史記卷八 高祖本紀
姓は劉、字は季。沛の人で泗水の亭長から身を起こし、秦末の動乱で沛公に推されて挙兵、項羽との対立を経て漢王に封じられた。垓下の戦いで項羽を破り、皇帝に即位して漢を建てた(高祖)。晩年は韓信・彭越・黥布ら異姓諸侯王の反乱を次々に鎮圧し、長安に都を定めた。黥布討伐で負った傷がもとで崩じた。
年表(21件)
- 秦二世元年秋沛の父老に推されて沛公に立った
- 秦二世三年懐王の命により関中への西進を命じられた
- 漢元年十月諸侯に先んじて霸上に至り、秦王子嬰の降伏を受けた
- 漢元年項羽により漢王に封じられ、巴蜀・漢中を与えられた
- 漢元年四月漢中に赴任し、韓信の献策で東征を決意した
- 漢元年八月韓信の計により三秦(雍・塞・翟)を破り関中を平定した
- 漢二年三月義帝の死を知り喪に服し、諸侯に楚討伐を布告した
- 漢二年彭城で項羽に大敗し、父母妻子を捕らえられた
- 漢三年韓信が魏・趙を平定した
- 漢四年曹咎が汜水で敗死し、成皋を奪還した
- 漢四年韓信を斉王に立てた
- 漢五年項羽と鴻溝を境に講和した
- 漢五年垓下で項羽軍を破り、項羽は東城で討たれた
- 漢五年正月諸侯に推されて皇帝に即位した
- 六年太公を太上皇に立てた
- 六年十二月楚王韓信を捕らえ、淮陰侯に降格した
- 七年匈奴に平城で包囲された(白登の囲み)
- 九年趙相貫高らの陰謀が発覚し、三族を誅した
- 十一年韓信・彭越の謀反が発覚し、誅殺された
- 十二年十月黥布を会甀で撃破した
- 十二年四月甲辰長楽宮で崩じた
出自と生い立ち
- 高祖は沛の豊邑中陽里の人、姓は劉氏、字は季。父は太公、母は劉媼。劉媼が大澤のほとりで休んでいたとき神と交わる夢を見、雷電が轟く中で太公が見に行くと蛟龍が上にいた。その後身ごもり高祖を産んだ。
- 高祖は容貌が隆準(高い鼻)竜顔で立派な髭を持ち、左の腿に72個の黒子があった。仁愛に厚く施しを好み度量が広かった。家業には従事せず、壮年で試しに吏となり泗水の亭長となったが、役所の吏を皆軽んじからかった。酒と女を好み、王媼・武負から常に酒を借り、酔って寝ると龍の姿が見えることがあり両者は怪しんだ。高祖が飲むと売り上げが数倍になり、これを見た二軒は年末に借金を帳消しにした。
- 高祖はかつて咸陽に徭役に赴いた際、秦皇帝の行列を見て「ああ、大丈夫たる者はかくあるべきだ」と嘆息した。
- 単父の呂公が沛令と親しく仇を避けて沛に寓居していた。沛の豪傑・吏が重客の来訪祝いに集まり、蕭何が受付を担い「進物千銭に満たぬ者は堂下に座らせる」としたが、高祖は一銭も持たぬのに「賀銭万」と偽って名乗った。呂公は驚いて自ら出迎え、人相見を好む呂公は高祖の相貌を重んじて上座に招いた。蕭何は「劉季は大言壮語ばかりで成すことは少ない」と評したが、高祖は動じず上座に座り続けた。酒宴の終わりに呂公は高祖を引き留め、「私は人相見を好むが季ほどの相はない、娘をお前の妻にしたい」と申し出た。妻の呂媼は「沛令にも与えなかった娘をなぜ劉季に許すのか」と怒ったが、呂公は「これは女子供の分かることではない」と言い切り、娘は高祖に嫁いだ。これが後の呂后で、孝恵帝・魯元公主を生んだ。
- 高祖が亭長だった頃、田に帰るたび呂后は二人の子と田の草取りをしていた。ある老父が食を乞い呂后がこれに応じると、老父は呂后・孝恵・魯元の相をみな貴人と占った。高祖が問うと老父は「先ほどの夫人・嬰児は皆あなたに似ており、あなたの相は貴きこと言葉にならない」と告げた。高祖が貴くなった後、この老父の行方はついに分からなかった。
- 高祖は亭長時代に竹の皮で冠を作らせ、身につけて後も愛用した(「劉氏冠」)。
- 亭長として酈山への徒役の民を護送した際、道中で多くの逃亡者が出たため、豊西の沢中で夜、残りの徒をすべて解放し「お前たちは去れ、私もここから逃げる」と告げた。壮士十余人が従うことを願った。夜道を進む途中、大蛇が道を塞いだが、酔った高祖は剣を抜いてこれを斬った。後を来た者が老嫗の泣く声を聞き尋ねると、「わが子(白帝の子で蛇に化けていた)が赤帝の子に斬られた」と語り、姿を消した。これを聞いた高祖は密かに喜び自負するようになり、従う者はますます畏敬した。
