資治通鑑後唐紀 莊宗光聖神閔孝皇帝 同光 二年 924年

春正月 契丹の南下と北辺への出兵

  • 幽州から、契丹軍が南下して瓦橋に至ったとの急報が入った。
  • 朝廷は李嗣源を北面行営都招討使、霍彦威を副使、李紹宏を監軍として、幽州救援の軍を発した。

租庸使人事をめぐる駆け引き

  • 孔謙は郭崇韜に対し、宰相の豆盧革は政務多忙で租庸の事務をさばききれないとして、体制変更を求めた。実際には自らが財政権を握る意図があった。
  • 豆盧革が以前に省庫の銭を便宜的に借り出していたことを孔謙が材料にし、郭崇韜もこれをほのめかして圧力をかけたため、豆盧革は郭崇韜に租庸を専管してほしいと願い出た。
  • 郭崇韜は固辞し、孔謙は金穀に通じているが、いきなり重職を与えるのは世論に合わないとして、張憲の再起用を勧めた。皇帝は張憲を召そうとし、孔謙は大いに失望した。
  • その後、孔謙は張憲の中央復帰を妨げ、王正言を租庸使に据えるよう働きかけた。王正言は判断力に乏しく、孔謙に操られやすかったためである。
  • 戊午、塩鉄・度支・戸部の三司は租庸使の管轄下に入れられ、財政権はさらに集中した。

岐王の服属と後唐の待遇

  • 岐王李茂貞は、後唐の洛陽入城を聞いて不安を強め、子の李繼曮を入貢に遣わした。
  • 李茂貞は唐末以来の古参で、李克用とも肩を並べた人物とみなされていたため、莊宗は特別に厚遇し、詔書でも名を直書せず「岐王」とのみ記した。
  • 庚戌、李繼曮に中書令を加えて帰国させた。
  • 癸丑、李茂貞はさらに正式な臣下の礼をとりたいと願い出たが、皇帝は優詔でこれを退けた。
  • 辛巳、李茂貞は秦王に進封され、やはり名を避けられ、拝礼も免除された。

宦官復活と藩鎮の不満

  • 内官は本来外地にいるべきでないとして、旧朝以来の内官・諸道監軍・私家に抱えられていた宦官をすべて都へ送るよう命じた。
  • しかし莊宗の側近にはすでに多数の宦官が集まり、厚く養われて腹心として用いられていた。
  • 天祐以来、内諸司使は士人が任じられていたが、この時期から再び宦官が用いられ、やがて諸道監軍も復活した。
  • 出征軍でも留守府でも監軍が実権を握り、節度使を軽んじて権勢を争ったため、諸藩鎮は深く反感を抱いた。

北辺の変化と新州回復

  • 契丹軍が塞外へ退くと、李嗣源軍は撤兵を命じられ、李紹欽・董璋が瓦橋の守備に当たった。
  • 李存審は契丹が去ったのち、新州を奪回したと奏上した。

皇太后の洛陽入城

  • 莊宗は弟の李存渥と皇子の李繼岌を晋陽へ送り、皇太后と太妃を迎えようとした。
  • 太妃は、陵廟の祭祀を理由に同行を断り、晋陽にとどまった。これは単なる口実ではなく、情勢を見抜いた慎重な判断でもあった。
  • 皇太后は洛陽へ向かい、庚申に河陽で皇帝の出迎えを受け、辛酉にともに洛陽へ入った。

二月 南郊と財政不信

  • 己巳朔、南郊で祭祀を行い、大赦を実施した。
  • ところが孔謙は収奪を強め、赦免で免除されたはずの徴収まで再び取り立てた。このため、以後は詔勅が出ても民衆は信用せず、怨嗟が広がった。
  • 郭崇韜は諸藩鎮からの贈賄をいったん受け取っていたが、自分の私財ではなく国家のために預かっているのだと弁明した。ただし実際には、かえって君主の好貨の悪評を助長する結果となった。

