資治通鑑後唐紀 明宗聖德和武欽孝皇帝中之下 長興 一年 930年

春正月 両川の接近と朝廷の不安

  • 春正月、董璋は兵を出して劍門に七つの砦を築いた。
  • 辛巳、孟知祥は趙季良を梓州へ派遣し、董璋との関係修復を図った。もともと東川と西川は隣接しながら不和で、塩利をめぐる対立や言い争いもあったが、朝廷からの討伐を恐れて、ここでいったん和解に向かった。
  • 安重誨は本来なら両川の対立を利用して分断すべき立場だったが、結果として両者の結束を許してしまい、国政上の失策となった。

大銭鋳造案の却下と地方の動き

  • 鴻臚少卿郭在徽が高額面の大銭鋳造を建議したが、実態のない空論とみなされ、衛尉少卿同正へ左遷された。
  • 呉では平原王澈が徳化王に改封された。

二月 孟知祥、将兵の信頼を固める

  • 二月乙未朔、趙季良が成都に戻り、董璋は貪欲で残虐、勝ち気だが長期的計画に欠け、いずれ西川の脅威になると孟知祥に警告した。
  • 都指揮使李仁罕・張業が宴席で孟知祥を害そうとしているとの密告があったが、取り調べは不十分だった。孟知祥は発言の出所となった軍校の都延昌・王行本を腰斬にした。
  • その後、孟知祥は護衛を退けて単身で李仁罕の屋敷の宴に赴いた。李仁罕は涙ながらに忠誠を誓い、諸将もまた孟知祥に心服した。

二月 両川の上表と改元

  • 壬子、孟知祥と董璋は連名で上表し、朝廷が閬中に節度使を置き、綿州・遂州などに兵を増派したため、両川が不安に陥っていると訴えた。
  • 皇帝は詔書でこれをなだめた。
  • 乙卯、皇帝は円丘で祭祀を行い、大赦して長興と改元した。
  • 鳳翔節度使兼中書令の李從曮が入朝し、祭祀に参列した。

三月 人事異動と後宮

  • 三月壬申、李從曮は宣武節度使へ移された。
  • 癸酉、呉主は江都王璉を皇太子に立てた。
  • 丙子、宣徽使朱弘昭が鳳翔節度使となった。
  • 康福は保靜鎮を奪回して李匡賓を斬り、安義軍は旧名の昭義軍に戻された。
  • 皇帝は曹淑妃を皇后に立てようとした。本人は王徳妃に代役を勧めたが、王徳妃は中宮は皇帝に並ぶ重位で軽々しく受けられないと辞退した。庚寅、曹淑妃が皇后に立てられ、王徳妃は恭しく仕えた。
  • 王徳妃はもともと安重誨の取りなしで後宮に入った人物で、安重誨は宮中の奢侈をしばしば戒めていた。王徳妃が外庫の錦で敷物を作らせたときも強く諫め、荘宗の劉后を引いて戒めたため、王徳妃は安重誨を恨むようになった。

三月 高從誨と呉

  • 高從誨は、先祖の墳墓が中原にあり、後唐に討たれた場合に呉の援軍は間に合わないとして、呉に送っていた帰属の働きかけを撤回した。呉は兵を出して攻めたが勝てなかった。

夏四月 董璋の警戒と安重誨の権勢

  • 董璋は綿州刺史武虔裕に動向を探られるのを恐れ、甲午朔、兼行軍司馬の名目で招き寄せて東川の府廷に拘禁した。
  • 宣武節度使苻習は宿将を自負し、安重誨に対して強く発言していたため、重誨に疎まれ、丁酉に太子太師致仕とされた。
  • 戊戌、孟知祥に兼中書令、夏魯奇に同平章事が加えられた。