- 秦始皇帝が「東南に天子の気がある」と語り東方を巡幸したのはこれを鎮めるためとされたが、高祖はこれを自らのことと疑い芒・碭山の沢に身を隠した。呂后が人と共に捜すと必ず見つけられ、理由を問うと「季のいる所には常に雲気があるから」と答えた。高祖は喜び、沛の子弟の多くが彼に付き従うようになった。
沛公の推戴
- 秦二世元年秋、陳勝らが蘄で挙兵し陳で王を称し「張楚」と号した。多くの郡県が長吏を殺して呼応した。沛令も動揺し、掾・主吏の蕭何・曹参が「亡命者を集め民を威圧すれば従わせられる」と進言し、樊噲を使いに劉季を呼び戻した。劉季の集団はすでに数十百人に達していた。
- 沛令は後悔し門を閉ざして蕭何・曹参を誅そうとしたため、二人は城を越えて劉季のもとへ逃れた。劉季は帛書を城壁越しに射込み、父老に沛令を殺して子弟から立てるよう説いた。父老は沛令を殺し門を開いて劉季を迎え沛令に推そうとしたが、劉季は「天下は乱れつつある、将を誤れば一敗地に塗れる、私は自分の身を惜しむのではなく才が薄く父兄子弟を守れないことを恐れる」と辞退した。蕭何・曹参らも文吏ゆえ責任を恐れ譲り合い、結局父老たちの信望に押されて劉季が沛公に立てられた。黄帝を祭り蚩尤を沛庭で祀り、旗は赤に染められた(斬った蛇が白帝の子で殺したのが赤帝の子であったことに因む)。蕭何・曹参・樊噲らが子弟二、三千人を集め、胡陵・方与を攻め、豊を守った。
各地の攻防と項梁への従属
- 秦二世二年、周章の軍が戯まで西進し引き返した。燕・趙・斉・魏が自立し王を称した。項氏も呉で挙兵。秦の泗川監平が豊を包囲したが撃退され、雍歯に豊を守らせ薛へ向かった。泗川守壮は薛で敗れ戚に逃げ、沛公の左司馬がこれを討った。沛公は方与に戻ったが、魏人周巿の勧誘で雍歯が魏に寝返り豊を占拠、沛公は奪還できず病のため沛に戻った。
- 沛公は東陽甯君・秦嘉が擁立した仮王景駒のもとへ兵を求め赴いたが蕭で敗れ、留に戻り兵を集め碭を攻め三日で陥落、五、六千の兵を得て下邑を落とし豊に戻った。薛にいた項梁のもとへ百余騎で赴くと兵五千と将十人を与えられ、豊を攻めた。
項梁のもとでの活動と項梁の死
- 項梁のもとで一月余り従い、項羽が襄城を落として帰還すると、項梁は諸別将を薛に集めた。陳王の死を確認すると楚の後裔懐王孫心を立て盱台に治所を置いた。項梁は武信君と号した。亢父を攻め東阿を救い秦軍を破ると斉軍は帰り、楚軍のみが追撃、沛公・項羽は城陽を屠り濮陽の東で秦軍を破った。
- 秦軍は濮陽を守り水を巡らせ防御を固めたため楚軍は定陶へ転じたが落ちず、沛公・項羽は雍丘で秦軍を大破し李由を斬った。外黄も未だ落ちなかった。項梁は連勝に驕り、宋義の諫めを聞かなかったため、秦は章邯を増強し夜襲で項梁を定陶で大破し戦死させた。沛公・項羽は陳留攻略中に項梁の死を知り呂将軍と共に東へ引いた。呂臣軍は彭城東、項羽軍は彭城西、沛公軍は碭に布陣した。
懐王による分担と関中入りの命
- 章邯は項梁を破ると楚地を軽視し北の趙を大破した。趙歇が王、秦将王離が鉅鹿を包囲した(河北の軍)。
- 秦二世三年、懐王は項梁軍の敗北を恐れ盱台から彭城に移り呂臣・項羽の軍を自ら統率し、沛公を碭郡長・武安侯とし碭郡兵を、項羽を長安侯・魯公とした。呂臣は司徒、その父呂青が令尹となった。
- 趙の再三の救援要請に懐王は宋義を上将軍、項羽を次将、范増を末将として北の趙救援に向かわせた。沛公には関中への西進を命じ、諸将と「先に関中を平定した者を王とする」と約した。
- 当時秦兵は強く諸将は先に関中入りすることを避けたが、項羽だけは項梁の仇討ちの意欲から沛公と共に西進することを願った。しかし懐王の老将たちは「項羽は残虐で襄城では皆殺しにするなど各地で破壊を重ねてきた、長者を派遣して秦の父兄を諭すべきで沛公こそ相応しい」として項羽を退け沛公を西へ送った。沛公は陳王・項梁の残兵を吸収し碭から成陽へ進み杠里で秦軍と対峙、魏秦二軍を破った。楚軍別動隊は王離を大破した。
沛公の西進
- 沛公は西へ進み彭越と昌邑で合流し秦軍を攻めたが戦果は乏しく、栗で剛武侯の軍(約四千)を吸収、魏将皇欣・魏申徒武蒲の軍とも合流し昌邑を攻めたが落とせず高陽を通過した。酈食其が門番をしていたが沛公の器量を見込み面会を求め、沛公が足を洗わせながら応対すると「無道の秦を討つ者が長者への礼を欠くのは不適切」と非礼を咎めた。沛公は改めて敬意を表し上座に招いた。酈食其の献策で陳留を襲い秦の蓄積を得た。酈食其を広野君、弟酈商を将として陳留兵を率いさせ、共に開封を攻めたが落ちず、秦将楊熊を白馬・曲遇で破った(楊熊は滎陽で二世に斬られた)。潁陽を屠り、張良の縁で韓の轘轅を平定した。
