資治通鑑後晉紀一 高祖聖文章武明徳孝皇帝上之上 天福 一年 936年
春正月 呉の徐知誥、大元帥府を整備
- 呉では徐知誥が大元帥府を正式に整え、幕僚に吏・戸・礼・兵・刑・工の六部や塩鉄の実務を分担させ、独自の政権機構を強化した。
唐主、石敬瑭への疑いを深める
- 唐主は千春節の酒宴で、晋国長公主が寿賀の後すぐ晋陽へ帰ろうとしたのを見て、酔いに任せて「石郎と謀反するつもりか」と口走った。これを聞いた石敬瑭は、ますます身の危険を感じた。
- その後、石敬瑭は洛陽や諸道にあった自分の財貨をことごとく晋陽へ集め、「軍費のため」と称したが、周囲はみな異心ありと見た。
宰相人事と和親策の挫折
- 三月、馬胤孫が宰相となったが、慎重すぎて政務は滞り、客にもほとんど会わなかったため、当時の人々は「三つの開かず」とあだ名した。
- 唐主は近臣に、石敬瑭は近親であり疑いたくないが、流言が絶えない以上どうすべきかと相談した。皆答えられなかった。
- 李崧・呂琦・張延朗らは、河東が反乱するなら契丹と結ぶはずだとして、先に契丹と和親し、契丹が求めていた人質返還と歳幣でその援助を断つ案を立てた。
- 唐主はいったんこれを喜んだが、薛文遇が「天子が夷狄にへりくだるのは屈辱であり、公主降嫁を求められたら拒めない」と反対し、さらに王昭君の故事を引いて諫めたため、唐主の考えは一変した。
- 唐主は李崧と呂琦を激しく叱責し、幼い娘を沙漠へ送るつもりか、軍資金を敵国へ送るのかと怒鳴った。呂琦は拝礼を重ねるだけでは済まない、処罰するなら処罰してほしいと応じ、ようやく怒りは和らいだ。
- この一件以後、群臣は和親を口にできなくなり、呂琦は御史中丞に出されて中枢から遠ざけられた。
呉・閩・楚・漢の動き
- 呉では徐知誥が子の徐景通を副元帥都統に据え、宋斉丘・徐玠らを要職に置いて軍政機構をさらに固めた。
- 閩主王昶は通文と改元し、賢妃李氏を皇后に立て、皇太后を太皇太后とした。
- 楚では静江節度使馬希杲が善政で評判を得ていたが、監軍裴仁煦がその人望を楚王馬希範に讒言した。
- 夏四月、南漢の孫徳威が蒙州・桂州へ侵攻すると、馬希範は自ら兵五千を率いて桂州へ向かった。馬希杲の母・華夫人は全義嶺で迎えて謝罪したが、馬希範は馬希杲を疑わない姿勢を示し、漢軍が退いた後、馬希杲を朗州へ移した。
高従誨の動き
- 荊南の高従誨は徐知誥に書を送り、帝位につくよう勧めた。小国で周辺大国に従属し分けて利益を得ていた高従誨らしい動きであった。
石敬瑭の転任問題と薛文遇の進言
- 以前から石敬瑭は病弱を理由に兵権の返上や他鎮への転任をたびたび願い出て、唐主の本心を探っていた。
- 朝廷では鄆州への移鎮案が出たが、房暠・李崧・呂琦らは強く反対した。それでも唐主は決めかねていた。
- 五月庚寅の夜、李崧が不在となると、薛文遇が独りで河東問題を論じ、「移しても反し、移さなくても反する。ならば先に手を打つべきだ」と主張した。
- 唐主は占者が今年は賢佐が奇策を出すと言っていたのを思い出し、薛文遇こそその人物だと思い込んで大いに喜び、その場で石敬瑭を天平節度使へ移し、宋審虔を河東へ送る詔を作らせた。
- 制書が出ると、朝臣たちは石敬瑭の名が読み上げられた瞬間に顔色を失った。
石敬瑭、挙兵を決意
- 張敬達が西北蕃漢馬歩都部署となって石敬瑭の鄆州赴任を促すと、石敬瑭は、終身河東に置くという面前の約束を破られたのは、千春節の件が原因ではないかと疑った。
