資治通鑑後晉紀二 高祖聖文章武明德孝皇帝 天福 二年 757年

春正月 朝廷人事と成徳鎮の処置

  • 正月、日食があった。暦の扱いについては史料間に食い違いがあり、胡三省は後晋側が三朝にかかる日食を避けるために暦日を改めた可能性を示している。
  • 朝廷は、以前に晋陽包囲中の軍職として授けていた経歴を踏まえ、安重榮を成徳節度使に任じ、祕瓊を斉州防禦使に移した。王景崇が祕瓊を説得し、安重榮は契丹の将・趙思温とともに鎮州に入った。祕瓊は契丹を恐れて命令に逆らえなかった。
  • 安重榮は着任を報告した。これは後に彼が成徳で反乱する伏線となる。王景崇は邢州の人であった。
  • このころ契丹は幽州を「南京」としていた。胡三省は別史に「燕京」とあることを引きつつ、この時点では「南京」と見るのが妥当だとする。

李崧・呂琦の復帰と政局安定策

  • 李崧と呂琦は伊闕の民間に隠れていたが、帝は河東鎮任の実現に李崧の助力があったことを忘れず、また呂琦もとがめなかった。呂琦を祕書監、李崧を兵部侍郎・判戸部に任じ、さらに李崧を宰相兼枢密使、桑維翰も枢密使を兼ねた。
  • 建国直後の後晋は、諸藩鎮の服従が不安定で、戦乱後の財政は枯渇し、民力も疲弊し、しかも契丹の要求は際限がなかった。桑維翰は、藩鎮には誠意をもって撫慰し、契丹には低姿勢と厚礼で応じつつ、軍備・農桑・商業を整えるべきだと説いた。数年で中原がやや安定したのは、この方針によるところが大きいとされる。

范延光の野心と祕瓊殺害

  • 天雄節度使の范延光は、若いころ術士張生から将相になると予言され、さらに蛇が腹に入る夢を見て帝王の兆しだと解かれたため、しだいに不逞の望みを抱くようになった。
  • 趙德鈞敗北後、范延光は遼州から魏州へ帰って降表を出したが、内心は不安で、ひそかに祕瓊へ手紙を送り、結んで乱を起こそうとした。祕瓊が応じなかったため恨みを抱き、祕瓊が斉州へ向かう途中、夏津で兵に襲わせて殺し、その財貨まで奪った。
  • 范延光は「盗賊討伐の兵が誤って殺した」と弁明したが、帝はこの件を追及しなかった。胡三省は、のちに范延光が魏州で反乱し、さらには貨を利して楊光遠に殺されることの前触れだと見る。

呉の徐知誥の権力整備

  • 呉では太子の璉が斉王徐知誥の娘を妃に迎えた。徐知誥は太廟と社稷を建て、金陵を江寧府と改め、牙城を宮城、庁堂を殿と称して、王朝創設に向けた体裁を整えた。宋斉丘・徐玠を左右丞相、周宗らを要職に置き、騎兵八軍・歩兵九軍を設けた。
  • 二月、呉王は盧文進を宣武節度使兼侍中に任じたが、これは後晋領の汴州を実際に支配したわけではなく、遥領であった。
  • 呉主は宜陽王璪を西都に遣わして徐知誥を冊立し、徐知誥は赦を行い、その妃を王后とした。

呉越の内紛と唐潞王の葬送

  • 呉越では、錢元瓘の弟・元珦が罪を得て庶人に落とされていた。さらに少弟の元㺷は軍功と恩寵を背景に兵仗と私兵を増やして驕横となり、国内で支持を集めていたため、元瓘はこれを警戒した。
  • 銅官廟の廟吏が、元㺷が神に国主の位を祈り、蝋丸の書状で元珦と密通していると告発した。三月、元瓘は宴席に呼び出した元㺷をその場で殺し、元珦もあわせて殺した。
  • 元瓘は関係者の摘発を考えたが、子の仁俊が、光武帝や曹操が敵方の書簡を焼いて人心を安んじた先例を挙げて諫めたため、これに従った。
  • 唐の潞王李従珂の遺骨が見つかり、朝廷は王礼で徽陵の南に葬った。胡三省は、閔帝の薄葬と対比して、見送る人々の感情の違いに公論の是非があらわれていると評している。

