資治通鑑後唐紀 明宗聖德和武欽孝皇帝 天成 四年 929年
春正月〜二月:王都平定
- 馮贇は入朝して宣徽使となり、執政に対して「李従栄は頑迷で軽率だから、徳望ある人物を補佐に選ぶべきだ」と述べた。
- 定州では王都と托諾が包囲を破って逃れようとしたが失敗し、二月、都指揮使の馬譲能が城門を開いて官軍を迎え入れた。王都は一族とともに自焚し、托諾と契丹二千人が捕えられた。王晏球が前年四月から続けた包囲は、ここで結実した。
- 王晏球は天平節度使となり、趙徳鈞とともに侍中を加えられた。托諾は大梁で斬られた。
- 枢密使趙敬怡が死去した。
二月〜三月:洛陽還幸と王晏球の評価
- 明宗は大梁を発ち、須水を経て洛陽に帰った。途中で宰相崔協が死去した。
- 定州城下での王晏球は、日々私財で兵を饗応し、攻城から陥落まで兵卒一人たりともみだりに殺さなかった。
- 三月、王晏球が入朝すると、明宗は功績を称えたが、王晏球自身は「長く軍糧輸送を煩わせた」とだけ詫び、自功を誇らなかった。
三月:李従璨の死
- 皇子の李従璨は剛直な性格で、安重誨が権勢をふるっても屈しなかった。以前の東巡の折、皇城使だった李従璨が会節園で酒宴中に御榻へ戯れて登ったことを、安重誨は取り上げて誅殺を請い、明宗は李従璨に死を賜った。
四月:楚の政変、貨幣統制
- 横山蛮が邵州を侵したため、楚王馬殷は子の馬希声に知政事・内外諸軍総録を命じ、以後、楚の国政はまず馬希声を経てから馬殷へ上る体制となった。これは後の高郁誅殺の布石でもある。
- 鉄銭・錫銭が禁じられた。湖南では錫銭が広く用いられ、銅銭一に対して錫銭百という比率で中原へ流れ込み、法令でも抑えきれなかった。胡三省は唐以来の鉛錫銭・鉄銭取締りの沿革を引いて、禁令は以前からあるが効果が乏しいと述べる。
- 王環は石首で荆南兵を破った。
- 党項馬の取り扱いも改められ、従来のように党項が京師へ来て「進馬」と称し、多大な館穀・賜与を受ける制度は負担が大きいため、今後は辺境の市場で売買させることにした。
四月〜五月:皇子の配置換え、宰相任命
- 李従栄は河南尹・判六軍諸衛事となり、李従厚は河東節度使・北都留守となった。兄弟の任地が入れ替えられた形である。
- 契丹が雲州を侵した。
- 趙鳳は端明殿学士・兵部侍郎から門下侍郎・同平章事に進んだ。
- 太常が哀帝の諡を改めて「昭宣光烈孝皇帝」とし、廟号を景宗としようとしたが、明宗は「宗」と称するなら太廟に入れるべきで、別廟なら宗号は不適当だとして、廟号を除かせた。
五月〜六月:両川への圧力と反発
- 明宗は南郊祭祀に際し、客省使李仁矩を両川に遣わして献金を求めた。西川には百万緡、東川には五十万緡を求めたが、両者とも軍費不足を理由に辞退し、西川五十万、東川十万にとどまった。
- 李仁矩は明宗が藩鎮時代の旧臣で、安重誨の後ろ盾で驕慢だった。梓州で董璋が宴を設けても昼まで現れず、妓女と酔っていたため、董璋は怒って武装兵に驛へ踏み込ませ、「西川で李客省が斬られたことだけを聞いて、自分にはできないと思うのか」と脅した。李仁矩は命乞いして難を逃れ、董璋は後で重賂を贈って口止めしたが、李仁矩は帰朝後「董璋不法」と報告した。
- ほどなく通事舎人の李彦珣も東川へ派遣されたが、些細な無礼をとがめられて従者が拘束され、自身は逃げ帰った。董璋と朝廷の関係はさらに悪化した。
- 高季興の叛後、その子高従誨は以前から父を諫めていた。継嗣した後、唐は近く呉は遠いと判断し、楚王馬殷と山南東道節度使安元信を通じて謝罪と朝貢再開を求めた。明宗はこれを許した。