- 趙の別将司馬卬が渡河しようとする中、沛公は平陰を攻め河津を絶ち、雒陽東で戦い不利となり陽城に退いて軍を立て直し、犨東で南陽守齮を破った。南陽を略し宛城で守りを固めた齮を追い越して西進しようとした張良の諫め(宛を残せば背後を突かれる危険)を容れ、夜に旗印を変え宛城を三重に包囲した。南陽守は自刎しようとしたが舎人陳恢の進言(降伏させ他の城の抵抗も防ぐべき)を容れ、南陽守を殷侯に、陳恢を千戸に封じ降兵と共に西進、以後訪れる城は次々と降った。丹水では高武侯鰓・襄侯王陵が西陵で降り、胡陽を経て番君の別将梅鋗と合流し析・酈を降した。魏人甯昌を秦への使者に送ったが返信は来なかった。この頃すでに章邯は趙で項羽に降伏していた。
秦の滅亡と関中入り
- 項羽は宋義を殺し上将軍となり秦の王離軍を破り章邯を降し諸侯の信を得た。趙高が二世を殺した後、関中を分割する約定を持ちかけてきたが沛公はこれを詐と見て張良の計を用い、酈生・陸賈を秦将の説得に送り武関を襲って破った。藍田南で秦軍と戦い疑兵を増やし略奪を厳禁したため秦人は喜び秦軍は瓦解、再度これを大破した。
- 漢元年十月、沛公は諸侯に先んじて霸上に至った。秦王子嬰は素車白馬で首に組をかけ皇帝の璽符節を封じて軹道のほとりで降伏した。諸将は子嬰の誅殺を進言したが沛公は「懐王が私を遣わしたのは寛容を見込んでのこと、すでに降伏した者を殺すのは不祥」として吏に引き渡すのみに留め、咸陽に入った。宮殿に留まろうとしたが樊噲・張良の諫めを容れ、秦の宝物・財物・府庫を封じ霸上に退いた。
- 諸県の父老豪傑を集め「父老は秦の苛法に苦しんできた、誹謗すれば一族皆殺し、二人で語れば処刑という法があった。諸侯との約で先に関に入った者が王となる、私が関中王となるべきだが、父老と『法三章』のみを約す。人を殺せば死罪、傷害・窃盗はその罪に応じて処断する。他の秦法はすべて廃止する。吏民はそれぞれ従来通り生活してよい、私が来たのは父老の害を除くためであり侵害を加える意図はない、恐れるな」と告げ、秦人は大いに喜んだ。沛公は献上された牛羊酒食も辞退し「倉庫の粟は十分あり民を煩わせたくない」と述べ、人々はますます沛公が秦王になることを望んだ。
鴻門の会(高祖本紀の視点)
- ある者が沛公に「秦は天下の十倍富み地形も険しい。章邯が項羽に降り雍王として関中を治める予定なので、あなたはここを保てないかもしれない」と進言し、函谷関を守り諸侯の兵を入れず関中兵を集めて備えるよう勧めた。沛公はこれに従ったが、項羽が諸侯を率いて西進し関門が閉じられているのを見て激怒、黥布らに函谷関を破らせ戯に至った。
- 沛公の左司馬曹無傷が項羽に「沛公は関中王となり子嬰を相にし珍宝を独占するつもり」と密告し封を求めた。范増は項羽に沛公討伐を勧め、項羽兵四十万(号百万)に対し沛公兵十万(号二十万)で勝負にならなかったが、項伯が張良を助けようと夜に沛公陣を訪れ、文書で項羽を諭し攻撃は止められた。沛公は百余騎で鴻門に赴き謝罪し、項羽は「これは沛公の左司馬曹無傷の言だ、そうでなければ私がなぜこんなことをしようか」と述べた。沛公は樊噲・張良のおかげで無事帰還でき、帰陣後すぐに曹無傷を誅殺した。
秦の遺産の破壊と分封
- 項羽は西進し咸陽の秦宮室を屠り焼き、通過先はすべて残破し、秦人は大いに失望したが恐れて服従するのみであった。
- 項羽は懐王に事後報告したが、懐王は「約束通りに」とだけ答えた。項羽は懐王が沛公と共に西進させず自らを北の趙救援に回し天下との約束を後回しにしたことを怨み、「懐王は我が家の項梁が立てたに過ぎず功もない、天下を定めたのは諸将と籍(項羽)だ」と述べ、義帝と偽って尊びながら実際にはその命を用いなかった。