内府と外府、郊祀費用をめぐる対立

  • 宦官らは天下の財賦を、国家経費用の外府と、宴遊・恩賞用の内府に分けるよう勧め、莊宗もこれを採用した。
  • その結果、外府は常に不足し、内府には財貨が山積した。
  • 南郊の有司が労軍銭に窮すると、郭崇韜は自家から十万緡を差し出し、皇帝にも内府の財を出すよう求めた。
  • 莊宗はこれに応じず、晋陽にある蓄えを運ばせると答え、李繼韜旧邸に没収されていた金帛を充当した。
  • 軍士たちは十分な恩賞が得られなかったとして不満を強め、離反の芽が生じた。

塩利政策

  • 河中節度使李繼麟は、安邑・解県の塩を専売化して、定期的に中央へ収入を納めたいと願い出た。
  • 己卯、李繼麟は両池榷塩使を兼ねることとなった。

郭崇韜と李紹宏の軋轢

  • 郭崇韜は、李紹宏が自分に不満を抱いていることを知り、内句使を新設して天下の三司財賦文書を扱わせ、その長に李紹宏を据えて懐柔を図った。
  • しかし李紹宏の不満は解けず、州県の文書往復だけが増えて煩雑さが増した。

郭崇韜の権勢と敵の増加

  • 郭崇韜は将相の位を兼ね、節度使も帯び、門前には常に車馬があふれるほどで、天下のことを自分の責務として担っていた。
  • 性格は剛直で短気であり、寵臣や便宜を求める者をしばしば抑えつけたため、宦官や幸臣に恨まれた。
  • 宦官たちは日々皇帝の前で郭崇韜を中傷し、郭崇韜はそれを制しきれなかった。

郭崇韜の家格意識と人事方針

  • 豆盧革・韋説に家系を問われると、郭崇韜は郭子儀の一族の傍流だと自認するようになった。
  • その後、郭崇韜は名門士族を尊び、人物の家柄を選り分けて浮華な者を引き立て、勲旧を軽んじた。
  • 能力は認めながらも「門地が寒素だ」として登用を避けることもあり、宮中の寵臣からも、外の功臣からも怨まれた。

皇后冊立

  • 皇帝は劉夫人を皇后に立てたがっていたが、正妃の韓夫人が存命であり、皇太后も劉氏を嫌っていたため、実現していなかった。
  • 郭崇韜自身も以前は諫めていたが、身辺を守るには皇后の後ろ盾が必要だと側近に説かれ、方針を変えた。
  • 宰相以下百官とともに上奏し、癸未、魏国夫人劉氏が皇后に立てられた。

劉皇后の蓄財と中宮権力

  • 劉皇后は寒微の出で、后となってからは財貨を蓄えることに専心した。魏州時代には薪や野菜や果実まで売っていたほどである。
  • 即位後は四方からの貢献を、天子分と中宮分に二分して受け取り、莫大な財貨を蓄えた。
  • 皇太后の誥と皇后の教が、皇帝の制敕と並んで藩鎮で受け入れられるようになり、政治の乱れが顕著となった。

三月 蜀宮廷の弛緩

  • 己亥朔、蜀主王衍は怡神亭で近臣らと酒宴を開き、酔うと君臣も宮人も冠を脱ぎ、髪をあらわにして騒ぎ、放縦をきわめた。
  • 知制誥の李龜禎は、政治を顧みない姿勢が北方の敵を招くと諫めたが、聞き入れられなかった。

契丹再報と辺防

  • 乙巳、鎮州から契丹来襲の報があり、李紹斌・李從珂らが分道して備え、李嗣源は邢州に駐屯した。
  • 庚戌には幽州から、契丹が新城に侵入したとの報告も届いた。

高季興の進封

  • 丙午、高季興に尚書令を加え、南平王に進封した。

李存審の病と李存賢の抜擢

  • 李存審は諸将の筆頭でありながら汴州攻略の功にあずかれなかったことを悔しみ、病も重くなってたびたび入覲を請うた。
  • 郭崇韜がこれを抑えていたが、病篤くなって「生きて皇帝に会いたい」と願ったため、ようやく許可が下りた。
  • その一方で、皇帝はかつて相撲での約束を理由に、李存賢を盧龍節度使に抜擢した。重大な藩鎮が軽率に与えられたとして、政治の軽さが露呈した。

