正月―三月 諸国の年頭と後唐・蜀の人事
- 正月丙申朔、閩は大赦して永和と改元した。
- 二月丙寅朔、蜀も大赦した。
- 甲戌、後唐では范延光が枢密使から宣武節度使兼中書令へ転じた。
- 丁丑、夏州節度使李彛超が病を理由に、兄の李彛殷へ軍州を委ねたいと願い出、ほどなく死去した。
- 戊寅、蜀主は母の李氏を皇太后とした。李氏はもと庄宗後宮の人で、孟知祥に賜われた女性である。
- 己丑、後唐では皇帝の母魏氏に宣憲皇太后の尊号が追贈された。
- 閩主は淑妃陳氏を皇后に立てた。彼は以前、士族出身の劉氏二人を娶っていたが寵愛せず、もと侍婢の陳氏を寵愛し、その一族の陳守恩・陳匡勝を殿使にした。
三月 後唐人事・呉越・史在徳の上書
- 辛丑、趙延壽が忠武節度使兼枢密使となり、李彛殷が定難節度使となった。
- 己酉、呉越王銭元瓘の母陳氏に晋国太夫人が追贈された。元瓘は母方一族に礼を尽くしたが、官位や重職はむやみに与えなかった。
- 壬戌、安審琦が順化節度使を帯びた。
- 太常丞史在徳は性格が激しく、内外の文武官を痛烈に批判し、武人は兵法を知らず、文人は才能も徳もないと述べ、広く試験を行って有能無能を選別すべきだと上書した。
- 宰相や朝士は怒り、盧文紀・劉濤・楊昭儉らは処罰を求めた。
- しかし皇帝は馬胤孫に対し、新たに天下を受けたばかりなのだから言路を開くべきであり、諫言した者を罪すれば誰も物を言わなくなると語らせ、史在徳を咎めない詔を出した。
- 呉では徐景遷に同平章事が加えられ、左右軍事を知ることになった。徐知誥は陳覺を補佐につけ、若年の景遷を教育させた。これは宋齊丘・陳覺らが景遷擁立を構想した動きとも関係していた。
四月―六月 後唐・蜀・契丹
- 四月庚午、蜀では毋昭裔が宰相となった。
- 癸未、韓昭胤には同平章事が加えられた。
- 辛卯、劉延皓が枢密使となり、癸巳、劉延朗は宣徽北院使兼枢密副使となった。後宮外戚の劉氏一門が中枢へ食い込んだ形である。
- 五月、契丹が新州・振武に侵攻し、庚戌、振武節度使楊檀は名を楊光遠と賜った。明宗諱を避ける偏旁回避の事情にも触れる注がある。
- 六月、呉の名将柴再用が死んだ。史官が武功を尋ねても、再用は自分の手柄を語らず、すべて社稷の力とした。
- 契丹は応州へも侵攻した。河東節度使石敬瑭は前年に帰鎮して以来、ひそかに自衛策を練っていた。
- 皇帝は外事を知るため李專美・李崧・呂琦・薛文遇・趙延乂らを夜更けまで中興殿で召し語らうことがあったが、その情報は石敬瑭が太后側近や自分の宮中勤務の子らを通じて、細大漏らさず掴んでいた。
- 石敬瑭は人前では病身を装い、朝廷の猜疑を避けようとしていた。
- 契丹の来寇が頻発すると、幽州の趙徳鈞とともに石敬瑭はたびたび増兵・運糧を求めた。朝廷は河東の豪民から穀物を借り上げ、鎮州から絹五万匹を送り、また鎮冀の民に代州まで運ばせ、魏博にも買い上げを命じた。折からの水旱で民は飢え、太行山東の住民流散が始まった。胡注はここに乱の兆しを見る。
- 石敬瑭が忻州に大軍を置くと、朝廷使者が夏衣を賜って将士を慰撫したが、軍中には「万歳」を四度も唱える者があり、石敬瑭はこれを危険視して段希堯の進言に従い、都押衙劉知遠に李暉ら三十六人を斬らせて見せしめにした。だが皇帝は逆に石敬瑭への疑いを深めた。
- 壬辰、窃盗・放火・強盗の刑罰を厳格化する詔が出た。
七月 天雄節度使更迭と北面軍再編
- 閩では福王繼鵬が宮人李春燕と私通し、彼女を陳后に求めて閩主から与えられた。
- 後唐では、劉延皓が天雄節度使に出され、乙巳、張敬達が北面行営副総管として代州に屯し、石敬瑭の権限を分かつことになった。これは石敬瑭への牽制である。
- 皇帝は時局を憂え、盧文紀らに策を進めぬことを責めた。文紀らは、五日起居では侍衛が多くて本音を言えないので、延英殿の旧制のように宰相だけで密議する場を設けてほしいと願い出た。
- 皇帝は、名目にこだわる必要はなく、密事なら閣門から申請して便殿で会えばよいと答えた。
七月―九月 呉の徐知諤問題
- 呉の潤州団練使徐知諤は小人と親しみ、遊宴にふけって政務を怠り、牙城の西で自ら商売までしていた。
- 徐知誥は怒って左右を詰問したが、ある者が「忠武王徐温は最も知諤を愛した。知詢を江都へ移してから今なお議論は絶えない。もし知諤が統治や兵備で評判を得たら、あなたに何の得があるか」と諭すと、徐知誥は悟ってかえって厚遇するようになった。
- 九月丙申、呉は大赦して天祚と改元した。
- 己酉、房暠が枢密使、劉延朗が宣徽南院使兼枢密副使となった。以後、劉延朗と薛文遇らが中で政務を専断し、房暠や趙延壽は長官であっても実権は乏しかった。