契丹の雲州・奚支配と張礪

  • 契丹主は上党から雲州へ向かい、大同節度使沙彦珦を迎えさせたが、そのまま帰鎮させなかった。これに対し、節度判官の呉巒は「礼義の地の者が夷狄に臣従できるか」と城中をまとめ、雲州は契丹の命令を拒絶した。契丹軍は攻めても落とせなかった。
  • 応州の馬軍都指揮使郭崇威も契丹への臣従を恥じて南帰した。胡三省は、その出身地「金城」の比定について詳しく考証している。
  • 契丹主は新州で威塞節度使翟璋に犒軍銭十万緡を徴発し、また奚の諸部をめぐる経緯を示した。奚王の家系はかつて契丹の圧迫を逃れて媯州に移り、唐から李姓を賜っていたが、契丹主は旧怨をもってその遺骨を砕いて捨てさせた。残る奚の人々は契丹の苛酷さを恐れて離反した。
  • 翟璋は帰朝を願ったが、契丹は彼に反乱した奚討伐を命じ、功があっても帰さなかったため、失意のまま死んだ。
  • 張礪は契丹から逃亡して捕えられたが、「生活習俗が華人と違い、生きるより死ぬ方がましだ」と言い切った。契丹主は通事の高彦英を叱って張礪を慰撫し、以後もその忠直さを重んじた。胡三省は、契丹に中国人対応の通事が置かれていたことも説明している。

洛陽から汴州への移動

  • 蜀へは即位を告げ、姻戚関係の好を叙したが、蜀主は対等の国として返書した。
  • 范延光が兵を集め、巡属の刺史を魏州に召し寄せて反乱の準備を進める中、朝廷では遷都が論じられた。桑維翰は、汴州は南北交通の要衝で、魏州からも近く、いざとなれば大軍がすぐ届くと説いて、東巡の形で移るよう勧めた。
  • 三月、詔して洛陽の漕運不足を名目に東巡を行い、帝は汴州へ向かった。

徐知誥の改名と漢・交州情勢

  • 呉では徐知誥が「知」の字を除いて単に「誥」と改名し、徐氏一門と自らを区別する姿勢を示した。父徐温を追尊し、母李氏も王太后とした。
  • 漢では大赦が行われた。交州では皎公羨が安南節度使楊廷藝を殺してその地位を奪った。

四月以後 汴州での施政と諸国の動き

  • 四月、帝は汴州に到着し、大赦を行った。
  • 呉越王元瓘は、かつて廃していた建国の制度を再び行い、世子を立て、丞相や節度使官らを整えて体制を固めた。
  • 閩主は紫微宮を造営し、諸州に使者を散らして人々の隠れた罪過を探らせた。
  • 五月、徐誥は宋斉丘の策に従って契丹と結ぼうとし、海路で美玉・珍玩を送って修好した。契丹も返使を送った。
  • 後晋では汴州の牙城を「大寧宮」と仮称した。胡三省は、これは御史台の奏請に基づき、行幸先の宮城に故事にならって宮名を付したものだと説明する。
  • 四代の先祖を帝・后に追尊し、また唐室の罪人の首級については親旧に収葬を許した。梁の故主の首を葬ろうとした婁繼英の件もこの流れの中にある。

六月 范延光の反乱勃発

  • 六月、范延光が病に伏している間に、腹心の孫鋭が澶州刺史馮暉と結び、延光に決起を迫った。延光自身も術士の予言を思い出し、ついに従った。
  • 使者が魏州から戻って反乱の状況を報告し、さらに義成節度使符彦饒は、延光の兵が黄河を渡って草市を焼いたと奏上した。
  • 朝廷は白奉進を白馬津へ、楊光遠を滑州へ、杜重威を衛州へ派遣し、張従賓を魏府西南面都部署に任じて対処にあたらせた。高行周も相州へ進出した。
  • 馮暉・孫鋭は二万で河西を南下して黎陽口に進んだ。楊光遠は胡梁渡を越えてこれに備えた。
  • このころ翰林学士和凝は門を閉ざして賓客を謝絶していたが、張誼がこれを国の耳目たるべき近臣にふさわしくないと批判し、桑維翰に見いだされて左拾遺に抜擢された。張誼は、契丹とは外では信義を尽くしつつ、内では辺備を厳にすべきだと上言し、帝も深く同意した。