四月 李從珂排斥事件

  • かつて真定で、李從珂は酒席で安重誨と言い争い、酔って安重誨を殴ったことがあった。重誨はこれを根に持っていた。
  • 当時、李從珂は河中節度使同平章事だったが、安重誨はたびたび皇帝に悪く言い、ついに帝命を偽って河中牙内指揮使楊彦温に李從珂追放を命じた。
  • 戊戌、李從珂が城外で閲兵している隙に、楊彦温は兵を率いて城門を閉じ、入城を拒んだ。李從珂は虞郷に退き、使者を洛陽へ送った。
  • 壬寅、皇帝は安重誨に「楊彦温はなぜ枢密院の命令だと言うのか」と問いただした。重誨は虚言だと弁明したが、皇帝は疑い、楊彦温を絳州刺史に転出させて取り調べようとした。だが重誨は討伐を強く主張し、索自通・藥彦稠に出兵を命じさせた。
  • 皇帝は藥彦稠に楊彦温を生け捕りにして面前で訊問したいと命じ、李從珂を洛陽へ召した。李從珂は安重誨の讒言と知って急行し、自ら弁明した。
  • 辛亥、索自通らは河中を攻め落として楊彦温を斬った。癸丑、その首級が献上されると、皇帝は生け捕りにしなかったことを深く怒った。
  • 安重誨は馮道・趙鳳に李從珂処罰を奏上させようとしたが、皇帝は、我が子が奸人に陥れられたのに、なぜお前たちは真相も明らかでないのに罪を論ずるのかと叱責した。趙鳳や安重誨が後日さらに言い立てても、皇帝は聞き入れなかった。
  • 皇帝は、貧しかった昔に李從珂が馬糞拾いで家計を助けたことを回想し、天子となった今、その子を守れないのかと述べた。
  • 丙辰、索自通が河中節度使とされ、軍府の武器を調べて李從珂が私造したものだと報告したが、王徳妃のとりなしによって李從珂は大罪を免れた。
  • 士大夫の多くは李從珂を避けたが、礼部郎中・史館修撰の呂琦だけは近所に住み、しばしば往来した。李從珂は奏請のたびに呂琦に相談した。

四月~五月 加尊号と王建立退任

  • 戊午、皇帝は「聖明神武文徳恭孝皇帝」の尊号を加えた。
  • 安重誨は、昭義節度使王建立が魏州を通過した際に民心を動揺させる言葉を吐いたと訴え、五月丙寅、王建立は太傅致仕とされた。

五月~六月 蜀の塩利と軍政強化

  • 董璋は民兵を閲して髪を切らせ、顔に入れ墨を施し、さらに劍門北方に永定関を置いて烽火台を連ねた。
  • 孟知祥はたびたび上表して、雲安など十三の塩監を西川に属させ、その収益で寧江軍の屯兵を養いたいと願い、辛卯に許された。
  • 六月癸巳朔、日食があった。
  • 辛亥、防禦使・団練使・刺史・行軍司馬・節度副使は、今後すべて朝廷任命とし、諸道からの推挙を禁じた。
  • 董璋は兵を出して遂州・閬州方面の守備地を掠めた。
  • 秋七月戊辰、両川は、朝廷が遂州・閬州に兵を送り続けていることに再度抗議し、このころから東北から蜀に入る商人は激減した。

八月 安重誨讒訴事件と張延朗

  • 八月乙未、捧聖軍使李行徳と十将張儉は、辺彦温という密告者の話として、安重誨が淮南討伐の兵を起こし自ら遠征して兵権を握ろうとしていると告発した。さらに占相者による命運判断の件まで持ち出した。
  • 皇帝が安從進・藥彦稠に意見を求めると、二人はこれを勲旧を離間させる奸計だと述べ、宗族をかけて安重誨の無実を保証した。皇帝は辺彦温を斬り、安重誨を呼んで慰め、君臣ともに涙した。
  • 前忠武節度使張延朗が工部尚書・三司使となった。三司使の称がここに始まる。

