資治通鑑後唐紀 明宗聖德和武欽孝皇帝 長興 四年 934年
正月 閩の即位と後唐の人事
- 秦王従栄に尚書令兼侍中を加えた。
- 端明殿学士の劉昫を中書侍郎・同平章事とした。
- 閩では、かつて龍が現れたとされる旧宅にちなみ、王延鈞がそこを「龍躍宮」と改め、宝皇宮で冊命を受ける形式を整えたのち、皇帝に即位した。国号を大閩とし、大赦し、年号を龍啓と改め、自らの名を璘に改めた。
- さらに父祖を追尊して五廟を立て、側近の李敏・王継鵬らを宰相にし、親吏の呉朂を枢密使に任じた。
- 後唐の冊礼使の裴傑・程侃がちょうど海門に至ったが、閩主は裴傑を留め、程侃の帰国願いは許さなかった。
- 閩主は小国で辺地にあることを自覚し、周辺諸国に慎重に接したため、国内は比較的安定していた。
二月 両川・河西・湖南
- 孟知祥は朝廷の返答を待たず、墨制によって趙季良ら五人を五鎮節度使に任じた。
- 涼州では大将の拓跋承謙らと耆老が、権知留後の孫超を節度使にしてほしいと請願した。朝廷が使者に尋ねると、孫超らは昔、張義潮に従って河西から帰順した天平軍将士の子孫だという。黄巣の乱以後、凉州は党項に隔てられ、本土と断絶して久しかった。
- 馬希範を武安・武平節度使兼中書令とした。
- 定難節度使の李仁福が死に、軍中はその子李彞超を留後に立てた。
- 孟知祥には正式に東西川節度使・蜀王の地位を与えた。
三月 夏州問題の勃発
- 以前から辺鎮では李仁福が密かに契丹と通じているとの疑いが出ており、朝廷は河西・関右一帯への脅威を恐れていた。
- そこで李仁福の死を機に、李彞超を彰武留後へ移し、彰武節度使の安従進を定難留後として夏州に入れ替えようとした。
- 静塞節度使の薬彦稠に五万の兵を与え、安重益を監軍として安従進を送らせた。安従進は索葛部の出身であった。
- 朝廷はあらためて趙季良ら五人を節度使に任じる制書を下したが、実際には孟知祥の既成事実を追認した形だった。
- さらに夏・銀・綏・宥の将士・吏民に対し、李彞超は若年で辺防を担えないので延安へ移れと諭した。従えば恩典を、背けば王都・李匡賓のような滅族を受けると脅した。
四月 親王教育と李彞超の抵抗
- 李彞超は、軍士と百姓に引き留められて赴任できないと上表し、朝廷は使者を送って催促した。
- 一方、親王に師傅を置くべきだという議論が起こったが、宰相たちは秦王従栄を恐れて人選できず、従栄自身に選ばせることとなった。
- 秦王府判官の王居敏が劉瓚を推薦し、従栄が請うたため、劉瓚を秘書監兼秦王傅とし、魚崇遠を記室にした。
- 劉瓚はこれを左遷と見て涙ながらに辞退しようとした。王府の僚属は若く軽薄な者が多く、劉瓚だけが穏やかに諫めたが、従栄は快く思わず、しだいに面会も制限した。
- 李彞超は詔に従わず、兄の阿囉王に青嶺門を守らせ、境内の党項・諸胡を集めて自衛した。
- 薬彦稠らが蘆関に進むと、李彞超側は糧道や攻城具を襲い、官軍は金明まで退いた。
五月 閩・後唐・呉の動向
- 閩主璘は子の継鵬を福王とし、宝皇宮使に任じた。
- 後唐では、皇子の従珂を潞王、従益を許王とし、さらに従子の従温・従璋・従敏にも王号を与えた。
- 閩で地震が起こると、閩主は退位して道を修める姿勢を示し、福王継鵬に政務を総覧させた。
- もとより王審知は倹素で、官舎も質素だったが、閩主璘の代になると大規模な宮殿造営が進められた。
- 後唐の帝は突然中風を患い、しばらく群臣に会えなくなった。都人は不安におびえ、山野や軍営へ逃れる者まで出た。
- 夏州城上に夜火が挙がると、夜明けに雑胡数千騎が来援したが、安従進配下の宋温が撃退した。
- 呉では宋斉丘が徐知誥に、呉主を金陵へ遷都させるよう勧め、徐知誥は宮城建設を進めた。
