資治通鑑後唐紀 明宗聖德和武欽孝皇帝 長興 三年 933年
秋七月 西北・湖南・蜀の動き
- 朔方から、夏州の党項が侵攻してきたが撃退し、賀蘭山まで追撃したとの報が届いた。
- 鎮海・鎮東軍節度使の銭元瓘に、中書令の官を加えた。
- 李存瓌が成都に着き、孟知祥に朝命を伝えた。孟知祥は詔を受けて謝意を示し、のちに李存瓌を帰し、謝罪と福慶公主の死去を報告して、再び朝廷に臣従する姿勢を示した。
- 湖南では、武安・静江節度使の馬希声が、長年の旱魃を諸神の加護不足と見て、南嶽以下の祠の門を閉ざさせたが、雨は降らなかった。
- 馬希声が死去すると、六軍使の袁詮・潘約らは朗州にいた馬希範を迎えて擁立した。
- 西京留守の李従珂を鳳翔節度使に任じ、武興軍を廃して、鳳・興・文三州を山南西道に復帰させた。
- 趙鳳は宰相のまま安国節度使に出された。
八月 馬希範の継承と孟知祥の体制固め
- 馬希範が長沙に到着し、位を継いだ。のちに武安節度使兼侍中に任じられた。
- 孟知祥は子の孟仁賛を行軍司馬・都総轄にして、両川の禁軍を統括させた。
- 孟知祥のもとでは、李昊が最初、諸将の名で表を作り、孟知祥を蜀王とし、五留後に節鉞を与えるよう求めようとした。しかし李昊は、封爵の軽重まで部下が左右する形はよくないと諫め、孟知祥はこれを悟って、自らの名で両川刺史以下の任命権や、五留後の節度使任命を願い出る文面に改めさせた。
- これは、安重誨がかつて両川を制御しようとして東方兵を各州に大量配置していたためで、孟知祥は遂・閬・利・夔・黔・梓などを奪った際に、三万人近い東兵を手中に収めていた。朝廷に召還されることを警戒し、その妻子の留置を願い出た。
江南・幽州・契丹情勢
- 呉では徐知誥が金陵城を増築し、周囲二十里に広げた。
- 契丹は強大化して盧龍方面をたびたび掠め、幽州周辺の交通は著しく阻害されていた。
- 趙徳鈞はまず閻溝を築いて良郷県を移し、糧道を守った。さらに州東の潞県を築いて近郊農民の耕作を回復させ、ついで東北の三河県を築いて薊州への輸送路を通じた。契丹騎兵が争いに来たが、これを撃退した。
- 九月、趙徳鈞は三河築城の完成を奏上し、辺民がこれで助かったとされた。
十月 朝廷、孟知祥に大幅譲歩
- 帝は再び李存瓌を成都へ派遣した。
- 剣南では、節度使から刺史以下までの任命を孟知祥に委ね、事後報告のみとした。朝廷は新たな任命を行わず、派遣兵の妻子を返さない点だけは保ったが、兵の召還も実際にはしなくなった。
- これは、孟知祥が事実上、両川の人事権を掌握したことを意味した。
秦王従栄の増長
- 秦王李従栄は詩作を好み、高輦ら軽薄な文士を集めて唱和し、自負心も強かった。酒宴では属官に詩を作らせ、気に入らなければ面前で破り捨てた。
- 帝はこれを戒め、荘宗のように武人が無理に詩文を弄して人の嘲笑を買うまねをしてはならぬと諭した。
- しかし従栄は、判六軍諸衛事として兵権を持ち、さらに朝政にも参与していたため、しだいに驕慢さを深めた。
- 安重誨の死後、王淑妃・孟漢瓊が帝意を伝え、范延光・趙延寿が枢密使となったが、従栄は彼らを軽んじた。
- また、異母妹の夫である石敬瑭とは不仲で、宋王従厚の評判が自分を上回ることも強く嫌った。
康澄の上書
- 前彰義節度使の李金全がたびたび馬を献じたが、帝は政治の善し悪しこそ大切で、献上ばかりに心を使うなと退けた。
- 大理少卿の康澄は上書し、怪異や童謡よりも、賢者が隠れ、民が生業を捨て、上下がなれ合い、廉恥が失われ、真偽が乱れ、直言が聞かれなくなることこそ本当に恐れるべきだと論じた。
- 帝は詔でこれを賞した。
河東節度使の人事
- 契丹の脅威が続く中、河東に誰を置くかが議論となった。
- 范延光・趙延寿らは、石敬瑭か康義誠が適任だと述べた。石敬瑭自身も外任を望んでいた。
- 帝はまず石敬瑭を命じたが、六軍副使職を解かなかったため、石敬瑭は重ねて辞した。
- その後も議論が続いたが、李崧が石敬瑭しかいないと主張し、最終的に十一月、石敬瑭を北京留守・河東節度使兼諸軍蕃漢馬歩総管とし、侍中を加えた。
- これにより、石敬瑭は河東を拠点に大きな兵権を握ることになった。
- 趙延寿には同平章事を加えた。
- 呉では徐知誥を大丞相・太師とし、徳勝節度使を兼ねさせたが、徐知誥は大丞相・太師を辞退した。
- 大同節度使の張敬達が要地に兵を集めたため、契丹は南下を断念して引き返した。
- しかし蔚州刺史の張彦超は石敬瑭と不和で、石敬瑭が総管となったのを知ると、城を挙げて契丹に降り、契丹から大同節度使に任じられた。
- 石敬瑭は晋陽に着くと、劉知遠・周瓌を都押衙とし、軍務と財政をそれぞれ委ねた。
十二月 年末の諸国
- 康義誠を河陽節度使兼侍衛親軍馬歩都指揮使とし、朱弘昭を山南東道節度使に正式任命した。
- 南漢では漢主が多くの子を王に立て、まもなく弘度を秦王に移した。