史記卷九 呂太后本紀

高祖の皇后。剛毅な性格で高祖の天下平定を助けた。高祖の没後は孝恵帝の生母として実権を握り、孝恵帝の死後は少帝を擁立して自ら臨朝称制し、呂氏一族を次々と王侯に取り立てた。政敵の趙王如意・趙王友・趙王恢らを死に追いやり、戚夫人を「人彘」として虐殺したことでも知られる。高后八年に没すると、大臣らが呂氏一族を誅滅し、代王(のちの孝文帝)が迎え立てられた。

年表(14件)

出自と生い立ち

  • 呂太后は高祖が微賤だった頃の妃で、孝恵帝と魯元太后を生んだ。高祖が漢王となった後に定陶の戚姫を得て寵愛し、趙隠王如意を生んだ。孝恵は仁弱な性格で高祖は「自分に似ていない」として廃太子を望み、自分に似ているとした如意を立てようとした。戚姫は寵愛され高祖の関東行にも常に従い、日夜泣いて我が子の立太子を求めた。呂后は年長で常に留守を守り高祖に会う機会も少なく次第に疎まれたが、如意が趙王に立てられ太子を代えかけたことは度々あったものの、大臣の諫言と留侯(張良)の策により太子は廃されずに済んだ。
  • 呂后は剛毅な性格で高祖の天下平定を助け、誅殺された大臣の多くは呂后の力によるものだった。呂后の兄二人はともに将となり、長兄周呂侯は戦死し子の呂台が酈侯、子の産が交侯に封ぜられ、次兄呂釈之は建成侯となった。

高祖崩御と趙王如意の死

  • 高祖十二年四月甲辰、高祖が長楽宮で崩じ、太子が帝位を継いだ。高祖には八子があり、長男肥(孝恵の異母兄、斉王)以外は皆孝恵の弟で、戚姫の子如意は趙王、薄夫人の子恒は代王、他の妃の子恢は梁王、友は淮陽王、長は淮南王、建は燕王であった。高祖の弟交は楚王、兄の子濞は呉王であり、非劉氏では功臣の番君呉芮の子臣が長沙王であった。
  • 呂后は戚夫人とその子趙王を最も怨み、戚夫人を永巷に幽閉し趙王を呼び寄せようとした。趙相の建平侯周昌が使者に「高帝から趙王を託されており年少なので遣わせない、王は病気でもある」と三度断ったが、呂后は怒り趙相を先に長安へ召還した上で改めて趙王を召した。孝恵帝は太后の怒りを知り、自ら趙王を霸上で出迎え共に宮に入り起居飲食を共にし守った。太后は殺す機会を得られなかったが、孝恵元年十二月、帝が朝の狩りに出た隙に一人でいた趙王に毒酒を飲ませ、明け方帝が戻ったときには趙王はすでに死んでいた。淮陽王友を趙王に転じた。夏、酈侯の父に令武侯の諡を追贈した。
  • 太后は戚夫人の手足を断ち目をえぐり耳を焼き薬で唖にし便所に住まわせ「人彘」(人豚)と名付けた。数日後、孝恵帝に人彘を見せると、孝恵は事情を知って大哭し病に伏し一年余り起き上がれなくなり、「これは人のすることではない、私は太后の子として天下を治めることができない」と述べた。以後孝恵は酒色に溺れ政務を執らなくなり病がちとなった。

斉王への酖毒未遂と斉王の献上

  • 二年、楚元王・斉悼恵王が来朝した。十月、孝恵は斉王と酒宴を開き兄として上座に据えたが、太后は怒り二つの盃に毒を入れさせ斉王に寿を勧めさせた。孝恵も共に盃を取ろうとしたため太后は慌てて孝恵の盃を打ち払った。斉王は不審に思い酔ったふりで席を立ち、後にそれが毒だったと知り恐れた。斉の内史士が「太后には孝恵と魯元公主しかいない、王は七十余城を持つのに公主は数城しか持たない、一郡を太后に献じ公主の湯沐邑とすれば太后は喜び王は無事だろう」と進言、斉王は城陽郡を献上し公主を王太后に尊び、太后は喜んでこれを許した。斉邸で酒宴を開き斉王を帰国させた。三年、長安城の築造が始まり四年に半ば、五、六年で完成した。諸侯を朝賀させた。