功臣層の不安

  • 伶官の讒言を恐れ、勲臣たちは皆、自分の身の安全に不安を抱いた。
  • 李嗣源も兵権の返上を願い出たが、皇帝は許さなかった。

選人・告身の整理

  • 唐末以来の混乱で家系秩序は乱れ、親族間の名分も崩れていた。
  • また官人登用でも偽滥が多かったため、郭崇韜はこれを正そうとして、吏部に厳格な考査を命じた。
  • 南郊に関わった千二百人のうち、正式に官を授けられたのはごく一部で、多くの告身が塗り消され、落選者のなかには路上で泣き叫ぶ者や宿屋で飢え死にする者まで出た。

唐陵の視察

  • 庚申、長安方面の唐室諸陵はかつて温韜に荒らされていたため、工部郎中の李途を派遣して視察させた。

四月 尊号と蜀への使者

  • 己巳朔、群臣は皇帝に「昭文睿武至德光孝皇帝」の尊号を奉った。
  • 皇帝は客省使李厳を蜀へ派遣した。李厳は後唐の威勢を誇示し、朱梁簒奪の際に諸侯が勤王しなかったことまで持ち出したため、蜀の王宗儔は無礼として斬罪を求めたが、蜀主は許さなかった。
  • 蜀では宋光葆が、後唐は必ず侵攻の意図を持つから、将兵を選び、糧を蓄え、戦艦も整えて備えるべきだと上言した。蜀主は彼を梓州観察使・武徳節度留後に任じた。

李茂貞の死

  • 庚辰、霍彦威は李紹真の名を賜った。
  • そののち、秦忠敬王李茂貞が死去し、遺表によって李繼曮が鳳翔軍府を暫定統轄した。

潞州の楊立反乱

  • 安義の牙将楊立は、旧主李繼韜に寵用されていたが、その死後も不満を抱いていた。
  • 潞州兵三千が涿州守備へ送られることになると、楊立は「朝廷は自分たちを絶塞に追いやって潞州へ戻さないつもりだ」と兵を煽動した。
  • 兵は子城東門を攻め、市中を焼掠し、節度副使李繼珂と監軍張弘祚は逃走、楊立は自ら留後を称して節鉞を求めた。
  • 朝廷は李嗣源を招討使、李紹榮を部署、張廷藴を馬歩都指揮使として討伐に当たらせた。

孔謙の貸付徴収と盧質の諫言

  • 孔謙は民に銭を貸し付け、安値で見積もった絹糸で返済させる方式をとり、州県へたびたび督促を出した。
  • 汴州を預かっていた盧質は、梁の趙巖と同じようなやり方で人々を苦しめているとして厳しく批判し、春霜で桑や農作物が損なわれた今年は、正税だけでも重いのに、さらに称貸を加えるのは耐えられないと訴えた。
  • しかし皇帝は応答しなかった。

南漢の閩侵攻失敗

  • 南漢の主は閩へ侵攻し、汀州・漳州境まで進んだが、閩人の反撃を受けて敗走した。

伶人周匝の請願

  • 胡柳の戦いで梁に捕らえられていた伶人周匝が、後唐の汴州入城後に莊宗と再会した。
  • 周匝は、自分が生き延びたのは梁の陳俊と儲徳源の助けによるものだとして、二人に州刺史を与えて報いてほしいと願った。
  • 皇帝は一度は認めたが、郭崇韜は、天下を取るのに貢献した勇士たちを差し置いて伶人関係者を先に刺史にするのは天下の心を失うと反対したため、この時点では実行されなかった。