- 石敬瑭は幕僚に「朝廷が発する前に自分からは乱を起こさないが、道中で死を待つこともできない。まず病を理由に様子を見て、容認されれば従い、兵を向けられれば方針を変える」と語った。
- 段希堯は強く反対したが、趙瑩は赴任を勧め、薛融は軍事に疎いとして判断を避けた。
- 劉知遠は、河東は地形の利があり士卒の心もつかんでいる、詔書一枚で虎口へ入るべきではないと断言した。
- 桑維翰も、唐主がいったん河東を返したのは天が石敬瑭に利器を授けたのだとし、明宗の遺愛はなお民間に残り、現主は庶流ゆえ人心が離れている、謝罪しても免れない以上、自衛のため立つしかないと説いた。
- さらに、契丹は明宗と兄弟の約があり、いま雲州・応州近くにいて援軍も早い、節を屈して頼れば大事は成ると勧めた。これで石敬瑭の決意は固まった。
河東での離反と呼応
- 朝廷は石敬瑭を疑い、羽林将軍楊彦詢を北京副留守として送り込んでいた。石敬瑭が挙兵の意を告げると、楊彦詢は河東の兵糧で朝廷に敵しうるかを尋ねた。側近は殺害を勧めたが、石敬瑭はこの一人だけは自分が守るとして許した。
- まもなく皇甫立が石敬瑭の反を奏上した。
- 石敬瑭は、唐主は養子にすぎず正統の継承者ではないから、明宗の子である許王へ位を譲るべきだと主張する上表を出した。唐主はこれを引き裂き、衛州で閔帝を見捨てた前歴がある者の言うことを誰が信じるかと怒った。
- 朝廷は石敬瑭の官爵を削り、張敬達・楊光遠・安審琦・高行周らに討伐を命じた。
- そのさなか、安審信が晋陽へ奔り、安元信も代州から兵を率いて合流した。安元信は、天下を保つ要は信義であり、唐主は石敬瑭のような親貴さえ保てないのだから滅亡は目に見えている、と語った。
- 振武方面からも安重栄が五百騎を率いて石敬瑭に加わった。
- 石敬瑭は彼らを厚く用い、劉知遠らに軍事を任せて防備を整えた。
魏博の乱
- 天雄節度使劉延皓は、皇后の外戚であるのを頼みに驕慢で、将士への支給を削り、宴飲を重ねていたため、魏博の軍中に不満が高まっていた。
- 六月、張令昭が兵を率いて牙城を襲い、劉延皓は洛陽へ逃れた。張令昭は軍府を仮に掌握したとして旌節を求めた。
- 唐主は激怒して劉延皓を遠流しようとしたが、皇后の助命で官爵剥奪のみにとどめた。
- しかし張令昭もほどなく別任地への転出を拒み、唐の使者を殺して石敬瑭の成否を見極めようとした。
- 唐主は范延光・李周らを魏州方面に動員し、七月には魏州を奪回して張令昭を斬り、その党も悉く誅した。
契丹への救援要請
- 七月、石敬瑭は間道から契丹へ救援を求め、桑維翰に表文を書かせて臣従を誓い、さらに父と子の礼で仕えると申し出た。
- 加えて、勝利した暁には盧龍一道と雁門関以北の諸州を割譲すると約した。
- 劉知遠は、称臣はやむをえないにせよ父事は行き過ぎであり、金帛だけで兵は動く、土地を与えれば後日の中国の大患になると強く諫めたが、石敬瑭は従わなかった。
- 契丹主はこれを聞いて大いに喜び、母の舒嚕太后に、石郎から使者が来る夢を見たが果たしてその通りになった、天意だと言った。
- 契丹は仲秋になれば全力で救援に向かうと返書した。
晋陽包囲戦
- 八月、張敬達は長囲を築いて晋陽を包囲した。石敬瑭は劉知遠を馬歩都指揮使とし、安重栄や張万迪らの降兵を統率させた。
- 劉知遠は法の運用を公平にし、旧来の兵も降兵も区別なく扱ったため、皆が心服した。
- 石敬瑭は自ら城壁に上がって矢石の中に寝起きした。