- 契丹は再び雲州を侵した。胡三省は、この頻繁な侵入を契丹主耶律徳光の西方移動傾向と関連づける。
六月〜七月:魏州復旧と荆南の帰附
- 鄴都は再び魏州と改められ、留守・皇城使の職も廃された。
- 高従誨は、自らを「前荆南行軍司馬・帰州刺史」と称して上表し、後唐への内附を求めた。七月、明宗はこれを許し、高従誨を荆南節度使兼侍中とし、荆南招討使も廃した。
八月:呉内部の対立
- 呉の武昌節度使李簡が病気を理由に江都への帰還を願ったが、采石で死去した。徐知詢は李簡の親兵二千を金陵に留め、娘婿の関係も利用してその子李彦忠を後任に推した。
- しかし徐知誥は柴再用を武昌節度使に任じたため、徐知詢は激怒し、自分の姻族すら用いられないのかと不満を露わにした。
八月〜九月:楚の高郁誅殺
- 楚では高郁が長く謀主として国政を支え、経済政策でも楚を富強にしたため、周辺諸国は皆これを憎んでいた。
- 以前、荘宗が馬希範に「馬氏は高郁に国を奪われると聞くが、このような子がいるなら高郁にも無理だ」と言って猜疑の種を蒔き、高季興も流言で高郁を離間しようとしたが、馬殷は応じなかった。
- ところが馬希声は、高季興から届いた手紙と使者の讒言、さらに親族の楊昭遂の誹謗を信じ、高郁が功名を誇り、馬氏政務は自分の手から出ると言っていると疑った。
- 馬殷は何度も「自分の功業は皆高郁の力だ」と退けたが、馬希声はなお軍権剥奪を求め、高郁は行軍司馬へ左遷された。
- 高郁は「西山に隠居する準備を急げ。狂犬の子が大きくなって人を噛むようになった」と語った。これを聞いた馬希声は激怒し、翌日、父の命と偽って高郁を府舎で殺し、一族党与も誅した。
- その日、大霧が立ちこめ、馬殷は「昔、孫儒に従って淮を渡ったころ、無辜の者を多く殺すといつもこんな異変があった。獄中に冤死者がいるのではないか」と言った。翌日、高郁の死を知らされると、胸を打って大いに慟哭し、自らももはや長くこの位にいられまいと嘆いた。胡三省は、この時点で馬殷はすでに尸位素餐となり、子を制御できなくなっていたとみる。
九月:馮道の諫言
- 明宗は馮道とくつろいで話し、ここ数年の豊作と天下の安定に触れた。馮道は、かつて中山への使途で険しい井陘では慎重に馬を操って無事だったが、平地で気を緩めた途端に落馬した経験を引き、天下治世も同様で、平穏な時ほど用心が要ると諫めた。明宗は深く納得した。
- さらに明宗が「今年は豊作だが、百姓は本当に足りているだろうか」と問うと、馮道は「農民は凶年には餓死し、豊年でも穀価が安くて苦しむ」と答え、聶夷中の詩を引いて農家の窮状を説明した。明宗はこれを喜び、その詩を書き留めさせてしばしば誦した。
九月:蜀・呉越・朔方
- 東川へ戍していた鄜州兵が帰国しようとすると、董璋は強壮な者を留め、老弱兵のみを帰し、さらに武器も取り上げた。
- 西川では、孟知祥の弟が資州税官として自ら税を盗み死罪となる事件が起きたが、孟知祥は弟であっても許さず、法を曲げなかった。
- 呉越王銭鏐は自国では尊大で、朝廷使者がへりくだれば厚く遇し、そうでなければ冷淡に扱った。安重誨宛の書状も無礼であった。使者の烏昭遇と韓玫は互いに不仲で、帰朝後、韓玫が「烏昭遇は銭鏐に臣下のように舞い、国事まで漏らした」と讒したため、安重誨は烏昭遇を死に処した。
- さらに明宗は銭鏐を太師致仕とするほか、その他の官爵を剥奪し、呉越からの進奏官・使者・輸送役人まで各地で拘禁して取り調べさせた。銭鏐の子らが弁明の上表をしても聞き入れられなかった。