七月 明宗の病と夏州遠征の失敗
- 帝は病を押して広寿殿に出御し、ようやく人心は落ち着いた。
- 安従進は夏州を攻めたが、その城は赫連勃勃の築いた統万城で、土を蒸し固めた堅城だったため、掘削しても歯が立たなかった。
- そのうえ党項騎兵一万余が四方を遊撃して糧道を絶ち、官軍は牧草も得られず、関中からの輸送費は高騰し、民力は枯渇した。
- 李彞超兄弟は城上から、夏州は貧しく朝廷への大きな貢納もできない土地であり、祖先以来守ってきたから失いたくないだけだ、もし改心を許すなら以後は征伐にも先駆けて尽くすと訴えた。
- 帝はこの報告を聞き、安従進に撤兵を命じた。
- のちに、李仁福は実際には契丹と通じておらず、朝廷による転任を恐れて、あえてそのような風聞を流していたのだと判明した。これにより朝廷は無益な遠征を行ったことになる。
- この失策以後、夏州は朝廷を軽んじ、叛臣とひそかに結んで恩賞を引き出す傾向を強めた。
七月 軍心と銭元瓘
- 帝の病が長引き、夏州征討も失敗したため、軍中には流言が広まった。
- 帝は在京諸軍に臨時の優給を与えたが、理由の薄い賞賜だったため、かえって兵の驕りを助長した。
- 銭元瓘には呉王の爵を与えた。
- その兄の元璙が蘇州から入朝すると、元瓘は家人の礼でこれに仕え、自分が王位にあるのは兄の譲りのおかげだと言って寿を祝った。元璙も先王の選定に従うのみだとして、兄弟はともに涙した。
閩の薛文傑の専横
- 閩主が復位したのは、地震の異変を厭って一時退いたにすぎなかった。
- 福建中軍使の薛文傑は巧言と聚斂で閩主に取り入り、富民の罪をでっち上げて財産を没収し、拷問も苛烈だった。
- 建州の土豪呉光は、その財産を狙われて罪を問われそうになり、怒って一万人近い部衆を率いて呉へ逃れた。
八月 蜀王冊立・明宗尊号・太子問題
- 後唐は盧文紀と呂琦を蜀王冊礼使として成都へ派遣し、一品朝服を賜った。
- 成都では孟知祥が自ら九旒冕・九章衣を作り、車服・旌旗も王者に準ずるものとしていた。
- 使者到着後、孟知祥は衮冕姿で北面して冊を受け、玉輅から府門では歩輦に移って帰還した。
- 後唐では群臣が帝に長大な尊号を上り、大赦し、在京・諸道の将士に再度の優給を行った。ひと月に二度の優給で、財用はいっそう苦しくなった。
- 太僕少卿何沢は、帝の病と秦王従栄の権勢を見て、従栄を太子に立てるよう上表した。
- 帝はこれを見て涙し、太子を立てるなら自分は太原の旧宅に帰るだけだと側近に漏らした。
- しかし押し切られて宰相・枢密使に諮問し、従栄本人は、太子とはなりたくなく、兵民を治めることを学びたいと言った。だが実際には、太子冊立は自分の兵権を奪い東宮に幽閉する策だと范延光・趙延寿に語った。
- 二人はこれを帝に告げ、結局、従栄は太子ではなく「天下兵馬大元帥」とされた。
九月 大元帥制と執政交代
- 呉主は徳妃王氏を皇后に立てた。
- 范延光・趙延寿に侍中を加えた。
- 中書は、大元帥の従栄に対し、節度使以下の武臣が軍礼で拝謁する制度を定めた。使相であっても最初は軍礼とし、軍務は元帥府の指揮に従わせるなど、従栄の秩序は極めて重くされた。
- 帝は宣徽使判三司の馮贇を宰相格に上げようとしたが、父名との混同から「同中書門下二品」という異例の官名を用いてしまった。
- 従栄は厳衛・捧聖の歩騎二指揮を牙兵に求め、入朝には数百騎を率い、弓矢を帯びて都中を疾駆した。また文士に淮南向け檄文を書かせ、自分が天下を平定する意気込みを示させた。
- さらに執政を憎み、即位すれば一族を滅ぼすと私言したため、范延光・趙延寿はいよいよ恐れて外任を願った。
- 帝は病身なのに去ろうとするのを怒ったが、繰り返しの懇願の末、趙延寿を宣武節度使に出し、その後任に朱弘昭を枢密使同平章事とした。朱弘昭も辞退したが、帝はこれを許さなかった。