雲州問題と郭威

  • 契丹は雲州を半年包囲しても落とせず、呉巒は間道を通じて救援を求めた。帝は契丹主に書を送って解囲を請い、契丹主は翟璋に命じて囲みを解かせた。呉巒は召還され、武寧節度副使となった。
  • 郭威はもと劉知遠の配下で、この出征にも加わるはずだったが、楊光遠には姦才はあっても英雄の器はなく、自分を用いうるのは劉公だけだとして従軍を望まなかった。後日の趨勢を思わせる逸話である。

張従賓の叛乱と洛陽の危機

  • しかし張従賓は、范延光側の誘いを受けて変心し、河陽節度使の皇子石重信を殺し、さらに洛陽へ兵を向けて東都留守の皇子石重乂も殺した。内庫を開いて兵に賞を与え、汜水関を扼して汴州に迫った。
  • 朝廷は侯益・杜重威・劉処譲らに討伐を命じ、軍報が乱れ飛ぶ中、従駕の群臣は大梁で震えあがった。だが桑維翰だけは沈着に軍事を指図し、平然としていたため、人心はやや落ち着いた。

閩の売官と重税

  • 閩では、白龍が螺峰に現れたという方士の言葉を受けて、閩主が白龍寺を建てた。土木事業が重なって財政が不足すると、蔡守蒙に官人選抜を命じつつ、実際には賄賂を記録して納めさせる方針を強いた。廉潔な守蒙はやむなく従い、以後は官職が賄賂の多寡で決まるようになった。
  • さらに空名堂牒を医工陳究に売らせ、年齢・戸口の隠匿、逃亡、果菜・鶏豚にまで重税を課した。胡三省は、堂牒とは空欄のまま売られる任命文書だと説明している。

七月 汴州・滑州の騒擾

  • 七月、張従賓が汜水を攻めて巡検使宋廷浩を殺すと、帝は軽騎で晋陽へ避難しようとした。しかし桑維翰が、賊勢は長続きしないとして必死に引き止め、帝は踏みとどまった。
  • 范延光は蝋丸の密書で不満分子を誘い、婁繼英・尹暉・温韜の子らが呼応した。だが計画は漏れ、尹暉は逃走中に殺され、婁繼英は張従賓のもとに走ったのち、温氏兄弟を拘束して殺した。
  • 一方、滑州では白奉進が夜盗の兵を処刑したことから、符彦饒が反発した。白奉進が謝罪に赴くと、符彦饒は帳下兵に白奉進を殺させたため、軍中は大混乱となった。
  • 盧順密は、符彦饒が范延光と通じているのだと断じ、家族が大梁にいる兵たちに国家への忠節を説いて、馬万らとともに牙城を攻め、符彦饒を捕えた。朝廷はこれを斬った。兄弟たちは共謀していなかったとして連座を免れた。
  • 楊光遠の軍中では、兵が彼を主に推そうとしたが、楊光遠は「天子は売り買いする物ではない」と抑えた。劉知遠も、帝業は天命であり、将相への恩と兵士への威を兼ね備えれば京邑は安定すると進言し、自ら厳しい軍紀を施して兵を服させた。紙銭一包を盗んだ兵さえ斬ったという。

反乱鎮圧の進展

  • 朝廷は楊光遠を魏府行営招討使、高行周を東京留守、杜重威を昭義節度使兼侍衛馬軍都指揮使、侯益を河陽節度使とし、滑州平定の功で馬万を義成節度使に抜擢した。のちに実際の主功が盧順密にあると分かり、順密は昭義留後に改めて厚遇された。
  • 馮暉・孫鋭の軍は六明鎮で黄河を渡る途中を楊光遠に衝かれて大敗し、多くが溺死した。
  • 杜重威・侯益は汜水で張従賓軍を破り、張従賓は逃走中に溺死した。張延播・張繼祚・婁繼英らも捕らえられて誅殺され、その一族も処断されたが、張全義の功を顧みて李濤が上言し、張繼祚の妻子だけの誅にとどめられた。
  • 東都留守司の百官はみな行在所へ赴くよう命じられ、これ以後、朝廷の中心は実質的に大梁へ定まっていく。

博州・安州の動揺と范延光の謝罪

  • 博州では張暉が城を挙げて降った。安州では威和指揮使王暉が周瓌を殺して軍府を奪い、范延光の勝敗を見て去就を決めようとした。朝廷は李金全に千騎を授けて安州へ向かわせ、王暉には唐州刺史としての赦免を約した。
  • 范延光は勝ち目が薄いと知ると、反乱の責任を孫鋭に押しつけて一族を誅し、自らは待罪の表を奉った。しかし帝はまだこれを許さなかった。