- 正月、項羽は自ら西楚覇王を称し梁・楚の九郡を領し彭城に都した。約に背き沛公を漢王に改め、巴蜀・漢中を与え南鄭に都させた。関中は三分し秦の三将を封じた(章邯=雍王・廃丘、司馬欣=塞王・櫟陽、董翳=翟王・高奴)。楚将申陽が河南王(洛陽)、趙将司馬卬が殷王(朝歌)、趙王歇は代に転封、張耳が常山王(襄国)、黥布が九江王(六)、共敖が臨江王(江陵)、呉芮が衡山王(邾)、臧荼が燕王(薊)、故燕王韓広は遼東王に転封されたが従わず臧荼に殺された。陳余には河間三県が与えられ南皮に居した。梅鋗には十万戸が与えられた。
漢中入りと東征の決意
- 四月、諸侯は戯下を離れ帰国した。漢王が国に赴く際、項王は卒三万を随行させ、楚や諸侯の慕う者も加わり数万人となり杜南から蝕中に入った。行く先々で桟道を焼き諸侯の襲撃に備えると共に東帰の意志がないことを示した。南鄭に至ると多くの将士が逃亡し、士卒は皆東帰を歌に込めて望郷した。韓信は漢王に「項羽は功ある諸将を王としながら王を南鄭に留めたのは実質的な左遷だ、軍吏士卒はみな東を望んでおり、その勢いを用いれば大功を立てられる、天下が定まれば人心は安定してしまい用いにくくなる、決断して東へ向かうべきだ」と説いた。
- 項羽は関を出た後、義帝を長沙郴県へ移すよう仕向け、群臣の離反が進む中で衡山王・臨江王に命じ江南で義帝を暗殺させた。項羽は田栄を怨み斉将田都を斉王に立てたが、田栄は怒り自立して田都を殺し楚に反し、彭越に将軍印を与え梁の地で反乱させた。楚は蕭公角に彭越討伐を命じたが大敗した。陳余は項羽が自分を王にしなかったことを怨み、田栄に兵を求め常山王張耳を破り、張耳は漢に逃れた。趙王歇は代から迎えられ復位し、陳余は代王となった。項羽は激怒し北の斉を攻めた。
三秦平定
- 八月、漢王は韓信の計により故道から出撃し雍王章邯を襲った。章邯は陳倉で迎撃したが敗れ、好畤でも再敗して廃丘に逃げ込んだ。漢王は雍地を平定し咸陽へ東進、章邯を廃丘に包囲する一方、諸将に隴西・北地・上郡を平定させた。将軍薛欧・王吸には武関を出させ王陵の兵を南陽で頼り沛から太公・呂后を迎えさせようとしたが、楚がこれを陽夏で阻んだ。楚は元呉令鄭昌を韓王に立て漢軍に対抗させた。
漢二年 東方経略
- 塞王欣・翟王翳・河南王申陽が降伏した。韓王昌は従わず韓信に討たれた。隴西・北地・上郡・渭南・河上・中地の各郡、関外に河南郡を置いた。韓の太尉信を新たな韓王に立てた。万人や一郡単位で降った諸将には万戸を封じた。河上の要塞を修復し、秦の旧苑囿園池はすべて民の耕作に開放した。正月、雍王の弟章平を捕らえ天下の罪人を大赦した。
- 陝で関外の父老を慰撫し、張耳が面会し厚遇された。二月、秦の社稷を廃し漢の社稷を新たに立てた。
- 三月、漢王は臨晋から渡河し魏王豹の軍も従軍、河内を落とし殷王を捕虜とし河内郡を置いた。平陰の渡しを南に渡り雒陽に至った。新城の三老董公が義帝の死を訴えたため、漢王は袒して大哭し、義帝のため喪を発し三日喪に服した。諸侯に「天下は共に義帝を立て北面して事えていたのに項羽が江南で義帝を弑殺した、大逆無道である。私は自ら喪を発し、諸侯は縞素にせよ。関内の兵を尽く発し三河の士を集め、江漢を南に浮かべ、諸侯王と共に義帝を殺した楚を撃ちたい」と布告した。
彭城敗戦
- 項羽は北の斉を攻め田栄と城陽で戦い、田栄は敗死(平原の民に殺害)。斉は降ったが楚は城郭を焼き子女を虜にしたため斉人はまた叛いた。田栄の弟田横は榮の子広を斉王に立て城陽で楚に反した。項羽は漢の東進を聞きつつも斉との戦いを優先し、漢王は五諸侯の兵を借りて彭城に入った。項羽はこれを聞き斉から兵を引き魯を経て胡陵から蕭に至り、彭城の霊壁東・睢水上で漢軍を大破、多数を殺し睢水の流れを止めるほどであった。沛から漢王の父母妻子を捕らえ人質とした。楚が強く漢が敗れたのを見て諸侯は再び楚に付いた。塞王欣も楚に逃げた。
立て直しと英布の帰順
- 呂后の兄周呂侯が下邑で兵を集め、漢王もこれに加わり碭で軍を立て直した。漢王は梁の地を経て虞に至り、謁者随何を九江王黥布のもとへ送り「布が楚に反すれば項羽は必ず足止めされ数ヶ月を稼げれば天下は必ず取れる」と説得させた。随何の説得で黥布は楚に背き、楚は龍且に討伐を命じた。
- 漢王は彭城で失った家族を探したが得られず、敗戦後にようやく孝恵のみを得て六月に太子に立て大赦を行った。太子に櫟陽を守らせ、関中の諸侯子弟を集め守衛させた。廃丘への注水攻撃で廃丘は降り章邯は自殺、廃丘は槐里と改名された。祠官に天地四方上帝山川の祭祀を命じ、関内の卒を塞に配備した。