五月 伶人関係者への州授与

  • 伶人たちの再三の願いに押され、莊宗は郭崇韜に命じて前約を果たさせた。
  • 壬寅、陳俊を景州刺史、儲徳源を憲州刺史に任じた。
  • これに対し、百戦を経ながら刺史に届かない親軍将士たちは憤った。

薛昭文の上疏

  • 乙巳、薛昭文は、僭称政権がなお各地に残っている以上、征討の備えを怠れないこと、兵士への恩賞が不足していること、河南の旧梁精鋭を手厚く慰撫すべきこと、流民対策として徭役を軽くし税を薄くすべきこと、不要な土木工事を減らすべきこと、官馬が民田を踏み荒らさぬようにすべきことを上疏した。
  • 皇帝はいずれも採用しなかった。

蜀との応酬と後唐の対蜀意識

  • 戊申、蜀主は李厳を帰国させた。
  • 李厳は、蜀では錦綺・珍品の中国流入を厳しく禁じ、粗悪品しか出さないと聞き、莊宗は蜀主王衍を侮って激怒した。
  • さらに李厳は、王衍は幼稚で放縦、政務を見ず、旧臣を退けて小人を近づけ、王宗弼・宋光嗣らが諂諛して専権し、貨財に飽くことなく、刑賞も乱れているので、大軍が来ればたちまち瓦解すると報告した。
  • 莊宗はこれを深く信じ、蜀征討への考えを強めた。

城郭修築の禁止

  • 庚戌、潞州反乱を受けて、天下の州鎮に対し城や濠を修築してはならず、防城具も破却せよと命じた。
  • 反乱防止が目的だったが、実際には根本策ではなかった。

李存審の死

  • 壬子、新たに宣武節度使兼中書令となっていた李存審が幽州で死去した。
  • 李存審は寒微から起こり、百余本の体内の鏃を子に示して、今日の栄達は命がけの戦功によるものだと戒めていた。

契丹の圧迫と幽州情勢

  • 幽州から契丹再侵攻の報があり、甲寅、李紹斌が東北面行営招討使として大軍を率い河北へ向かった。
  • 契丹軍は幽州城外にまで迫り、輸送路はしばしば掠奪された。

沙州・瓜州方面

  • 乙丑、曹義金を帰義軍節度使に正式任命した。瓜・沙一帯は吐蕃勢力と入り混じっていたが、曹義金は間道から入貢してきたためである。

六月 潞州平定

  • 李嗣源軍が潞州へ着いた日暮れ、張廷藴は百余人の壮士を率いて濠を越え、城壁をよじ登って城門を破り、夜明け前に諸軍を引き入れた。
  • 李嗣源と李紹榮が到着した時には、すでに城は落ちており、二人は手柄を奪われた形となって不快に感じた。
  • 丙寅、潞州平定が奏上され、丙子、楊立とその党は鎮国橋で磔刑に処された。
  • 城は高く深く、再反乱の温床となりうるとして、莊宗は平らにさせた。

李紹榮への寵遇と劉皇后の嫉妬

  • 丙戌、李紹榮は帰徳節度使・同平章事となり、宿衛にとどめられて格別の寵遇を受けた。
  • 皇帝はしばしば太后・皇后を伴ってその家に赴いた。
  • ある時、寵姫を李紹榮に与える流れとなり、劉皇后が強く推し進めたため、皇帝は断りきれずに黙認した。姫はその場で宮外へ出され、皇帝は嘆いて食も通らなかった。

李嗣源の新任

  • 壬辰、李嗣源は宣武節度使となり、李存審に代わって蕃漢内外馬歩総管に昇った。

七月 孔謙の台頭

  • 蜀では許寂が宰相となった。
  • 後唐では孔謙が再び王正言を郭崇韜の前で中傷し、また伶官へ賄賂して租庸使の地位を狙ったが、意のままにならず憤った。
  • 癸卯、孔謙は辞職を願い出て逆に皇帝の怒りを買い、処罰されかけたが、景進の救いで助かった。