八月 呉の海州事件

  • 呉では、徐知誥が海州都指揮使王伝拯に海州団練使の地位を与えると約束したが、のちに陳宣を再任して王伝拯を江都へ呼び戻した。
  • 王伝拯はこれを陳宣の讒言のせいと思い、己亥、別れの辞儀を装って陳宣を斬り、城郭を焼き払い、部下五千を率いて後唐へ逃れた。
  • 徐知誥は自分の手違いを認め、王伝拯の家族には罪を及ぼさなかった。漣水制置使王巖が海州に入って鎮撫し、威衛大将軍・知海州となった。
  • 王伝拯の叔父で光州刺史の王輿は、王伝拯からの密書を捕らえて報告し、自分も嫌疑を受けるのを恐れて辞職を願った。徐知誥はむしろその慎重さを買い、控鶴都虞候に任じた。

八月 安重誨再擁護と皇子冊立

  • 壬寅、趙鳳は近ごろ大臣を中傷して国を揺るがす者がいたのに処罰が徹底していないと奏上した。皇帝は李行徳・張儉を逮捕し、一族もろとも誅した。
  • 皇子從榮を秦王に、從厚を宋王に立てた。
  • 董璋の子・董光業は宮苑使として洛陽にいたが、父から、朝廷が自分の支配地を削り節鎮を増やしている、このままなら反乱するしかない、と脅迫的な書状を受けた。
  • 董光業はこれを李虔徽に見せ、さらに新たな増兵を止めてほしいと訴えたが、安重誨は聞き入れなかった。董璋はついに利州・閬州・遂州の三鎮を攻めると報告し、反旗を翻した。
  • 安重誨は「前からこうなると知っていた」と言ったが、皇帝は「自分は人に背かぬ。人が背くなら討つ」と応じた。

九月 両川の挙兵

  • 九月癸亥、西川の進奏官蘇愿が成都に戻り、朝廷は大軍を起こして両川討伐に向かうつもりだと孟知祥に伝えた。
  • 趙季良は、まず東川軍で遂州・閬州を奪い、ついで合流して劍門を守れば、大軍が来ても背後の憂いはないと進言した。孟知祥はこれに従い、董璋に共同挙兵を促した。
  • 董璋は利州・閬州・遂州の三鎮に檄文を送り、朝廷が両川を離間したと非難して閬州を攻撃した。
  • 庚午、孟知祥は李仁罕を行営都部署、趙廷隠を副将、張業を先鋒指揮使として三万で遂州を攻めさせ、また侯弘実・孟思恭らに四千を率いさせて董璋軍とともに閬州を攻めさせた。

九月 安重誨の失脚が始まる

  • 安重誨は長く専権を振るい、内外で憎む者が多かった。王徳妃や武徳使孟漢瓊も宮中で力を持ち、しばしば重誨の悪口を皇帝に吹き込んだ。
  • 重誨は不安から機務辞任を願い出たが、皇帝は一度は引き留めた。
  • 甲戌、重誨は面会して、寒門出身の自分がここまで引き上げられながら反逆の嫌疑を受けた以上、このままでは流言を抑えられないので一鎮を与えて余生を全うさせてほしいと重ねて願った。
  • 皇帝は怒って願いを聞き届ける姿勢を見せた。范延光は重誨を留めようとしたが、自分には代わりは務まらないと述べた。
  • 皇帝は孟漢瓊を中書に派遣して協議させた。馮道は、本当に安重誨を思うなら枢密の職を解くのがよいと言い、趙鳳は大臣の軽率な更迭に反対した。

九月 閬州陥落と姚洪の殉節

  • 東川軍が閬州に迫ると、諸将は董璋軍は以前から反乱準備を整え、金帛で士卒を懐柔しているので、軽々に戦わず持久戦で挫くべきだと言った。
  • だが李仁矩は蜀兵を弱兵と見て出戦し、接触しただけで潰走した。庚辰、閬州は陥落し、李仁矩は一族ごと殺された。
  • かつて董璋の麾下にいた姚洪が千人を率いて閬州を守っていたが、董璋の誘降の書を厠に投げ捨てた。城が落ちた後、董璋に責められても、天子に背くお前こそ恩知らずだ、自分は天子のために死ぬと罵り続けた。
  • 董璋は姚洪を残虐な方法で殺したが、姚洪は死ぬまで罵倒をやめなかった。皇帝はその二人の子を近衛に置き、家族を厚く遇した。