- 劉知遠は、張敬達に奇策はなく、ただ長期戦で兵糧攻めにするだけだと見抜き、外部連絡は主君が担い、自分は守城に専念すると申し出た。石敬瑭はこれを大いに賞した。
- 唐主は契丹来援の報を聞いて張敬達に攻撃を急がせたが、風雨や水害で長囲はしばしば壊れ、包囲を完全に閉じることができなかった。
- 城中は次第に窮乏し、糧も尽きかけた。
九月 契丹来援と唐軍大敗
- 九月、契丹主は五万騎を率い、号して三十万として南下し、揚武谷から太原方面へ入った。
- 代州の張朗、忻州の丁審琦は城を守り、契丹軍は城下を通っても降伏を強いなかった。
- 辛丑、契丹主は虎北口に布陣した。石敬瑭は軽戦を避け翌日の会戦を望んだが、使者が着く前に契丹騎兵は高行周・符彦卿と接戦に入り、石敬瑭も劉知遠を出して援けた。
- 張敬達・楊光遠・安審琦は歩兵を山下に並べたが、契丹は軽騎をおとりに使って唐軍を誘い、汾水の曲がりで伏兵を起こして軍を二断した。
- 北側の歩兵は多数が討たれ、南側の騎兵は晋安寨へ退いたが、契丹は追撃して大勝した。歩兵の死者は一万近くに及んだ。
- 張敬達らは残兵をまとめて晋安寨にこもり、契丹も虎北口へ引いた。
- 劉知遠は捕虜となった唐軍降兵を皆殺しにすべきだと勧め、石敬瑭はその夜、北門から出て契丹主に会見した。
- 契丹主は、唐が雁門の険路を塞いでいなかったので勝機を見たこと、初戦の勢いを逃さず急撃したことが勝因だと語り、石敬瑭は深く感服した。
晋安寨の完全包囲
- 翌日、石敬瑭と契丹は晋安寨を共同で包囲し、南北に長く厚い囲いを築き、鈴索や吠え犬まで置いて、人がわずかに歩くことも難しいほどにした。
- 張敬達らの兵はなお五万、馬一万を数えたが、四方を閉ざされて退路はなかった。
- 張敬達は敗報を朝廷へ送ったものの、以後は連絡が途絶えた。
唐主の親征と逡巡
- 唐主は敗報に震え、洛陽から兵を発して各方面に救援を命じた。范延光には魏州兵を、趙徳鈞には幽州兵を、潘環には西路の戍兵を、それぞれ晋安寨救援へ向かわせた。
- 唐主はさらに親征を決めたが、目の病や北行への恐れもあって心は定まらなかった。雍王重美が代行を願い出ると喜んだものの、張延朗らに勧められて渋々出発した。
- 河陽まで来ると、盧文紀は根本拠点たる河南を守るべきで、河陽にとどまり三道の援軍に任せるのが良いと述べた。張延朗も同調し、他の者も異論を唱えられなかった。
- その一方で、龍敏は降っていた契丹主の兄・李賛華を立て、幽州方面に送り返して契丹の内憂を誘う策を出したが、結局採用されなかった。
- 唐主は焦慮のあまり日夜酒に溺れ、北進を勧められると「石郎のせいで肝胆が地に落ちた」と弱音を吐いた。
冬十月 臨時徴発と趙徳鈞の野心
- 十月、唐は天下の馬を大規模に徴発し、さらに民七戸ごとに兵一人を出させ、各自で武具を備える義軍を編成した。だが集まったのは馬二千余・兵五千ほどで、実戦ではほとんど役に立たず、民間だけが大きく乱れた。
- 趙徳鈞は以前から中原奪取の野心を抱いており、この混乱を機に自らの立場を高めようとしていた。
- 唐主は趙徳鈞に飛狐道から契丹の背後を衝かせようとしたが、趙徳鈞は銀鞍契丹直三千騎を伴い、さらに劉在明・董温琪らの兵も併せようとして進軍を遅らせた。
- 彼は范延光軍とも合流したがったが、范延光はその意図を危ぶみ、兵を動かさなかった。
呉での即位準備と地方の動揺
- 十一月、呉主は徐知誥に百官設置を許し、金陵府を西都とした。徐知誥の帝位簒奪は、いよいよ表立って進んだ。