張文宝の漂流と節義
- 吏部侍郎の張文宝が杭州への使者となったが、海上で船が壊れ、小舟で流されて天長に至った。従者二百人のうち生き残ったのは五人だけだった。
- 呉主は厚遇し、従者・衣服・銭貨を与え、さらに銭氏に文書を送って境上で迎えさせた。
- 張文宝は自分一人の飲食だけを受け、他の贈り物は辞退した。後唐と呉は久しく君臣でも賓主でもない関係であり、受ければ言い訳が立たぬというのである。
- 呉主はその節義を称え、張文宝はついに使命を果たして帰還した。
十月 辺馬政策・人事・夏州和解
- 西北の諸胡が馬を売りに来て絹の支出が増えすぎるとして、辺鎮で良馬だけを選んで買わせることにした。
- 孫岳を三司使にした。
- 范延光は孟漢瓊・王淑妃を通じて外任を求め、成徳節度使に出され、馮贇が枢密使となった。
- 康義誠は帝に実直忠厚と思われて信任されたが、実際には秦王側にも子を通わせ、両端を持して自保を図っていた。
- 李彞超は罪の赦免を願う上表を出し、定難軍節度使に正式任命された。
十一月 明宗の危篤と秦王従栄の乱
- 范延光が暇乞いの酒宴で、国家の大事は内外の辅臣と相談して決め、群小の言葉に惑わされてはならぬと帝に進言した。
- そのころ孟漢瓊が権勢を持ち、党与をつくって上を惑わせていた。
- 帝の病は再び悪化し、十一月戊子には発作し、己丑には危篤となった。
- 秦王従栄が見舞いに入ったが、帝は首をもたげることもできなかった。王淑妃は従栄の presence を告げたが、帝は反応しなかった。宮中では哭声が上がり、従栄は帝がすでに崩じたと思って翌朝は病を称して参内しなかった。
- しかしその夜、帝は小康を得た。従栄はこれを知らず、もともと世論が自分を支持していないことも分かっていたので、嗣立できないことを恐れ、兵を率いて入宮し、先に権臣を制圧しようと党与と相談した。
- 辛卯、従栄は馬処鈞を遣わし、朱弘昭・馮贇に、牙兵を率いて入宮し侍疾したい、どこに駐屯すべきかと問わせた。二人は表向きは任せると答えたが、密かに軽挙すべきでないと諭した。
- 従栄は怒り、家族を愛さぬのかと脅迫したため、二人は王淑妃・孟漢瓊に告げ、さらに康義誠を呼んだ。康義誠は煮え切らず、相公の命に従うだけだと述べた。
- 壬辰の黎明、従栄は河南府から常服で歩騎千人を率いて天津橋に布陣した。馬処鈞を馮贇のもとに遣わして、その日中に入宮して興聖宮に入る、禍福は須臾にあると迫らせた。
- 馮贇は急ぎ宮中に入り、朱弘昭・康義誠・孟漢瓊・孫岳らに告げた。馮贇は、もし秦王軍を入れてしまえば主上をどこへ置くのか、自分たちにも子孫は残らぬと、康義誠に決断を迫った。孟漢瓊もまた、自ら兵を率いて拒むと言って殿中へ入った。
- 帝は従栄の反乱を聞いて涙し、康義誠に処置を委ね、李重吉に諸門を閉ざさせた。李重吉は李従珂の子で、このとき控鶴兵を率いて宮門を守った。
- 孟漢瓊は甲冑を着て馬に乗り、馬軍都指揮使の朱洪実に五百騎を与えて討伐させた。
- 従栄は天津橋上で胡床に座って待っていたが、端門が閉じられ、掖門の隙間から朱洪実の騎兵が北上してくるのを知ると大いに驚き、防具を着けたうえで逃げ帰った。
- すでに僚佐は散り、牙兵も掠奪して潰走していた。従栄は妃劉氏とともに床下に隠れたが、皇城使の安従益に斬られ、子も殺された。首は宮中へ送られた。
- 孫岳は以前から内廷の密議に加わり、従栄の危険性をしばしば強く説いていたので、康義誠はこれを恨み、乱に乗じて密かに騎士に射殺させた。
- 帝は従栄の死を聞くと悲しみと驚きで失神しかけ、病はさらに重くなった。
- 従栄の幼子も宮中で養われていたが、諸将の請いでついに殺された。