- この頃九江王黥布は龍且に敗れ随何と密かに漢に帰順した。漢王は兵を集め諸将・関中兵の増援を得て滎陽で勢いを盛り返し、京・索の間で楚を破った。
魏・趙の平定
- 漢三年、魏王豹は帰省を願い出て帰ると河津を絶ち楚に寝返った。漢王は酈生に説得させたが豹は従わず、将軍韓信を派遣し大破して豹を捕虜とし魏地を平定、河東・太原・上党の三郡を置いた。漢王は張耳・韓信に井陘から趙を攻めさせ陳余・趙王歇を斬った。翌年張耳が趙王に立てられた。
滎陽の再攻防と離間の計
- 漢王は滎陽の南に軍し甬道を築いて敖倉に繋いだ。項羽と一年余り対峙する中、甬道をたびたび侵され漢軍は食糧不足に陥り包囲された。漢王は滎陽以西の割譲を条件に和議を求めたが項王は聞かなかった。漢王は陳平に黄金四万斤を与え楚の君臣を離間させ、項羽は亜父范増を疑うようになった。范増はもともと滎陽陥落を項羽に勧めていたが疑われたことに怒り辞去を願い出て、彭城に着く前に死んだ。
- 漢軍は食糧が尽き、夜に女子二千人を東門から出し楚を欺き、紀信が王駕に乗じて漢王を偽り誑かした(楚軍は万歳を唱え東門に注目)。この隙に漢王は数十騎で西門から脱出した。御史大夫周苛・魏豹・樅公に滎陽を守らせたが、「反国の王とは城を守れない」として魏豹を殺害した。
宛葉への迂回と成皋の争奪
- 関中に脱出した漢王が再度東進しようとした際、袁生が「漢は滎陽で疲弊している、武関から出れば項羽は必ず南下し、その隙に滎陽・成皋を休ませ韓信らに河北・趙地を固めさせ燕・斉と連携させてから再び滎陽に戻ればよい」と献策、漢王はこれに従い宛・葉に出て黥布と共に兵を集めた。
- 項羽は漢王が宛にいると聞き自ら南下したが、漢王は堅く守り応戦しなかった。彭越が下邳で項声・薛公と戦い大破すると項羽は彭越討伐に転じ、漢王は北上し成皋に入った。項羽は彭越を破ると成皋の漢王を聞きつけ再び西進し滎陽を落とし周苛・樅公を誅殺、韓王信を虜にし成皋を包囲した。
- 漢王は成皋の玉門から滕公とのみ脱出し北へ渡河、脩武に至り使者を装って張耳・韓信の陣に乗り込み軍を奪った。張耳に趙地の増兵を、韓信に斉攻略を命じ、漢王は韓信の軍を得て勢力を回復、小脩武で再戦を図ったが郎中鄭忠の諫めで高塁深塹に徹した。盧綰・劉賈に二万・数百騎を与え白馬津を渡らせ楚地に入り彭越と共に燕郭西で楚軍を破り、梁地十余城を再び平定した。
韓信の斉平定と垓下への道
- 韓信は東進を命じられていたが平原を渡る前に、漢王が酈生を斉王田広の説得に送り斉が漢と和睦しつつあったところ、韓信は蒯通の計により斉を急襲し併合した。斉王は酈生を烹殺し高密に逃れた。項羽は韓信が河北の兵で斉・趙を破ったと聞き、龍且・周蘭を派遣したが韓信・灌嬰に大敗し龍且は戦死、斉王広は彭越のもとへ逃れた。彭越はこの間梁の地で楚の糧道を絶ち続けた。
曹咎の敗死と韓信の斉王封立
- 漢四年、項羽は海春侯大司馬曹咎に「成皋を堅守し漢が挑発しても応じるな、十五日で必ず梁地を平定して戻る」と命じ、自ら陳留・外黄・睢陽を攻略した。漢は数日挑発を続け、ついに大司馬曹咎は怒って汜水を渡り、渡河中の隙を突かれ大敗、楚の金玉財貨をすべて奪われた。曹咎・長史欣は汜水のほとりで自刎した。項羽は睢陽で敗報を聞き引き返したが、漢軍は険阻に退き対峙が続いた。
- 韓信は斉平定後、「斉は楚に接し情勢が不安定、仮王としなければ安定を保てない」と使者を送り、漢王は当初憤慨したが留侯(張良)の進言で「立てて自ら守らせるほうがよい」とし、張良に印綬を持たせ韓信を斉王に立てた。項羽は龍且の敗死を知り恐れ、武渉を送って韓信を誘ったが失敗した。
広武の対峙と漢王の十罪弾劾
- 対陣が長引き丁壮は軍旅に、老弱は輸送に疲弊した。広武の間で漢王と項羽が対話した際、項羽は一騎打ちを求めたが、漢王は項羽の十の罪(懐王との約に背き蜀漢に王としたこと、宋義を矯殺し自尊したこと、趙救援後に諸侯兵を擅に率い関に入ったこと、秦宮室を焼き始皇帝陵を暴いたこと、秦の降王子嬰を殺したこと、新安で秦の子弟二十万を欺き生き埋めにしたこと、諸将を善地に王としながら旧主を追放したこと、義帝を彭城から追放し自ら都したこと、韓王の地を奪い梁楚を併せ多くを自分に与えたこと、義帝を江南で暗殺させたこと)を数え上げ「義兵をもって諸侯に従い残賊を誅する、刑余の罪人にすら項羽を討たせられるのに、なぜ自ら挑戦などしようか」と応じなかった。項羽は激怒し伏兵の弩で漢王を負傷させたが、漢王は足を捫じて「賊が我が指を射た」と強がり、張良の勧めで負傷を押して行軍・士卒の慰労にあたった。