- 房暠は可否の判断だけを示し、自分からことを進めず、幽州・并州からの使者が来ても居眠りしていることさえあった。除授も劉延朗へ一任され、藩鎮・刺史たちは彼に賂を贈って、厚い者は内地、薄い者は辺境へ回された。そのため諸将の怨みが広がった。
- 蜀の金州防禦使全師郁が金州へ侵攻し、水寨を奪ったが、馬全節が私財を投じて兵を支え、奇兵で死戦して蜀軍を退けた。陳知隱は戦わずに遁走したため斬られた。
十月 閩の政変
- 閩主には帰守明という寵臣がおり、陳后や李可殷とともに私通していた。国人は皆これを憎んだが、誰も言えなかった。
- 李可殷は李倣を讒し、陳匡勝は福王繼鵬へ無礼を働いたため、李倣・繼鵬はともに彼らを恨んだ。
- 閩主が重病となると、繼鵬は喜色を見せ、李倣も主君はもはや助からぬと見た。
- 己卯、李倣は壮士に白棒を持たせて李可殷を撲殺し、都は震駭した。
- 庚辰、閩主の病がやや軽くなると、陳后が訴え出た。閩主は病身を押して朝し、李可殷殺害の経緯を問いただそうとしたが、李倣は恐れて退出し、すぐ兵を率いて鼓噪しつつ入宮した。
- 閩主は九龍帳の下に隠れたが、乱兵に刺され、なお息があったため、宮人が苦しみを見かねてとどめを刺した。
- 李倣と繼鵬は陳后・陳守恩・陳匡勝・帰守明、さらに繼鵬の弟繼韜まで殺した。繼韜は以前から繼鵬と不仲だったからである。
- 辛巳、繼鵬は皇太后令の名で監国し、その日のうちに即位して名を昶と改めた。父に諡して廟号を恵宗とし、当初は権知福建節度事と称して後唐へ表を奉った。
- さらに李春燕を賢妃とした。
- もと恵宗の漢人妃に従って広州にいた宦官林延遇は、漢主から閩の事情を問われても口外せず、「閩で閩を語り、越で越を語るようなまねは宮中の人間としてすべきでない」と答えた。のちに恵宗弑逆を聞くと帰国を願ったが許されず、三日間喪服で哭した。旧主を忘れぬ人物として記される。
十月 荊南・高從誨と梁震
- 荊南の高從誨は賢士を礼遇し、梁震を兄のように扱って政務を任せていた。楚王馬希範の奢侈を人々が称えると、高從誨も感心したが、孫光憲は礼を越えた驕奢であり、遠い将来を考えない危険な振る舞いだと諫めた。
- 高從誨はのちにこの忠告の正しさを悟り、玩好を捨てて経史を楽しみ、刑を軽くし税を薄くして国内を安定させた。
- 梁震は「先王が私を布衣の友として遇し、嗣王を託した。今、嗣王が自立した以上、老いた自分はもう人に仕えない」と言って隠退を願い、土洲に家を築いて移った。高從誨はなお四季折々の賜与を厚くし、政務は孫光憲に委ねた。
- 胡三省はここで、孫光憲は微を見て諫め、高從誨は善を聞いて改め、梁震は功成って退いたと称えている。
十月―十一月 呉の徐知誥、斉王へ
- 呉では徐知誥に尚父・太師・大丞相・大元帥が加えられ、斉王に進封され、昇・潤・宣・池・歙・常・江・饒・信・海の十州が斉国として与えられた。徐知誥は尚父・丞相・殊礼は辞退した。
- 閩では李倣が朝政を専断し、ひそかに死士を養っていた。閩主昶は林延皓らと謀り、彼らは李倣に親しく装って油断させた。
- 十一月壬子、李倣が入朝すると、内殿に伏せていた衛士がこれを捕えて斬り、首を朝門にさらした。李倣配下の兵千余は応天門を攻め、啓聖門を焼いたが敗れ、首を奪って呉越へ逃げた。
- 閩では李倣に弑逆の罪を着せて内外へ布告し、建王繼嚴に六軍を預けた。
- 六軍判官の葉翹は博識で質直、かつて福王友として閩主昶を教え、「国翁」と呼ばれるほどだった。昶は即位後、驕って彼を疎んじたが、葉翹が道士姿で去ろうとすると謝って引き留めた。だが、李春燕を寵愛して正妃李氏を軽んじる件を葉翹が諫めると、昶は不快となり、ついに紙尾に「一葉随風落御溝」と書いて放逐した。葉翹は永泰へ帰り、寿命を全うした。
- 後唐では、馬全節の功を認めて召そうとしたが、劉延朗が賂を求め、応じられぬのを見て絳州刺史にしようとした。世論が沸騰したため、皇帝は乙卯、馬全節を横海留後に任じた。ただし劉延朗を処罰はしなかった。
十二月 後唐終年の人事と閩の道士政治
- 壬申、韓昭胤は護国節度使へ出され、乙酉、馮道が司空となった。久しく正規の三公任命がなかったため朝議は司空の職掌を疑い、盧文紀は祭祀の掃除を司空にさせようとした。馮道は「司空の掃除なら何を嫌う」と受け流したが、文紀も自らの浅はかさに気づき中止した。後唐の制度知識の貧しさを示す話として添えられている。
- 閩主は洞真先生陳守元を「天師」と号して重用し、将相の更迭、刑罰、選挙に至るまで相談するようになった。陳守元は賄賂と請託を受けて権を振るい、その門前は市のようであった。