀まで二十世にあたる。
殷王朝の歴代
- 殷の湯が夏に代わって天下を治めた(黄帝から湯まで十七世)。以下、外丙(湯の太子であった太丁が早世したため立てられた次弟)、仲壬(外丙の弟)、太甲(太子太丁の子。淫乱で伊尹に桐宮へ追放されたが、三年で悔い改め、伊尹が迎えて復位させた)、沃丁(この代に伊尹が没した)、太庚(沃丁の弟)、小甲(太庚の弟。殷の道が衰え諸侯の一部が朝賀に来なくなった)、雍己(小甲の弟)、太戊(雍己の弟。桑と穀の木が宮中に生じた瑞異により中宗と称された)、中丁、外壬(中丁の弟)、河亶甲(外壬の弟)、祖乙、祖辛、沃甲(祖辛の弟)、祖丁(祖辛の子)、南庚(沃甲の子)、陽甲(祖丁の子)、盤庚(陽甲の弟。都を河南に遷す)、小辛(盤庚の弟)、小乙(小辛の弟)、武丁(雉が鼎の耳に止まり鳴いた瑞異があり、傅説を得て高宗と称された)、祖庚、祖甲(祖庚の弟。淫乱であった)、廩辛、庚丁(廩辛の弟。殷は河北に遷都)、武乙(神を侮り雷に打たれて死んだ)、太丁、帝乙(殷はますます衰えた)、帝辛(紂である。弑逆に遭う。湯から紂まで二十九世、黄帝から紂まで四十六世)と続いた。
周の建国
- 周武王が殷に代わった(黄帝から武王まで十九世)。
諸侯十一国の世系(周成王〜共和)
周の各王代における魯・齊・晉・秦・楚・宋・衛・陳・蔡・曹・燕の当主を、判明する限り記す(空欄は原表に記載なし)。
| 周王 | 魯 | 齊 | 晉 | 秦 | 楚 | 宋 | 衛 | 陳 | 蔡 | 曹 | 燕 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 成王誦 | 周公旦(武王弟、初封) | 太公尚(文王・武王の師、初封) | 唐叔虞(武王子、初封) | 惡來(紂を助けた者。父は飛廉、力に優れた) | 熊繹(父鬻熊は文王に仕えた、初封) | 微子啟(紂の庶兄、初封) | 康叔(武王弟、初封) | 胡公滿(舜の後裔、初封) | 叔度(武王弟、初封) | 叔振鐸(武王弟、初封) | 召公奭(周の同姓、初封) |
| 康王釗(刑罰を四十余年用いなかった) | 魯公伯禽 | 丁公呂伋 | 晉侯燮 | 女防 | 熊乂 | 微仲(啟の弟) | 康伯 | 申公 | 蔡仲 | ― | 九世を経て惠侯に至る |
| 昭王瑕(南方巡幸のまま戻らず、諱んで喪を発表せず) | 考公 | 乙公 | 武侯 | 旁皋 | 熊黮 | 宋公 | 孝伯 | 相公 | 蔡伯 | 太伯 | ― |
| 穆王滿(甫刑を作る。荒服の民が朝貢に来なくなる) | 煬公(考公の弟) | 癸公 | 成侯 | 大几 | 熊勝 | 丁公 | 嗣伯 | 孝公 | 宮侯 | 仲君 | ― |
| 恭王伊扈 | 幽公 | 哀公 | 厲侯 | 大駱 | 熊煬 | 湣公(丁公の弟) | 疌伯 | 慎公 | 厲侯 | 宮伯 | ― |
| 懿王堅(周の道が衰え詩人が風刺を作った) | 魏公 | 胡公 | 靖侯 | 非子 | 熊渠 | 煬公(湣公の弟) | 靖伯 | 幽公 | 武侯 | 孝伯 | ― |
| 孝王方(懿王の弟) | 厲公 | 献公(胡公を弑した) | ― | 秦侯 | 熊無康 | 厲公 | 貞伯 | 釐公 | ― | 夷伯 | ― |
| 夷王燮(懿王の子) | 献公(厲公の弟) | 武公 | ― | 公伯 | 熊鷙紅 | 釐公 | 頃侯 | ― | ― | ― | ― |
| 厲王胡(過ちを聞くのを嫌って乱れ、国を出奔し彘の地で没した) | 真公 | ― | ― | 秦仲 | 熊延(紅の弟) | ― | 釐侯 | ― | ― | ― | ― |
| 共和(二伯が政を代行) | 武公(真公の弟) | ― | ― | ― | 熊勇 | ― | ― | ― | ― | ― | ― |