鴻溝の講和と垓下決戦
- 漢王は病癒えて関中に戻り、櫟陽で塞王欣の首を市に晒した。関中兵をさらに動員した。彭越は梁の地で楚の糧道を絶ち続け田横もこれに合流、韓信の斉軍も楚を攻めたため、項羽は恐れ漢王と講和し鴻溝を境に東西を分けた。項王は漢王の父母妻子を返還し軍中は万歳を唱え、両軍は分かれて去った。
- 項羽が東帰する中、漢王は留侯・陳平の計により追撃を決意し陽夏南に至り、斉王信・彭越との合流を約したが至らず、固陵で楚に大敗した。漢王は塁を深く掘り守り、張良の計を用いると韓信・彭越が参陣、劉賈が寿春を包囲し大司馬周殷が九江の兵を挙げて合流、城父を屠りつつ垓下に諸侯が大集結した。淮南王として布(黥布)が立てられた。
垓下の勝利
- 漢五年、高祖は諸侯兵と共に楚軍と垓下で決戦した。淮陰侯(韓信)が三十万を率いて正面、孔将軍が左翼、費将軍が右翼、皇帝(高祖)は後方、絳侯・柴将軍がさらにその後方に布陣した。項羽軍は約十万。緒戦で淮陰侯は不利となり退いたが孔将軍・費将軍が加勢し楚軍は不利になり淮陰侯が再び攻めて垓下で楚軍を大破した。楚兵は漢軍の楚歌を聞き漢がすでに楚地を得たと誤解し戦意を喪失、項羽は敗走し楚軍は総崩れとなった。灌嬰の追撃により項羽は東城で討たれ首八万を斬り楚地はことごとく平定された。魯だけは楚のため堅守を続けたが、漢王が父老に項羽の首を示すと魯も降伏し、魯公の礼で項羽を穀城に葬った。定陶に至った漢王は斉王(韓信)の陣に馳せ入りその軍を奪った。
皇帝即位
- 正月、諸侯・将相が漢王を皇帝に推戴した。漢王は「帝位は賢者のもの、空言では務まらない」と固辞したが、群臣は「大王は微細より起こり暴逆を誅し四海を平定した、功ある者にはすでに土地を分け王侯としている、大王が尊号を立てなければ人々は疑いを解けない」と重ねて求め、漢王は三度辞退の後「皆がそれがよいと言うなら国家のためにしよう」と承諾し、甲午の日に氾水の陽で皇帝に即位した。
- 義帝には後継がないとし、斉王韓信は楚の風俗に習熟しているとして楚王に転じ下邳に都させた。建成侯彭越を梁王とし定陶に都させた。旧韓王信を韓王とし陽翟に都させた。衡山王呉芮を長沙王に転じ臨湘に都させた。番君の将梅鋗は入関の功により恩恵を受けた。淮南王布・燕王臧荼・趙王敖はそのままとした。
治世の始まり
- 天下は大いに定まり、高祖は雒陽に都し諸侯はみな臣属した。項羽に叛いた故臨江王驩を盧綰・劉賈が包囲し数ヶ月後に降伏させ雒陽で殺した。五月、兵は皆帰郷させられた。関中在住の諸侯子弟は12年、帰郷者は6年の税役免除、1年間の食糧支給を受けた。
- 高祖は雒陽南宮で酒宴を開き、群臣に「私が天下を得た理由と項氏が天下を失った理由を隠さず述べよ」と問うた。高起・王陵は「陛下は人を侮るが項羽は人を愛する。しかし陛下は攻め取った地を功ある者に分け与え天下と利益を共にしたのに対し、項羽は賢を妬み能を嫉み功ある者を害し賢者を疑い、勝っても功を分けず地を得ても利を与えなかった、これが天下を失った理由だ」と答えた。高祖は「その一を知り二を知らぬ」とし、「策を帷幄の中で巡らし千里の外で勝利を決するのは子房(張良)に及ばない、国家を鎮め百姓を撫で兵糧を絶やさぬのは蕭何に及ばない、百万の軍を率い戦えば必ず勝ち攻めれば必ず取るのは韓信に及ばない。この三人はみな人傑であり、私はこれを用いることができた、これが天下を取った理由だ。項羽には范増一人がいたのに用いることができなかった、これが我に捕らえられた理由だ」と述べた。
- 高祖は雒陽に長く都するつもりだったが、斉人劉敬の説得と留侯の勧めにより関中に都することとし即日出発した。六月、天下に大赦を行った。
諸王の反乱と鎮圧
- 十月、燕王臧荼が反乱し代地を攻めたため、高祖は自ら討伐し臧荼を捕らえ、太尉盧綰を燕王に立てた。丞相噲(樊噲)に代を攻めさせた。