黄河治水の失敗

  • 甲辰、梁代以来の決河で曹州・濮州が長年苦しんでいたため、婁繼英に汴・滑の兵を督して塞がせた。
  • しかし間もなく再び決壊した。

新州の軍設置と契丹の対外政策

  • 庚申、新州に威塞軍を置いた。
  • 契丹は強勢を背景に、盧文進を処遇するため幽州を割譲するよう要求した。
  • ただし契丹は背後の勃海が未服属であることを恐れ、先に勃海の遼東方面へ兵を向け、托諾・盧文進らに営平などを押さえさせて燕地をかき乱した。

八月 蜀の備戦

  • 戊辰、蜀主は王宗鍔を招討馬歩使として洋州に二十一軍を屯させた。
  • 乙亥、林思鍔を昭武節度使として利州へ送り、後唐に備えさせた。

王正言失脚、孔謙租庸使に就任

  • 王正言は中風で正気を失い、政務不能となった。
  • 景進がたびたび問題視し、癸酉、孔謙が租庸使、孔循が副使となった。孔循は旧名を趙殷衡といい、梁滅亡後に旧姓旧名へ戻していた。
  • 孔謙はこれで思うままに重税・急徴を行い、民衆を窮乏させた。
  • 癸未には「豊財贍国功臣」の号まで与えられた。

九月 何沢の諫猟

  • 己亥、李彦稠が再び蜀へ使者として到着した。
  • 癸卯、皇帝が近郊へ狩猟に出た際、たび重なる遊猟で田畑が荒らされることを憂えた洛陽令何沢が、草むらに伏して馬前で諫めた。
  • 何沢は、租税徴収が厳しいうえに収穫前の田まで踏み荒らせば、地方官も人民も立ちゆかないと訴えた。皇帝は慰めて帰した。

契丹の勃海遠征失敗

  • 契丹は勃海攻めに成功せず、引き返した。

蜀宮廷の不穏

  • 蜀の王宗儔は、蜀主の失徳を憂えて王宗弼と廃立を図ったが、王宗弼は決断できなかった。
  • 庚戌、王宗儔は憂憤のうちに死去した。
  • 王宗弼は宋光嗣・景潤澄らに対し、王宗儔が彼らを殺させようとしていたと言い放ち、彼らは泣いて謝した。
  • 王宗弼の子王承班は、自家もいずれ危ういと悟った。

十月 租庸使と節度使の権限争い

  • 辛未、李存霸・符習は、属州が節度使司を通さず、租庸使の直接命令だけで動いていると訴えた。
  • 朝廷は、従来の制度では制敕は支郡へ直下せず、進奉以外は本道経由とすべきで、租庸使の催促も観察使へ牒を送る形にせよと命じた。
  • しかし現実には施行されず、租庸使の直接支配は改まらなかった。

蜀の龍武軍創設

  • 易定から契丹侵攻の報が入る一方、蜀では王承休が精鋭一万二千を選び、左右龍武歩騎四十軍を新設するよう進言した。
  • 兵器や俸給は他軍より優遇され、王承休が都指揮使、安重霸が副となった。
  • 旧将たちは皆これを恥辱と感じた。安重霸は雲州人で、狡猾に賄賂と追従で王承休に取り入っていた。

呉越への厚遇

  • 呉越王銭鏐が再び後唐への朝貢を修めた。
  • 壬午、皇帝は梁代の官爵を踏襲してこれを認めたうえ、銭鏐が重い賄賂と引き換えに求めた金印・玉冊・国王号・不名の待遇にまで応じた。
  • 本来、玉冊は天子のみの格式であり、国王号も異民族以外には用いないのが通例だったが、莊宗は特別に許した。