- 朔方の韓洙が死ぬと、弟の韓澄が留後となっていたが、ほどなく李匡賓が保静鎮で反乱し、朔方は不安定になった。韓澄は朝廷に正式な節度使派遣を願った。
- 康福は胡語に通じ、明宗がしばしば密かに呼んで時事を問うていたが、安重誨はそれを嫌い、ついには危険な辺鎮である朔方河西節度使に任じた。明宗は別の鎮に替えようとしたが、安重誨が拒み、やむなく康福を派遣した。
- 明宗は康福に牛知柔・衛審𢯱ら一万人を付けて護送した。康福は方渠から青剛峡へ進む途中、羌胡や吐蕃野利・大虫二族を破り、威声を振るって霊州へ入り、朔方の交代を成し遂げた。
十月〜十一月:保寧軍設置、徐知詢失脚
- 閬州・果州を割いて保寧軍を置き、李仁矩を節度使とした。これは両川を牽制する意図があった。
- 西川に対しては従来から峽路へ芻糧を送らせていたが、孟知祥は「本道の兵が多く、他鎮を養う余力はない」として拒み、朝廷がたびたび督促しても、ついには従わないと奏した。
- 呉では徐知詢が金陵にあって上流の兵権を握り、徐知誥を軽んじてしばしば争った。王令謀は徐知誥に対し、「あなたは長く政務を執り、天子を奉じて令を行っている。徐知詢は若く人望も薄く、何もできない」と説いた。
- 徐知詢は弟たちにも冷淡で、皆から恨まれていた。徐玠ももはや彼を見限って徐知誥に付いた。
- 呉越王銭鏐は、龍鳳で飾った鞍勒や器物を徐知詢に贈った。天子専用にも見える意匠であったが、徐知詢は平然と用いた。胡三省は、この鈍さこそ彼の凡庸さだと示唆する。
- 周廷望は徐知詢に、江都の勲旧と結んで徐知誥に対抗すべきだと勧めたが、実際には徐知誥にも内通していた。周宗もまた徐知誥側であった。
- 徐知詢は徐知誥を徐温の喪のため金陵に呼ぼうとしたが、徐知誥は呉主の命を盾に拒んだ。周宗は周廷望に、「徐知詢には不臣の七事があると人が言う。早く入朝して謝るべきだ」と伝えさせた。これは徐知誥の策であった。
- 十一月、徐知詢は入朝し、徐知誥は彼を統軍・鎮海節度使として江都に留め、柯厚を派遣して金陵兵を引き揚げさせた。こうして徐知誥は呉政をほぼ専断するに至った。
- 徐知詢は徐知誥に、父徐温の喪にも来なかったことを非難したが、徐知誥は逆に「お前は剣を抜いて私を待ち伏せしたではないか。また天子の服御物に類する品を使っている」と責め返した。さらに周廷望が双方へ二重に通じていたことが発覚し、徐知誥はこれを斬った。
十一月〜十二月:呉の改元、申漸高の死、両川連携
- 呉主は尊号を加え、大赦して大和と改元した。
- 徐知誥は徐知詢を酒宴に招き、金鍾で酒を勧めた。徐知詢は毒を疑って器を替え、互いに分けて飲もうとしたため、場は険悪になった。そこへ伶人の申漸高が機転を利かせ、二人分の酒をまとめて飲み干してその場を収めたが、徐知誥が密かに解毒薬を送った時には間に合わず、申漸高は脳が崩れて死んだ。
- 建州を治める王延稟は病と称して退き、子の王継雄への継承を願った。朝廷はこれを認めて王継雄を建州刺史とした。王延稟は福州本家の王延鈞に逐一伺わず、独自に洛陽へ願い出ていた。
- 安重誨は、李仁矩を閬州に、綿州刺史武虔裕を軍とともに赴任させ、董璋の叛意を探らせた。仁矩はこれを誇張して報告した。さらに夏魯奇に遂州城の修築と増兵を行わせたため、董璋は強く恐れた。
- 「綿州・龍州も分割して節鎮にするらしい」という風聞まで流れ、孟知祥も不安になった。董璋はもと孟知祥と不仲だったが、この危機にあたり、成都へ使者を送って自分の子と孟知祥の娘との婚姻を求め、孟知祥はこれを許して、朝廷に対抗するために力を合わせることになった。