- 秋、利幾(項氏の将で降り潁川に封ぜられていた)が反乱し高祖自ら討伐、利幾は敗走した。籍調べで恐れを抱いたための反乱であった。
- 六年、高祖は五日に一度太公を家人父子の礼で訪ねていたが、太公家令が「天に二日なく国に二王なし、高祖は子でも人主、太公は父でも人臣、人主が人臣を拝するのは不当」と諫言、以後高祖の来訪時に太公が箒を持ち出迎え後退りしたため、高祖は驚き太公を尊んで太上皇に立て、家令の言を評価し金五百斤を賜った。
- 十二月、楚王韓信の謀反が告発され、陳平の計で雲夢に偽り遊び陳で諸侯を会し、韓信を迎えの場で捕らえた。この日大赦を行った。田肯は「陛下は韓信を得た上に秦の故地を治めている、秦は形勝の国で二人分の兵力に相当し、斉も東西の要害を備え十人分に相当する、東西の秦とも言うべき斉は近親でなければ王とすべきでない」と進言、高祖は賛同し黄金五百斤を賜った。十余日後、韓信を淮陰侯に降格しその地を二国に分けた。将軍劉賈を荊王(淮東)、弟交を楚王(淮西)、子肥を斉王(七十余城、斉語を話す民はみな斉に属させた)とし、論功行賞を行い韓王信を太原に移した。
匈奴との対峙と長安遷都
- 七年、匈奴が韓王信を馬邑で攻め、信は太原で共謀し反乱した。白土の曼丘臣・王黄が旧趙将趙利を王に立てて反乱、高祖は自ら討伐に赴いたが厳寒のため凍傷者が続出し、平城で匈奴に七日間包囲されたのち解かれた(白登の囲み)。樊噲に代地の平定を命じ、兄劉仲を代王に立てた。
- 二月、高祖は平城から趙・雒陽を経て長安に至った。長楽宮の完成により丞相以下が長安に移った。
- 八年、高祖は東方で韓王信の残党を東垣で討伐した。
未央宮造営と趙相の陰謀
- 蕭丞相が未央宮を造営し東闕・北闕・前殿・武庫・太倉を築いた。高祖は宮闕の壮麗さに怒り蕭何を「天下匈匈と戦乱の中で宮室に力を入れすぎだ」と咎めたが、蕭何は「天下が定まらぬうちこそ造営すべきだ、天子は四海を家とし壮麗でなければ威を重んじられない、後世に増築の必要をなくすべきだ」と答え、高祖は納得した。
- 高祖が東垣へ赴く途中、柏人で趙相貫高らが弑逆を謀ったが、高祖は虫の知らせで宿泊せず難を逃れた。代王劉仲は国を捨てて逃亡し雒陽に自首、合陽侯に降格された。
- 九年、趙相貫高らの陰謀が発覚し三族を誅した。趙王敖は宣平侯に降格された。この年、楚の昭・屈・景・懐、斉の田氏など貴族を関中に移住させた。
- 未央宮完成後、高祖は諸侯群臣を招き前殿で酒宴を開き、太上皇に杯を捧げて「かつて大人(父)は私を無頼で家業を治められず仲(兄)に及ばないと言ったが、今の私の業績は仲と比べてどうか」と語り、群臣は万歳を唱え大笑した。
晩年の反乱鎮圧
- 十年十月、淮南王黥布・梁王彭越・燕王盧綰・荊王劉賈・楚王劉交・斉王劉肥・長沙王呉芮が長楽宮に朝賀した。春夏は無事だった。
- 七月、太上皇が櫟陽宮で崩じた。楚王・梁王が送葬に赴き、櫟陽の囚人を赦し、酈邑を新豊と改名した。
- 八月、趙相国陳豨が代地で反乱した。高祖は「豨はかつて信任篤く代を任せていたのに王黄らと結んで代地を劫掠している、代の吏民に罪はない」として赦免を布告し、自ら東方へ討伐に赴いた。邯鄲に至ると「豨が邯鄲を拠点に漳水を頼らないことから大したことはできまい」と喜んだ。豨の将が皆かつての商人だったことを知り金で内応を誘い多くを降した。
- 十一年、高祖が邯鄲で討伐を続ける中、豨の将侯敞が略奪を働き王黄は曲逆に、張春は聊城でそれぞれ渡河を試みたが漢の将郭蒙が斉将と共にこれを撃破した。太尉周勃は太原経由で代地を平定し馬邑を攻め落とした。
- 豨の将趙利が守る東垣は容易に落ちず、城内の兵卒が高祖を罵ったため高祖は激怒し、陥落後に罵った者は斬り、罵らなかった者は許した。趙の山北を分け子の恒を代王に立て晋陽に都させた。
- 春、淮陰侯韓信が関中で謀反し三族を誅された。夏、梁王彭越も謀反により蜀へ流刑となったが再度反意を疑われ三族を誅された。子の恢を梁王、友を淮陽王に立てた。秋七月、淮南王黥布が反乱し荊王劉賈の地を併合し淮水を渡り北上、楚王交は薛に逃れた。高祖は自ら討伐に赴き、子の長を淮南王に立てた。
大風の歌と晩年
- 十二年十月、高祖は会甀で黥布軍を撃破し、布は敗走した。