孝恵帝の崩御と呂氏の台頭

  • 七年秋八月戊寅、孝恵帝が崩じた。喪を発したが太后の涙は流れなかった。留侯の子張辟彊(15歳、侍中)が丞相に「太后は孝恵しか子がなく崩じても悲しまないのは何故か分かるか」と問い、丞相が理由を問うと「帝に成年の子がなく太后は諸君を恐れている、呂台・呂産・呂禄を将とし南北軍を統率させ諸呂を宮中に入れ実権を握らせれば太后は安心し、諸君も禍を免れよう」と献策、丞相はこれに従い、太后の哭は初めて哀しみを帯びた。これにより呂氏の権勢が始まった。天下に大赦し、九月辛丑に葬儀を行った。太子が即位し高廟に謁した。元年、号令はすべて太后から出された。

諸呂の封王をめぐる対立

  • 太后は諸呂を王に立てようとし右丞相王陵に諮ったが、王陵は「高帝は白馬の血で『劉氏でなければ王とせず、天下は共にこれを撃つ』と誓った、呂氏を王とするのは約に反する」と答え太后は不満を抱いた。左丞相陳平・絳侯周勃に諮ると両者は「高帝が天下を定め子弟を王としたように、今太后が制を称し呂氏昆弟を王とすることも何ら差し支えない」と答え、太后は喜んだ。王陵は退朝後に陳平・絳侯を「かつて高帝と血の誓いを立てたのを忘れたか、今太后が女主として呂氏を王にしようとするのに従うのは約束を裏切ることだ、どの面下げて高帝に会うのか」と責めたが、二人は「面と向かって朝廷で諫争するのは君に及ばないが、社稷を全うし劉氏の後を定めることは君に及ばない」と反論した。王陵は返す言葉がなかった。
  • 十一月、太后は王陵を廃そうとし帝太傅に転じ相権を奪った。王陵は病と称し辞職した。左丞相平を右丞相に、辟陽侯審食其を左丞相にしたが、審食其は実務を執らず宮中を監督するのみで、太后の寵を受け実権を握り公卿はこれを介して事を決した。酈侯の父を悼武王と追尊し、諸呂の王封の布石とした。

諸呂の相次ぐ封侯

  • 四月、太后は諸呂を侯にしようとし、まず高祖の功臣郎中令無択を博城侯に封じた。魯元公主が薨去し魯元太后と諡され、子の偃が魯王となった(父は宣平侯張敖)。斉悼恵王の子章を朱虚侯とし呂禄の娘を娶らせた。斉丞相寿を平定侯、少府延を梧侯とし、呂種を沛侯、呂平を扶柳侯、張買を南宮侯に封じた。
  • 太后は呂氏を王にするため、まず孝恵の後宮の子彊を淮陽王、不疑を常山王、山を襄城侯、朝を軹侯、武を壺関侯に立てた。太后が意向を示すと大臣は酈侯呂台を呂王に立てることを請い許された。建成康侯釈之の死後、嗣子に罪があり廃され弟の呂禄が胡陵侯として後を継いだ。
  • 二年、常山王が薨じ弟の襄城侯山が常山王となり名を義と改めた。十一月、呂王台が薨じ肅王と諡され太子嘉が代わって王となった。三年は無事。四年、呂嬃を臨光侯、呂他を俞侯、呂更始を贅其侯、呂忿を呂城侯とし、他に諸侯丞相五人を封じた。

少帝の廃立

  • 宣平侯(張敖)の娘が孝恵皇后であったが子がなかったため身ごもったふりをし美人の子を取り上げ母を殺して自分の子とし太子に立てた。孝恵の崩後この子が帝位についたが、成長して自分の母が殺されたこと・皇后の実子でないことを知り「皇后はなぜ我が母を殺して自分の子と偽ったのか、成年になれば必ず変事を起こす」と言い出した。太后はこれを聞き乱を恐れ、帝を病重篤と称して永巷に幽閉し誰にも会わせなかった。太后は「天下を治める者は天のように覆い地のように容れ、上に歓心があってこそ百姓もこれに従い天下は治まる、今皇帝は久しく病み惑乱して宗廟の祭祀を継げない、天下を任せられないので代えるべきだ」と述べ、群臣は「皇太后が天下・宗廟社稷のために深く計られたこと、謹んで詔を奉ります」と答え、帝は廃され太后により幽殺された。五月丙辰、常山王義を帝に立て名を弘と改めた(太后が政を執っているため元年を称さなかった)。軹侯朝を常山王とした。太尉の官を新設し絳侯勃を太尉とした。
  • 五年八月、淮陽王が薨じ弟の壺関侯武が淮陽王となった。六年十月、呂王嘉の驕慢を理由に廃し、肅王台の弟呂産を呂王とした。夏、天下に大赦した。斉悼恵王の子興居を東牟侯に封じた。