- 翌日、馮道が群臣を率いて見舞うと、帝は嗚咽しながら家のことがこのようになって恥ずかしいと語った。
- 宋王従厚は天雄節度使であったが、孟漢瓊を派遣して召し寄せ、同時に漢瓊に天雄軍府の権知を命じた。
- 従栄は庶人に落とされた。
従栄の幕僚処分
- 従栄の官属をどう処罰するかで議論が起こった。馮道は、高輦・劉陟・王説ら真に親しい者だけを重く問うべきで、任賛・王居敏・司徒詡らまで一律に誅するのは不当だと主張した。
- しかし朱弘昭は、もし従栄が宮中に入っていたら彼らも従って自分たちを滅ぼしたはずだと論じ、馮贇も強く争った。
- 結果として、高輦はすでに誅され、任賛・劉瓚・魚崇遠・劉陟・司徒詡・王説ら八人は長流、李澣・江文蔚ら六人は帰農、王居敏・郭晙らは貶官となった。
- ただし、かつて六軍判官の趙遠は、従栄に対して、恭世子や戾太子の例を引いて、父子といえども権勢に頼るべきではないと諫め、怒られて外へ出されていたため、従栄敗死後には識者として名を知られた。
十一月末 明宗崩御
- 戊戌、帝は崩じた。六十を過ぎて即位し、猜疑心が少なく、人と争わず、夜ごと香を焚いて、乱世で胡人の自分が推されて帝位にあるのは本意でない、早く聖人が生まれて民の主となってほしいと天に祈っていたという。
- 在位中は豊年が比較的多く、戦争も少なく、五代の中ではおおむね小康を保ったと評される。
- 辛丑、宋王従厚が洛陽に到着した。
閩の国内混乱
- 閩主は魯国太夫人黄氏を皇太后とした。
- 閩主は鬼神を好み、巫者の盛韜らを寵愛した。薛文傑は、左右に奸臣が多いので鬼神に問い正さねば分からないと主張し、盛韜を使って占わせた。
- 文傑は呉朂を嫌っており、病中の呉朂に、君主から病状を問われても頭痛程度だと答えよと吹き込んだうえで、盛韜に「北廟崇順王が呉朂の謀反を告げた」と言わせた。
- 閩主は試しに使者を送り、呉朂が本当に頭痛と答えると、文傑に命じて逮捕・拷問させ、ついに自白させて妻子ともども誅した。
- これにより国人の憤りはますます高まった。
- 呉光は呉に援軍を求め、呉の信州刺史蔣延徽は朝命を待たず、呉光と合流して建州を攻めた。
- 閩主は呉越に救援を求めた。
十二月 喪発と閔帝即位
- 十二月癸卯、ようやく明宗の喪が発せられた。
- 宋王従厚が即位した。すなわち閔帝である。
- その後、朱洪実の妻で宮中の司衣王氏が、秦王従栄は父の病中に侍側しなかった点では罪があるが、大逆とまでは言えないと語ったことが問題視された。
- 朱洪実と康義誠はこれを帝に告げ、王氏は従栄と私通し、宮中の情報を流していたとも訴えた。
- 王淑妃も従栄に厚かったため疑われ、辛亥に王氏は死を賜った。
- 丙辰には、天雄左都押牙の宋令詢を磁州刺史に出した。朱弘昭は、帝に近く古くから信任の厚い人物を帝側から遠ざけたかったのである。
- 辛未、帝ははじめて中興殿に出御した。
- 帝は易月の制に従って短喪とし、すぐ学士を召して『貞観政要』や『太宗実録』を読ませ、治世への志を示したが、性格は寛柔で決断力に乏しかった。李愚は、帝が宰相にはあまり諮らず、自分たちの責任だけが重いことを憂えていた。
- 呉越では、判明州の錢元珦が驕慢で法を犯し、残忍な刑罰も用いたため、呉越王銭元瓘は仰仁詮を派遣して召還した。仁詮は備えもせず常服のまま乗り込んだが、元珦は震え上がって従い、杭州で幽閉された。
- 閩では福州を長楽府と改めた。
- 功臣の王仁達は言論を憚らぬ人物で、閩主は少主には御しがたいと見ていたが、ついに叛逆の罪を着せて族滅した。
- 楚では馬希範が、同日に生まれた兄馬希声への恨みを引きずり、その母袁徳妃や弟希旺を厚遇せず、希旺は憂憤のうちに死んだ。