呉の禅譲への動き

  • 呉の王令謀は徐誥に受禅を勧めるため金陵へ赴き、徐誥は固辞した。だが王令謀は病みながらも大事未了として職を辞さず、ついに呉主は禅位の詔を下した。
  • 李德誠は再び百官を率いて勧進したが、宋斉丘は表に署名しなかった。胡三省は、受禅論を自分が主導できなかったことから、名望を保つために異議を唱えたのだとみる。

八月 安州平定と歴陽公濛の死

  • 安従進は王暉の南奔を防ごうとして兵を出したが、王暉は安州を掠めたうえで逃げようとし、部下の胡進に殺された。李金全が安州に着くと、乱に加わった将兵数百を説得して都へ送ったが、後に賄賂を抱えた数十人を伏兵で捕えて斬った。武彦和は「首悪の王暉すら赦されたのに、脅従の自分たちに何の罪があるのか」と叫んだ。帝は李金全の意図を知りつつ不問に付した。
  • 呉では歴陽公楊濛が、呉の滅亡が近いと知って兵を挙げようとし、守衛軍使王宏を殺した。しかし王宏の子に攻められ、逃れて周本を頼ろうとしたところ、周本の子に阻まれ、徐誥の命で采石で殺された。追って悖逆庶人とされ、宗籍から除かれた。妻子も郭悰に殺されたが、徐誥はその罪を郭悰に帰して池州へ左遷した。
  • 後晋では張従賓・符彦饒・王暉の党で、まだ処刑されていない者は不問とし、さらに梁・唐以来、契丹に留め置かれていた使者・俘虜・掠奪民を身代金で買い戻して帰国させた。

九月 南唐建国

  • 九月、王令謀が死ぬと、呉主はなおも禅譲へ進んだ。丙寅、江夏王璘が璽綬を奉じ、冬十月甲申、徐誥は金陵で即位し、国号を唐、元号を昇元とした。徐温を武皇帝と追尊し、自らが李氏の後を継ぐ形を整えた。
  • 徐玠に冊書を持たせて旧呉主に尊号を奉り、宮室・車服・宗廟・暦法・服色などは多く呉の旧制を踏襲した。徐知証を江王、徐知諤を饒王とし、呉の太子璉には平盧節度使兼中書令・弘農公を与えた。
  • 宴席で李德誠が宋斉丘を批判したが、唐主は三十年来の旧交を信じるとして、その書を見もせずに宋斉丘を許した。
  • その後、旧呉主の宮殿名を仙経から採り、呉宗室の王たちを公に降して官と食邑を増し、不安をやわらげた。
  • 宋斉丘は、大司徒を加えられても政務から外されて不満を抱き、自分が布衣のころからの旧臣であるのに軽んじられたと訴えた。さらに、旧呉主を他州へ移し、楊璉との婚姻も絶てと求めたが、唐主は従わなかった。胡三省は、ここで宋斉丘の心術があらわになったと評している。
  • 王后宋氏が皇后となり、景通は副元帥・呉王に進み、閩主の弟王繼恭は後晋に表を奉って嗣位を告げ、都下に邸を置くことを願った。

十一月・十二月 南唐・呉越・安州・契丹

  • 十一月、景通は名を璟に改めた。唐主は楊璉の妃に永興公主の号を与えたが、彼女は「公主」と呼ばれるたびに涙を流して辞した。
  • 唐主は景遂を吉王、景達を寿陽公とし、景遂に江都留守を兼ねさせ、東都の百官を江都へ赴かせた。南唐は盛唐にならって東西二都制を模したのである。
  • 後晋は呉越王元瓘を天下兵馬副元帥・呉越国王に進めた。胡三省は、諸史の年月・即位儀礼に異同があることを考証している。
  • 安遠節度使李金全は、腹心の胡漢筠を重用して政務を委ねていたが、朝廷が廉吏の賈仁沼に代えようとすると、胡漢筠は危機を感じ、李金全に異志を抱かせた。龐令図を一族ごと殺し、賈仁沼も毒殺した。これが後の李金全離反の発端となった。
  • 蜀は大赦して翌年の改元を明徳と定め、楚の馬希範には江南諸道都統などを加えた。
  • 契丹はこの年、会同と改元し、国号を大遼と称した。公卿百官の制度を中国にならい、中国人も用いて趙延寿を枢密使・政事令に任じた。これは後々の後晋への圧迫につながる。