趙王友・趙王恢の死

  • 七年正月、太后は趙王友を召した。友は諸呂の娘を后としたが愛さず他の姫を愛したため、王后は嫉妬し太后に讒言し「呂氏がどうして王になれよう、太后の死後には必ず討つ」と誣告した。太后は怒り趙王を呼び寄せ、邸に留め置き会わず衛兵で囲み食を与えなかった。密かに食を送った臣下も捕らえられ罰された。趙王は餓えて「諸呂が権を用い劉氏は危うい、王侯を脅し強いて我に妃を授けた、妃は妬み我に悪を誣い、讒言が国を乱すも上は悟らず、忠臣なく国を捨てられ、荒野に自決するも蒼天よ正義を示せ、悔やんでも仕方ない、いっそ早く自ら死のう、王として餓死するのを誰が憐れむか、呂氏は道理を絶ち天に仇討ちを託す」と歌を詠み、丁丑の日に趙王友は餓死し、民の礼で長安の民の墓の並びに葬られた。
  • 己丑、日食があり昼が暗くなった。太后はこれを忌み「これは私を指すものだ」と語った。
  • 二月、梁王恢を趙王に転じさせた。呂王産は梁王に転じたが赴任せず帝太傅となった。皇子平昌侯太を呂王に立て、梁を呂、呂を済川と改称した。太后の妹呂嬃の娘が営陵侯劉沢の妻であり、沢は大将軍となっていた。太后は自らの死後に劉将軍が害をなすことを恐れ、劉沢を琅邪王に立てて懐柔した。
  • 趙に転封された梁王恢は不満を抱いていた。太后は呂産の娘を趙王后とし、その従官はみな呂氏で権勢を握り趙王を監視し自由を奪った。趙王が愛した姫を王后が毒殺すると、王は詩四章を作り楽人に歌わせ悲しみ、六月に自殺した。太后はこれを婦人のために宗廟の礼を捨てたとして王の嗣子を廃した。
  • 宣平侯張敖が卒し、子の偃が魯王、敖は魯元王と諡された。秋、太后は代王に趙への転封を持ちかけたが、代王は辞退し代の辺境を守ることを願った。

呂禄の趙王擁立と呂氏の絶頂

  • 太傅産・丞相平らは武信侯呂禄が侯の序列第一であるとして趙王に立てることを進言し、太后はこれを許し禄の父康侯を趙昭王に追尊した。九月、燕霊王建が薨じ、美人の子があったが太后がこれを殺したため後継がなく国は廃された。八年十月、呂肅王の子東平侯呂通を燕王に立て、弟の呂荘を東平侯に封じた。
  • 三月、呂后が祓の儀式で軹道を通った際、蒼犬のようなものが現れ高后の脇に触れて消えた。占うと趙王如意の祟りとされ、高后は脇を病んだ。
  • 高后は外孫の魯元王偃が幼く早くに両親を失い孤弱であることを憐れみ、張敖の前妻の子二人(侈を新都侯、寿を楽昌侯)を封じ魯元王の補佐とした。中大謁者張釈を建陵侯、呂栄を祝茲侯に封じ、宮中の宦者の令丞をすべて関内侯とし食邑五百戸を与えた。

高后の崩御と呂氏誅滅の伏線

  • 七月、高后は重病となり趙王呂禄を上将軍として北軍を統率させ、呂王産に南軍を統率させた。呂太后は産・禄に「高帝は天下を定めた際、大臣と『劉氏でない者が王となれば天下は共に討つ』と約した、今呂氏が王となっており大臣は不満を抱いている、私が崩じれば帝は若く大臣が変を起こす恐れがある、必ず兵を擁して宮を守り、決して葬送に付き従い他人に制されるな」と戒めた。辛巳、高后は崩じ、遺詔により諸侯王には各千金、将相列侯郎吏には秩に応じ金が下賜され、天下に大赦した。呂王産を相国とし、呂禄の娘を帝后とした。高后の葬儀後、審食其を帝太傅とした。