呉 楊溥と徐温

  • 呉王楊溥は白沙の楼船に赴き、その地を「迎鑾鎮」と改名した。
  • 徐温が金陵から来朝すると、楊溥は「雨」を「水」と言い換えた。徐温側近の翟䖍の父名を避ける習慣が身についていたためである。
  • 楊溥は翟䖍が宮中や宗室に対して無礼で、必要物資も十分与えないと訴えた。
  • 徐温は謝罪して処断を求め、最終的に翟䖍は撫州へ流された。

十一月 蜀使来聘

  • 蜀主は欧陽彬を後唐へ派遣し、通好を求めた。
  • また李彦稠を帰国させた。

伊闕での狩猟と梁太祖墓への拝礼

  • 癸卯、皇帝は親軍を率いて伊闕へ狩猟に出た。
  • 従臣たちに梁太祖の墓を拝ませ、山険しい地を日を重ねて移動し、ときには夜に囲い込み猟を行った。
  • 士卒には崖や谷へ落ちて死傷する者が多く、皇帝が狩猟にふけって兵を顧みないことが露わになった。
  • 丙午、皇帝は還宮した。

蜀の辺備解除

  • 蜀は後唐との修好を理由に、威武城・武定・武興などの駐屯軍を次々に解いて、関宏業・劉潜らの諸軍を成都へ戻した。
  • 唐への警戒をゆるめ、辺備を自ら弱める結果となった。

李繼麟への鉄券

  • 丁巳、李繼麟に鉄券が下賜された。
  • 子の李令德・李令錫もともに節度使となり、着物を着られる年齢の子には次々と官が与えられた。列藩中でも格別の寵遇であった。

十二月 蜀の政変前夜

  • 乙丑朔、蜀主は張格を宰相に起用した。
  • 張格は以前、自分が失脚した際に中書吏王魯柔が窮地につけこんだことを恨んでおり、再登用後に王魯柔を杖殺した。
  • 許寂は、張格は才能は高いが見識が浅く、王魯柔一人を殺したことで、他人は誰も自分の身の安全を信じられなくなり、これが禍いの始まりだと評した。

蜀の軍撤収

  • 蜀主は金州駐屯軍も引き上げ、王承勲ら七軍を成都へ戻した。対唐警戒をさらに解いた形であった。

李嗣源の赴鎮と契丹備え

  • 己巳、李嗣源に宿衛兵三万七千を率いて汴州へ赴き、そのまま幽州へ向かって契丹に備えるよう命じた。

劉皇后と張全義

  • 庚午、皇帝と皇后は張全義の邸宅を訪れた。張全義は盛大に貢物を献じた。
  • 酒宴のさなか、劉皇后は幼くして父母を失ったので老人を見ると父を思うとして、張全義を父として仕えたいと願い出た。
  • 皇帝がこれを許し、張全義は固辞したが、強いられて皇后の拝礼を受け、さらに謝恩の貢献まで差し出した。
  • 翌日、趙鳳は「天下の母たる皇后が臣下を父とする前例はない」と密奏した。皇帝はその直言を評価したが、結局この関係は改められなかった。
  • 以後、皇后と張全義は日々使者を往来させて贈答した。

蜀 王承休の秦州赴任

  • 唐末の宦官全盛期でも、節度使にまでなる者はなかったが、蜀では安重霸が王承休に秦州節度使を求めるよう勧めた。
  • 王承休は、秦州には美女が多いので選んで蜀主へ献上したいと述べ、蜀主もこれを認めた。
  • 庚午、王承休は天雄節度使・魯国公となり、新設の龍武軍を牙兵として率いることになった。
  • 乙亥には徐延瓊が京城内外馬歩都指揮使となり、王宗弼を押しのけて旧将の上に立ったため、人々は不満を募らせた。

年末の北辺と蜀の改元

  • 壬午、北京から契丹が嵐州を寇したとの報があった。
  • 辛卯、蜀主は翌年の元号を咸康に改めると定めた。
  • この年、蜀では諸王の封替え・移封が行われ、宗輅・宗智・宗平は軍役を免ぜられた。