- 延州では劉景巖が財力と侠気で人心をつかみ、楊漢章が苛酷な徴発を行った隙に軍を煽って節度使を殺させ、自ら留後となった。朝廷も追認せざるを得なかった。
石敬瑭、契丹の冊立で即位
- 契丹主は石敬瑭の器量を見て「中原の主にふさわしい」と称え、自ら天子に立てようと提案した。
- 石敬瑭は数度辞退したが、将吏の勧進もあり受諾した。
- 柳林に壇を築き、その日、契丹主の冊命によって大晋皇帝として即位した。
- その代償として、幽・薊・瀛・莫・涿・檀・順・新・媯・儒・武・雲・応・寰・朔・蔚の十六州を契丹へ割譲し、さらに毎年絹三十万匹を納めると約した。
- 己亥、年号を天福元年とし、法制は明宗旧制に復すると宣言した。これは清泰を正統と認めず、明宗の長興から年次を継ぐ立場を示したものである。
- 趙瑩・桑維翰・薛融・竇貞固・劉知遠・景延広らが新政権の中枢に抜擢され、晋国長公主が皇后に立てられた。
趙徳鈞父子の策動と契丹の翻意未遂
- 契丹軍は柳林にありながらも、輜重や老弱は虎北口に置き、毎夜いつでも退けるよう備えていた。
- 趙徳鈞は団柏谷に月余りも停滞して前進せず、声問すら届かぬまま、趙延寿を成徳節度使にしてほしいと繰り返し求めた。唐主は、賊平定後なら考えるとしたが、内心では父子が鎮州を欲しがる意図を怪しんだ。
- 閏月、趙延寿は契丹主の詔や馬具を献じつつ、表向きは講和のための使者を送ったように見せかけ、裏では趙徳鈞を帝に立てれば、その兵で洛陽を平定し契丹と兄弟国になると密約を持ちかけた。
- 契丹主は一時これに傾いた。自軍は敵地深く入り、晋安寨もまだ完全には終わらず、趙徳鈞軍や范延光軍も侮れないと考えたからである。
- 桑維翰は急ぎ契丹主に会い、趙徳鈞父子は唐にも契丹にも不忠不信であり、死をもって国に報いる人物ではない、細利に惑わされて大功を捨てるべきではないと涙ながらに説いた。
- 契丹主はついに前約を守り、帳前の石を指して「この石が砕けでもしない限り約束は変えない」と使者に言わせた。
晋安寨の窮迫
- 晋安寨は数か月囲まれ、高行周・符彦卿がたびたび騎兵を出して戦ったが、寡兵で功なく、糧秣は尽きた。
- 兵たちは木札を削り、馬糞から草を拾って馬に食わせたが、馬は互いの尾やたてがみまで食い合って禿げ、死馬は将士が分けて食べた。
- 楊光遠と安審琦は張敬達に契丹への降伏を勧めたが、張敬達は、明宗と現主の厚恩を受けた身で敵に降ることはできず、援軍が尽きるまで待ち、どうにもならぬなら自分の首を取って降ればよいと言って拒んだ。
- 高行周は楊光遠が張敬達殺害をたくらんでいることを察し、精鋭騎兵を率いて常に後ろから護衛したが、張敬達自身はそれに気づかなかった。
- ついに甲子、楊光遠は高行周・符彦卿がまだ来ていない朝を狙い、張敬達を斬って契丹に降った。
- 契丹主は諸将を慰労しつつ、張敬達の忠義は称賛し、収葬して祭らせ、臣下たる者は彼を見習えと語った。
- 晋安寨に残っていた馬や武具は契丹が接収し、唐の将卒はそのまま石敬瑭へ引き渡した。
北方諸州の動きと桑維翰の宰相就任
- 晋安陥落の報を受け、石敬瑭は諸州に帰順を促した。代州刺史張朗は使者を斬り、忻州へ赴いた呂琦もまた晋の使者を斬って、丁審琦に五台経由で鎮州へ退くよう勧めた。
- だが丁審琦は途中で心変わりし、呂琦は州兵だけを率いて鎮州へ向かい、丁審琦は契丹に降った。
- 契丹主は、桑維翰は石敬瑭に対して忠義を尽くしたのだから宰相にすべきだと勧めた。