諸呂討滅の陰謀

  • 朱虚侯劉章は気力に富み、弟の東牟侯興居とともに斉哀王の弟で長安に居住していた。当時諸呂は権を専らにし乱を企てていたが、高帝以来の大臣絳侯・灌嬰らを畏れ動けずにいた。朱虚侯の妻は呂禄の娘で密かにその企みを知り、誅殺されることを恐れ兄の斉王に密告し西進の挙兵を促し、諸呂を誅して自ら立つことを望んだ。朱虚侯は内から大臣に呼応する構えを取った。斉王が挙兵しようとすると相がこれを聞かず、八月丙午、斉王が相を誅そうとすると相召平がかえって反逆し王を包囲しようとしたため、王はその相を殺し兵を発し、琅邪王の兵を欺いて併せ西進した(詳細は斉王世家に記載)。
  • 斉王は諸侯王に書を送り「高帝は天下平定後に子弟を王とし悼恵王は斉王となった。悼恵王薨後、孝恵帝は留侯張良を通じ私を斉王に立てた。孝恵帝崩後、高后が権を用い、年老いて諸呂の言を聞き、帝を廃立し三人の趙王を次々殺し、梁・趙・燕を滅ぼして諸呂の王とし斉を四分した。忠臣が諫めても聞き入れられなかった。今高后が崩じ帝はまだ若く天下を治められず大臣・諸侯に頼るしかないのに、諸呂はさらに専横し兵を集め忠臣を脅し、詔を偽って天下に号令し宗廟を危うくしている。私は兵を率いて不当な王を誅する」と布告した。漢の相国呂産らはこれを聞き潁陰侯灌嬰に討伐を命じたが、灌嬰は滎陽に至ると「諸呂が関中の兵権を握り劉氏を危うくし自立しようとしている、今斉を破って報告すれば呂氏の助けとなるだけだ」と考え、滎陽に留まり斉王・諸侯と連携し呂氏の変に備え共に誅することとした。斉王もこれを聞き兵を引き西の境で約を待った。

呂禄の解兵と北軍の掌握

  • 呂禄・呂産は関中で乱を起こそうとしたが、内には絳侯・朱虚侯らを、外には斉・楚の兵を憚り、灌嬰の兵が斉と合流することも恐れ躊躇していた。当時、済川王太・淮陽王武・常山王朝は少帝の弟とされ、また魯元王は呂后の外孫でいずれも幼く未だ赴任せず長安に居た。趙王禄・梁王産はそれぞれ南北軍を統率し、皆呂氏の一族であった。列侯群臣は誰も自らの命を保証できない状況だった。
  • 太尉絳侯勃は軍の指揮権を得られずにいた。曲周侯酈商は老病であったが子の寄は呂禄と親しかった。絳侯は丞相陳平と謀り酈商を人質にとって子の寄を送り呂禄を欺かせ、「高帝と呂后が共に天下を定め、劉氏九王・呂氏三王を立てたのはすべて大臣の議で諸侯も納得している。今太后が崩じ帝は若く、あなたは趙王の印を帯びながら国に赴かず上将軍として兵を留めているため大臣・諸侯に疑われている。将印を返し兵を太尉に属させ、梁王も相国印を返して大臣と盟を結び国に赴けば斉の兵も引き大臣は安心し、あなたも高枕して千里の王でいられる、これは万世の利だ」と説得した。呂禄はこれを信じ将印を返そうとし、呂産や諸呂の老人に諮ったが意見は分かれ決めかねた。呂禄は酈寄を信じて共に狩猟に出ていたが、姑の呂嬃はこれを聞き激怒し「将でありながら軍を捨てるとは、呂氏に居場所がなくなる」と言い、珠玉宝器をすべて堂下に撒き散らし「他人のために守ることはない」と述べた。
  • 左丞相審食其は罷免された。八月庚申の朝、平陽侯窋(御史大夫代行)が相国産のもとで議事を見た際、斉から来た郎中令賈寿が産を「王がすぐ国に赴かなかったため、今行こうとしても遅い」と責め、灌嬰が斉・楚と連合し諸呂を誅そうとしていることを告げ、産を急ぎ宮中に入らせようとした。平陽侯はこれを聞き丞相・太尉に急報した。太尉は北軍に入ろうとしたが果たせず、符節を管理する襄平侯通が節を偽り太尉を北軍に入れた。太尉は酈寄と典客劉掲に呂禄を説得させ「帝が太尉に北軍を守らせようとしている、あなたは国へ帰るべきだ、将印を返し立ち去らねば禍が起こる」と告げた。呂禄は酈寄が欺かないと信じ印を典客に預け兵を太尉に渡した。太尉は軍門に入り「呂氏のために右袒せよ、劉氏のために左袒せよ」と令し、軍中は皆劉氏のため左袒した。太尉が到着した頃、将軍呂禄もすでに上将軍印を返しており、太尉はついに北軍を掌握した。