- 高祖は帰路、故郷の沛に立ち寄り沛宮で酒宴を開き、旧知の父老子弟を招き沛の子供120人に歌を教えた。酒たけなわ、高祖は筑を打ち鳴らし「大風起こりて雲飛揚す、威は海内に加わりて故郷に帰る、いずくにか猛士を得て四方を守らしめん」と自ら詩を作った(大風の歌)。子供らに歌わせ自らも舞い、感慨に涙した。「万歳の後もわが魂魄は沛を懐かしむだろう、沛を朕の湯沐邑とし民の税役を永久に免除する」と述べた。父老たちが留まるよう願ったが、「人数が多く父兄に負担をかける」として辞去しようとした。沛の民が皆邑の西で見送ると、高祖は三日間さらに宴を開き、豊の税役も沛と同様に免除することを約した(雍歯の反乱の恨みは残しつつも要望に応じた)。沛侯劉濞は呉王に封ぜられた。
- 漢の別動隊が洮水南北で黥布軍を大破し追撃の末、鄱陽で布を斬った。樊噲は別動隊で代を平定し陳豨を当城で斬った。
- 十一月、高祖は布討伐から長安に戻った。十二月、秦始皇帝・楚隠王陳渉・魏安釐王・斉緡王・趙悼襄王の後継が絶えていることを憐れみ、それぞれ守冢を置いた(始皇帝には二十家、魏公子無忌には五家)。陳豨・趙利に劫掠された代の吏民を赦した。陳豨降将の証言により燕王盧綰の陳豨との内通が発覚し、辟陽侯を送り召還を図ったが盧綰は病と称し応じず、辟陽侯は反意ありと報告、二月に樊噲・周勃に燕王盧綰討伐を命じ、燕の吏民で反乱に加わった者は赦し、皇子建を燕王に立てた。
高祖の崩御
- 黥布討伐の際に高祖は流れ矢に当たり道中で病を得た。病が重くなり呂后が名医を招いたが、高祖は「私は布衣より三尺の剣を提げ天下を取った、これは天命ではないか、命は天にあり扁鵲でもどうにもならぬ」と嫌がり、治療を拒み医師に金五十斤を与えて帰した。呂后が「陛下の後、蕭相国が死んだら誰を代わりに」と問うと「曹参がよい」、その次を問うと「王陵がよいが少し頑固なので陳平に補佐させよ、陳平は智恵に富むが独任には向かない、周勃は重厚で文才は少ないが劉氏の安泰を守るのは必ず勃であろう、太尉にせよ」と答え、さらに次を問われると「その先はお前の知るところではない」と答えた。
- 盧綰は数千騎で塞の近くに留まり高祖の病が癒えたら自ら謝罪に赴くつもりであった。
- 四月甲辰、高祖は長楽宮で崩じた。四日間喪を発しなかった。呂后は審食其と「諸将はもとの高祖の同輩で今は臣従しているに過ぎず不満を抱いている、若い主に仕えることになれば皆殺しにしなければ天下は安定しない」と謀った。これを聞いた酈将軍が審食其に「帝が崩じて四日も喪を発さず諸将を誅そうとしていると聞く、もし本当ならば天下は危うい。陳平・灌嬰は十万を率い滎陽を、樊噲・周勃は二十万を率い燕・代を守っている、彼らが帝の死と誅殺の企てを知れば必ず兵を返し関中を攻めるだろう、大臣は内で叛き諸侯は外で反すれば亡国は目前だ」と諫めた。審食其がこれを伝え、丁未の日に喪を発し天下に大赦した。
- 盧綰は高祖崩御を聞き匈奴へ亡命した。
- 丙寅、葬儀。己巳、太子が即位し太上皇廟に謁した。群臣は「高祖は微細より起こり乱世を正し天下を平定した、漢の太祖として功績最も高い」と評し尊号を高皇帝とした。太子は皇帝の号を継ぎ孝恵帝となった。郡国諸侯に高祖廟を建て年ごとに祭祀することを命じた。
- 孝恵五年、高祖が沛を懐かしみ楽しんだことを思い、沛宮を高祖の原廟とした。高祖が教えた歌児120人はそのまま楽人として仕え、欠員が出れば補充された。
- 高祖には8男があった。長庶子は斉悼恵王肥、次に孝恵(呂后の子)、次に戚夫人の子趙隠王如意、次に代王恒(後の孝文帝、薄太后の子)、次に梁王恢(呂太后の時に趙共王に転じる)、次に淮陽王友(同じく趙幽王に転じる)、次に淮南厲王長、次に燕王建。
史論
- 太史公は、夏の政は忠を尊んだが忠の弊は小人が粗野になることであり、これを承けて殷は敬を尊んだが敬の弊は小人が鬼神に走ることであり、これを承けて周は文を尊んだが文の弊は小人が浮薄になることであるとし、浮薄を救うには忠に如くはないと論じる。三王の道は循環し終われば再び始まる。周秦の間はまさに文の弊が極まった時代であり、秦の政は改まらずかえって刑法を酷しくしたのは誤りであったとする。
- ゆえに漢が興り、弊を承けて忠へと変え、人を倦ませないやり方で天の統を得たと評す。漢は十月を正朔とし、車服は黄屋左纛を用いた。高祖は長陵に葬られた。