資治通鑑後唐紀 潞王 清泰 元年 934年

正月 閔帝の改元と人事刷新

  • 閔帝は大赦し、年号を応順と改めた。
  • 康義誠に侍中・判六軍諸衛事を加えた。
  • 朱弘昭・馮贇は、侍衛馬軍都指揮使の安彦威と、侍衛歩軍都指揮使の張従賓を忌み、安彦威を護国節度使、張従賓を彰義節度使に出した。それぞれの後任には朱洪実・皇甫遇を据えた。
  • 朱弘昭を同中書門下二品、馮贇を中書令格に進め、石敬瑭にも中書令を加えようとしたが、馮贇は昇進が急すぎるとして固辞し、侍中のままに改められた。
  • 高従誨を南平王、馬希範を楚王、銭元瓘を呉越王に封じた。
  • 呉では徐知誥が金陵の私第に移り、府舎を空けて呉主の遷都に備えた。

潞王従珂への猜疑

  • 潞王李従珂は石敬瑭と並んで明宗の征伐を助け、功名・人望ともに高かった。これに対し、朱弘昭・馮贇はもともと位望が低かったのに一挙に朝政を執ったので、両者を強く警戒した。
  • 明宗の病中、潞王はしばしば夫人を宮中へ入れて見舞わせたが、崩御の後は病を理由に洛陽へ来なかった。国の疑いが深まる時期で、猜疑の兆しがすでに現れていた。
  • 使者の中には、潞王の密事を探ったと称して朱・馮に取り入る者もいた。
  • 潞王の長子李重吉は控鶴都指揮使であったが、朱・馮は禁兵を預けたくなく、亳州団練使に出した。
  • 潞王の娘で尼となっていた恵明も禁中に召し入れられたため、潞王はますます疑いと恐れを深めた。

呉の建州侵攻と薛文傑の末路

  • 呉の蔣延徽は浦城で閩兵を破り、そのまま建州を囲んだ。
  • 閩主璘は張彦柔・王延宗に一万の兵を与えて救援させたが、兵士たちは、薛文傑を処罰しないかぎり賊は討てないと言って進まなかった。
  • 皇太后と福王継鵬も泣いて、文傑が国権を盗み、無辜を害したため上下の怨みが積もっていると閩主に訴えた。
  • 文傑もその場で自己弁護したが、閩主は最終的に見放した。
  • 継鵬は啓聖門外で文傑を笏で殴り倒し、檻車に載せて軍前へ送った。市人は争って石や瓦を投げつけた。
  • 文傑は術数に通じ、自分は三日過ぎれば無事だと言っていたが、護送者はそれを聞いて急行し、二日で着けたため、兵士たちは躍り上がってこれを食い裂いた。閩主が赦免を急いでも間に合わなかった。
  • 文傑はかつて檻車を改作し、鉄の刃を内向きにつけた残酷なものにしていたが、皮肉にも自らそれに入れられた。盛韜も併せて誅された。

徐知誥の牽制

  • 蔣延徽は建州をほぼ落としかけていたが、徐知誥は彼が呉太祖の婿で、臨川王楊濛とも親しいことから、建州を取れば楊氏復興の旗頭にされるのではと恐れた。
  • そこで使者を送って召還し、蔣延徽もまた閩兵と呉越兵の来援を聞いて撤退した。
  • 閩軍はこれを追って大いに破り、死者を多く出した。徐知誥は責任を都虞候張重進に帰して斬り、蔣延徽を右威衛将軍に落とした。
  • そのうえで閩に使者を送り、和好を求めた。

閏月 閔帝の周辺と安州の変

  • 唐汭・陳乂を給事中兼枢密直学士とした。唐汭はもともと閔帝に従って三鎮の幕下にいた文士であった。
  • 朱弘昭・馮贇は、かつての将佐で才能ある者を多く追い払っていたが、唐汭は迂闊で扱いやすかったため、帝の近くに置き、しかも陳乂に監視させた。
  • 皇后を皇太后に尊んだ。
  • 安遠節度使の苻彦超の奴である王希全・任賀児が、朝廷の多事に乗じて苻彦超を殺し、安州を拠って呉に附こうとした。急使を称して夜に門を叩き、出てきた苻彦超を聴事で殺し、従わぬ諸将も次々に斬った。
  • しかし翌朝、副使李端が州兵を率いて討ち、反乱者とその党を誅した。
  • 王淑妃を太妃としたが、特に「尊」の字を用いないことに、閔帝の冷遇が表れているとされる。

蜀 孟知祥の即位

  • 蜀では将吏が孟知祥に帝位を勧め、正月己巳、孟知祥は成都で皇帝に即位した。