呂産の誅殺と呂氏の滅亡

  • しかし南軍はなお呂産の手にあった。平陽侯はこれを丞相平に告げ、丞相平は朱虚侯を呼び太尉を助けさせた。太尉は朱虚侯に軍門の監視を命じ、平陽侯には衛尉に「相国産の殿門に入れるな」と伝えさせた。呂産は呂禄がすでに北軍を離れたことを知らず未央宮に入り乱を起こそうとしたが殿門に入れず右往左往した。平陽侯は勝てないことを恐れ太尉に急報、太尉もなお諸呂に勝てるか不安であったため公然と誅殺の意志を示せず、朱虚侯に「急ぎ宮に入り帝を守れ」とだけ伝えた。朱虚侯は兵を求め太尉から千余人を与えられ未央宮に入り、廷中で呂産を見つけると日暮れ時に撃った。呂産は逃げたが折からの大風で従者が混乱し誰も戦わず、郎中府の吏の便所で殺された。
  • 朱虚侯が呂産を殺すと、帝は謁者に節を持たせ朱虚侯を労わせた。朱虚侯は節を奪おうとしたが謁者は拒み、やむなく共に車に乗り節を掲げて長楽衛尉呂更始を斬った。帰って北軍に馳せ入り太尉に報告すると、太尉は喜び「憂うべきは呂産のみであったが、今すでに誅された、天下は定まった」と朱虚侯を称えた。ついに人を分けて諸呂の男女をことごとく捕らえ、老幼を問わず斬った。辛酉、呂禄を捕らえて斬り呂嬃を鞭打って殺した。使者を送り燕王呂通を誅し魯王偃を廃した。壬戌、帝太傅審食其を再び左丞相に立てた。戊辰、済川王を梁王に移し、趙幽王の子遂を趙王に立てた。朱虚侯章に諸呂誅滅の事を斉王に告げさせ兵を退かせた。灌嬰の兵も滎陽から引き揚げた。

代王擁立

  • 大臣たちは密かに「少帝や梁・淮陽・常山の諸王は皆孝恵の実子ではない、呂后が計略により他人の子を孝恵の子と偽り母を殺して育て諸王に立て呂氏の勢力強化に用いたものだ、今すでに諸呂を滅ぼしながらこの立てられた者たちをそのままにすれば成長後に必ず我らを滅ぼすだろう、諸王の中から最も賢い者を立てるべきだ」と謀った。「斉悼恵王は高帝の長子であり、その嫡子が今の斉王で、遡れば高帝の嫡孫にあたるため立てるべき」との声もあったが、大臣らは「呂氏は外戚の悪により宗廟を危うくし功臣を乱した、斉王の母家駟鈞もまた悪人であり、斉王を立てればまた同じことになる」として退けた。淮南王の擁立も母家の悪評と若さから見送られた。
  • そこで「代王は現存する高帝の子の中で最年長であり仁孝寛厚、太后の実家薄氏も謹厚である、長者を立てるのが順当で天下に仁孝で聞こえている」として代王擁立が決まった。使者を代王に送ると、代王は使者を辞退し二度断った後、六台の伝車で長安へ向かった。九月晦日己酉、長安に至り代邸に宿泊すると、大臣らが集まり天子の璽を代王に奉り天子に推戴した。代王は数度辞退したが群臣が固く請うため、これを受けた。
  • 東牟侯興居は「呂氏誅滅には功がなかった、宮中の整理を担当したい」と願い出て太僕汝陰侯滕公と共に宮中に入り、少帝に「あなたは劉氏ではないので即位すべきではない」と告げ、周囲の武装した護衛を退去させた。中に応じない者もいたが宦者令張沢の説得で兵を引いた。滕公は乗輿の車に少帝を乗せて宮外に出し「どこへ連れて行くのか」と問われ「舎に出るだけだ」と答え少府へ移した。天子の法駕を整え代邸へ代王を迎えに行った。「宮の整理は終わりました」と報告すると、代王はその夕に未央宮に入った。宮門を守る謁者十人が「天子はすでにいる、何者が入るのか」と咎めたが、代王が太尉に伝えると太尉が説得し謁者は武器を捨てて去った。代王はついに宮に入り政務を執った。その夜、有司が手分けして梁・淮陽・常山の諸王と少帝を邸で誅滅した。

代王の即位

  • 代王は天子に即位した。二十三年後に崩じ、孝文皇帝と諡された。

史論

  • 太史公は、孝恵皇帝・高后の時代、民は戦国の苦しみから解放され、君臣ともに無為による休息を望んだため、恵帝は垂拱し高后が女主として政を執っても政令は宮中から出るのみで天下は安穏であったと評す。刑罰はほとんど用いられず罪人も少なく、民は農耕に励み衣食は次第に豊かになったとする。