九月 范延光の登用と蜀討伐軍

  • 甲申、范延光が樞密使となり、安重誨はそのままの地位に留められた。
  • 丙戌、董璋の官爵を削り、討伐軍を起こす詔が下った。
  • 丁亥、孟知祥にはなお西南供饋使を兼ねさせ、董璋との分断を図ろうとした。
  • 石敬瑭が東川行営都招討使、夏魯奇が副使となった。
  • 董璋は孟思恭に集州攻撃を命じたが、軽進して敗れ、成都へ送り返され、孟知祥が罷免した。
  • 戊子、石敬瑭は権知東川事となり、庚寅には王思同が西都留守兼行営馬歩都虞候として先鋒に任じられた。

秋冬 南漢・遂州・利州方面

  • 南漢主は梁克貞・李守鄘を交州へ送り、これを落として静海節度使曲承美を捕らえ、李進を守将に置いた。
  • 十月癸巳、李仁罕は遂州を包囲した。夏魯奇は籠城し、孟知祥は高敬柔に資州の義軍二万人を率いさせ、周囲に長城を築かせた。
  • 夏魯奇配下の康文通が出戦したが、閬州陥落を聞いて李仁罕に降った。
  • 戊戌、董璋は利州を目指したが、雨で糧道が絶え、閬州に引き返した。孟知祥は、本来なら閬州を取った後すぐ利州を奪って倉庫と漫天の険を押さえるべきだったのに、董璋は遠く閬州に留まって劍閣を軽視したと惜しんだ。
  • 孟知祥は劍門守備に三千を送ろうとしたが、董璋は固辞した。これが後の失敗につながる。

十月 両浙・楚・東川の拡張

  • 錢鏐は、閩王冊命の使者裴羽が帰るのに合わせて謝罪表を託した。子の傳瓘らもたびたび上表していたため、癸卯、朝廷は両浙の綱使の行動を任意にした。
  • 丁未、董璋の子董光業は一族ごと誅殺された。
  • 楚王馬殷は病のため、子の希声に地位を譲りたいと朝廷に願い出た。朝廷は馬殷がすでに死んだと疑い、辛亥、希声を起復武安節度使兼侍中とした。
  • 孟知祥は旧蜀の張武を峽路行営招収討伐使として水軍を率い夔州へ向かわせ、袁彦超を副将とした。
  • 癸丑、東川兵は徴・合・巴・蓬・果の五州を陥れた。
  • 丙辰、呉の厳可求が死去し、徐知誥は長子景通を参政事とした。
  • 南漢の梁克貞は占城に侵入して宝貨を奪って帰った。

十一月 峡路進出と楚王の死

  • 戊辰、張武は渝州に着き、刺史張環が降った。さらに瀘州を奪い、朱偓に別働隊を率いさせて黔州・涪州方面へ進ませた。
  • 己巳、楚王馬殷が七十九歳で死去した。遺命として、諸子兄弟が順番に位を継ぐよう命じ、祠堂に剣を置いて、これに背く者は誅せよとした。
  • 諸将は国境防備を固めてから発喪しようとしたが、黄損は、君を失ってなお君がいるのだから防備優先は不要であり、近隣に告喪して嗣立を告げるだけでよいと論じた。
  • 石敬瑭の軍は散関から入り、王弘贄・馮暉・王思同・趙在礼らが人頭山の裏から劍門南側へ回り込み、劍門を急襲して攻略した。東川兵三千を殺し、都指揮使齊彦温を捕えた。
  • 甲戌、さらに劍州を破ったが、本隊が続かなかったため、家屋を焼いて資糧を奪い、劍門へ退いて守った。