- 丙寅、趙瑩と桑維翰がともに宰相となり、桑維翰はなお権知枢密使事を兼ねた。
- 楊光遠は侍衛馬歩軍都指揮使となり、劉知遠は保義節度使・侍衛馬歩軍都虞候に進んだ。
太原の留守と南下
- 石敬瑭は南下に際し、子のうち一人を河東に残そうとした。契丹主は諸子を見比べ、兄の子で養子となっていた石重貴を選び、北京留守・太原尹・河東節度使とした。
- 契丹は高謨翰を前鋒として降卒を率いさせ、石敬瑭とともに南下した。
団柏谷で唐軍潰走
- 丁卯、団柏谷で唐軍と戦うと、趙徳鈞・趙延寿がまず逃げ、符彦饒・張彦琦・劉延朗・劉在明も続いたため、大潰走となった。
- 兵は互いに踏みつけ合って死者が万を数えた。
- 唐主はこの敗報と、石敬瑭の即位・楊光遠の降伏を知ると、なお魏州が保てるとしてそこへ向かう案を検討した。
- しかし李崧に相談した際、薛文遇が居合わせたことで唐主は顔色を変え、この人物を見ると肉が震える、佩刀で刺したいほどだとまで言った。李崧は、小人物を斬っても醜名が残るだけだとして、南帰を勧めた。
- 唐主はこれに従い、洛陽へ戻ることにした。
洛陽の動揺と潞州での処置
- 洛陽では敗報が伝わると、人々は山谷へ逃げ散った。雍王重美は、国家が民の主となれぬのに生路を塞げば悪名を増すだけだとして、避難を自由にしたため、多少落ち着きを取り戻した。
- 趙徳鈞・趙延寿父子は潞州へ逃れたが、高行周は城中に糧がなく守れないと見て、早く降るよう忠告した。
- 石敬瑭と契丹主が潞州に着くと、父子は迎え出たが、石敬瑭は口も利かなかった。
- 契丹主は、徳鈞配下の銀鞍契丹直三千人を西郊で皆殺しにし、父子を鎖につないで本国へ送った。
- 舒嚕太后は趙徳鈞を厳しく責めた。主君に背き、敵も撃てず、乱に乗じて利を漁ろうとした者にどうして生きる面目があるのかと言い、徳鈞は返答できなかった。
- 張礪も趙延寿とともに契丹へ連れ去られ、再び翰林学士とされた。
契丹主、河南へ深入りせず
- 石敬瑭が上党を発つ際、契丹主は、もし自分がさらに河南へ進めば住民は驚き恐れるだろうから、石敬瑭が漢兵を率いて南下するのがよいと語った。
- そして高謨翰と五千騎を護衛につけ、河梁まで送らせ、自分は太行の北で報を待ち、急があれば下山して救うと約した。
- さらに白貂裘と良馬・戦馬を贈り、劉知遠・趙瑩・桑維翰は創業の功臣だから、よほどのことがない限り見捨てるなと言い残した。
晋州・河陽の帰順
- 先に張敬達が出征した際、唐主は高漢筠を晋州守備に置いていた。張敬達の死後、田承肇が高漢筠を襲って節度使に立てようとしたが、高漢筠は乱の首謀者になるのを拒み、軍士も老臣を害することを望まなかったため、結局洛陽へ帰された。
- 石敬瑭は途中で高漢筠に会い、乱兵に傷つけられずに済んだのを喜んだ。
- 河陽では萇従簡が、河水は浅く人心も離れて守れないと見て、南城にとどめ置かれたのち、石敬瑭に降伏した。
- 唐主は河橋を切って洛陽へ退き、契丹主の兄で洛陽にいた李賛華を殺した。
- 石敬瑭が河陽へ着くと、萇従簡は舟を用意して渡河を助け、劉在明も捕らえられて差し出されたが、石敬瑭は罪を問わず元の任に戻した。
- 唐の諸将は白馬阪まで出て戦おうとしたが、人心はすでに離れ、立って戦う者がいないとして引き返した。
唐の滅亡
- 唐主はなお四将と河陽再進を議したが、将校たちはすでに密かに石敬瑭へ降伏を申し入れていた。