附録:張夫子と褚先生の問答
- 張夫子が褚先生(褚少孫)に問うた。「『詩』は契・后稷がいずれも父なくして生まれたと言うが、諸伝は皆父があると言い、その父はいずれも黄帝の子であるとする。これは『詩』と矛盾しないか。」
- 褚先生は答えた。「そうではない。『詩』が契は卵から、后稷は巨人の足跡を踏んで生まれたと言うのは、天命の精誠を示すためである。鬼神も人によらねば生まれ得ぬのに、どうして父なく生まれよう。一方は父ありと言い、一方は父なしと言うのは、信ずべきは信のまま、疑わしきは疑のまま伝えたためで、両説併記したのである。堯は契・稷がともに天与の賢人と知り、契を七十里に封じ、その十余世の後の湯が天下の王となった。后稷の子孫も後に王となると知り、百里に加封し、その千年後の文王が天下を得た。
- 『詩伝』によれば、湯の先祖契は父なく生まれた。契の母が姉妹と玄丘の水で沐浴していたところ、燕が卵を落とし、母はこれを含んで誤って呑み込み契を身ごもったという。契は生まれながらに賢く、堯は司徒に任じ子氏の姓を与えた(子は「茲=益々大なり」の意)。詩人はこれを頌えて「殷の社は広大、天命の玄鳥が降って商を生んだ」と詠んだ(商は殷の別号)。
- 文王の先祖后稷もまた父なく生まれた。母姜嫄は野で巨人の足跡を見て踏み、身ごもって后稷を生んだ。姜嫄は父なき子として道に棄てたが牛羊が避けて踏まず、山中に置けば山の者が養い、大沢に棄てれば鳥が翼で覆い食を与えたため、姜嫄は怪しみ天子となる子と悟って育てた。堯はその賢才を知り大農に任じ姫氏の姓を与えた(姫は「本」の意)。詩人はこれを頌えて「厥の初め民を生む」と詠み、后稷の始まりを述べた。
- 孔子曰く、「昔堯が契に子氏を命じたのは湯が現れることを見越したため、后稷に姫氏を命じたのは文王が現れることを見越したためである。大王が季歴に位を伝えたのも天瑞を明らかにするもの、太伯が呉に去ったのもその源を生かすためであった」と。天命は容易に語れず、聖人でなければ見通せない。舜・禹・契・后稷はいずれも黄帝の子孫である。黄帝は天命を策して天下を治め、その徳沢は後世に深く及んだゆえ、子孫が代々天子に立てられたのは天が有徳の者に報いたものである。世人はこれを知らず、単に布衣の匹夫から身を起こしたと思うが、匹夫が故なくして天下の王になれようか。まさに天命があってのことなのだ。」
- 「黄帝の後裔がかくも久しく天下に王たり続けたのはなぜか」との問いに、褚先生は答えた。「伝に言う、天下の万民の命を贖う者を帝とし、その福は万世に及ぶ。黄帝がそれである。五政を明らかにし礼義を修め、天時に従って征伐を行い利する者を王とし、その福は千世に及ぶ。蜀王も黄帝の後裔であり、今も漢の西南五千里の地にあって常に朝し貢献しているのは、その祖の有徳の遺沢が後世に及んだからではないか。徳行を軽んじてよいはずがない。人君たる者はこれを見て省みるべきである。
- 漢の大将軍霍子孟(霍光)もまた黄帝の後裔である。これは博識な者にのみ語れることで、浅学の者には説き難い。なぜか。古の諸侯は国名を姓とした。霍とはその国名である。武王が弟叔処を霍に封じ、のち晋の献公が霍公を滅ぼし、その子孫は庶民となって平陽に住んだ。平陽は河東にあり、河東の晋の地は後に衛国に分かれた。『詩』の言により見れば、これもまた周の世に連なる。周は后稷に始まり、后稷も父なくして生まれたが、三代の世伝によれば后稷には高辛という父があり、高辛は黄帝の曾孫である。
- 『黄帝終始伝』に言う、「漢が興って百有余年、背丈が並外れず出自は白燕の郷から出て天下の政をとる者が現れ、その時幼帝が輦車を退ける事件がある」と。霍将軍はもと平陽の白燕の出である。私(褚少孫)が郎であった時、方士と旗亭の下で功を論じ合った際にこの話を聞いた。何と偉大なことか。」