十一月 孟知祥の危機と反撃準備

  • 乙亥、孟知祥の官爵も削られた。
  • 己卯、董璋から成都に急報が届き、劍門失陥を知った孟知祥は大いに驚いて、董公はやはり自分を誤らせたと言った。
  • 庚辰、李肇に五千を与えて急行させ、まず劍州を確保せよと命じた。さらに、遂州を囲む趙廷隠にも一万を率いて劍州へ合流するよう命じ、また李筠を龍州方面の要害に向かわせた。
  • 寒さの中で将兵は不安にかられて進み渋ったが、趙廷隠は、ここで敵を退けなければ妻子を失うと涙ながらに説き、兵の士気を奮い立たせた。

十一月 劍州奪回

  • このとき西川では龐福誠・謝鍠が来蘇村に駐屯していた。彼らは劍門失陥を知り、官軍がさらに劍州を得れば二蜀は危ういと判断して、千余人を間道から劍州へ急行させた。
  • 官軍一万余が北山から迫ったが、夜、龐福誠が数百を率いてその背後で大声を上げ、謝鍠が前面から短兵で急襲すると、官軍は驚いて陣を捨てて逃げ、再び劍門に籠った。
  • 孟知祥はこの知らせを聞き、もし敵が劍門突破の勢いでそのまま劍州を固守し、あるいは梓州へ直進していたら董璋は閬州を捨てて戻り、自軍も遂州包囲を解かざるを得ず、両川とも危急だったが、敵が劍州を焼いて劍門に止まったので助かったと語った。
  • 官軍は文州経由で龍州を襲おうとしたが、潘福超と沙延祚に敗れた。

十一月 峡路の進展と契丹東丹王の来奔

  • 甲申、張武は渝州で死に、袁彦超が兵を引き継いだ。
  • 朱偓が涪州に近づくと、武泰節度使楊漢賓は黔南を捨てて忠州へ逃げた。朱偓は豊都まで追ってから引き返し、涪州を占領した。孟知祥は崔善権を武泰留後とした。
  • 董璋は王暉に三千を与え、李肇らと分かれて劍州南山に屯させた。
  • 丙戌、馬希声は位を継ぎ、遺命に従って楚の建国体制をやめ、藩鎮としての旧制に戻した。
  • 同じころ、契丹の東丹王托雲(慕華)が、自らの立場を失い身の危険を感じて、部曲四十人を率いて海を渡り登州から後唐に来奔した。

十二月 劍州再戦

  • 十二月壬辰、石敬瑭が劍門に到着した。
  • 乙未、北山に進屯すると、趙廷隠は牙城後山に、李肇・王暉は河橋に陣を置いた。
  • 石敬瑭が歩兵で趙廷隠を攻めると、趙廷隠は精鋭の射手五百を退路に伏せ、敵が槍の届くところまで来てから一斉に旗鼓を上げて攻撃し、北軍は山から転げ落ちるように退却して百余人を失った。
  • ついで騎兵で河橋を衝こうとしたが、李肇が強弩で射て進ませなかった。日暮れに石敬瑭が退くと、趙廷隠は伏兵とともに追撃して再び破った。
  • 石敬瑭は劍門へ戻って屯した。

十二月 夔州・楚・蜀討伐の行き詰まり

  • 癸卯、夔州から、開州を取り返したとの報告があった。
  • 庚戌、馬希声は武安・静江節度使となり、兼中書令を加えられた。
  • 石敬瑭の蜀征伐は成果がなく、前線から来る使者は道が険しく進軍困難で、関右の民は運糧に疲れ果て、山谷へ逃げて盗賊化していると伝えた。
  • 壬子、皇帝は近臣に誰がこの難事を処理できるかと問うた。安重誨は、自分が機密を預かる者として軍威が振るわぬ責任を負うべきだとし、自ら出向いて督戦したいと願い出て許された。
  • 癸丑、重誨は西へ向かった。諸藩鎮は恐れ、物資輸送は昼夜を分かたず行われ、人馬の死が続出した。
  • しかし皇帝はすでに重誨を疎んじており、石敬瑭も本心では遠征に否定的だったため、重誨が都を離れると、蜀討伐は不可能だと繰り返し上奏した。皇帝も次第にこれをもっともと思うようになった。
  • また、先に夔州へ派遣されていた西川兵千五百人は、皇帝の命で全員帰還を許された。