- 石敬瑭は唐主の西走を防ぐため、契丹騎兵千を澠池へ出した。
- 辛巳、唐主は曹太后・劉皇后・雍王重美・宋審虔らとともに伝国宝を携えて玄武楼に登り、自ら火を放って死んだ。重美は宮殿焼亡を諫め、無用な民力の浪費と遺恨を残すなと述べたため、宮城全体の焼失は免れた。
- 王淑妃は曹太后に、ひとまず身を隠して「姑夫」すなわち石敬瑭の到来を待てと勧めたが、太后は一族だけ死地にあるのに独り生きられないとして拒んだ。王淑妃は許王従益を連れて毬場に隠れ、のちに助かった。
- その晩、石敬瑭は洛陽に入り、まず旧邸に宿した。
- 劉知遠が京城の秩序維持を担当し、漢軍を宿営に戻し、契丹兵を天宮寺に収容して厳禁を行ったため、城中は静まり返り、避難民も数日で戻って生業を再開した。
新朝の処断
- 河東時代、張延朗は河東に蓄財させまいとして、地方に残すべき留使財賦までことごとく取り上げていたため、石敬瑭は深く恨んでいた。
- 壬午、百官が拝謁すると、張延朗だけを御史台に収監し、他は謝恩のみとした。
- 甲申、正式に入宮して大赦を行い、官吏の大半は不問としたが、張延朗・劉延皓・劉延朗を特に奸邪貪猥として罪を許さなかった。
- 馬胤孫・房暠・李専美・韓昭胤らは重職にありながら迎合しなかったとして、罪は赦すが官を解かれた。
- 劉延皓は龍門に隠れて数日後に自殺し、劉延朗は南山へ逃げようとして捕まり殺された。
- 張延朗も斬られたが、のちに石敬瑭は三司使に適任者が見つからず、早まったことを悔いた。
十二月 契丹送還と追贈・再配置
- 十二月辛酉朔、石敬瑭は河陽で太相温と契丹兵を餞別し、帰国させた。
- 唐主は追って庶人に落とされた。
- 馮道が宰相に加えられた。
- 曹州では刺史鄭阮の貪暴に耐えかねた指揮使石重立が、乱に乗じてこれを殺し一族も滅ぼした。
- 姚顗は刑部尚書に任じられた。
- 朔方では張希崇が民夷に信望があり、屯田で漕運を省いた治績もあったため、契丹への備えから再び朔方節度使に戻された。
- 成徳では董温琪が契丹に没すると、腹心の祕瓊がその家族を皆殺しにして財貨を奪い、自ら留後と称した。
- 同州では小校の門鐸が節度使楊漢賓を殺して州城を焼き払った。
- 李賛華には燕王が追贈され、その棺は契丹へ送られた。
- 代州刺史張朗はついに入朝し、盧文紀は吏部尚書に移された。
- 皇城使の周瓌が三司使に任じられたが、自分の才では職にかなわないとして辞退し、石敬瑭もこれを許した。
- 平盧節度使房知温の死を聞くと、王建立を青州へ派遣して鎮撫させた。
- 興唐府は広晋府と改められた。
- 安遠節度使盧文進は、石敬瑭が契丹に立てられたことから、自分がもとは契丹を叛いて来た身であるのを不安視し、鎮を捨てて呉へ逃れた。
呉の禅代工作と高麗の拡張
- 徐知誥は、李徳誠・周本という元勲に兵を率いさせて推戴の形を作ろうとした。
- 周本は、楊氏の恩に報いられずすでに恥じているのに、さらに簒奪の手助けなどできないと拒んだが、子に強いられてやむなく従った。
- 両者は江都で呉主に徐知誥の功徳を称えて冊命を求め、さらに金陵でも即位を勧めた。
- 宋斉丘は李建勲に対し、あなたの父は太祖以来の元勲なのに、今日その名誉は地に落ちたと皮肉った。
- 呉宮では妖異が相次ぎ、呉主は国運の終わりを悟ったが、左右はこれを天命であって人力ではどうにもならないと言った。
- 高麗王王建は新羅・百済を攻め破り、東夷諸国を服属させ、二京・六府・九節度・百二十郡を有する勢力へ拡大した。