秋七月 蜀の対岐遠征体制
- 蜀の主は岐を討つため、西北面・東北面の招討使を相次いで任命し、王宗侃・劉知俊を都招討にあてた。これは岐への本格遠征の布陣である。
秋七月 晋の幽州救援増兵
- 晋王は、李嗣源・閻宝の兵だけでは契丹に対抗するには足りないとみて、さらに李存審に兵を率いさせて援軍を増した。
秋八月 蜀朝の権力争いと毛文錫失脚
- 蜀では、飛龍使の唐文扆が宮中で権勢を振るい、張格がこれに結んでいた。彼らは司徒・判枢密院事の毛文錫と対立していた。
- 毛文錫が娘の婚儀のため親族を枢密院に集め、音楽を用いたことが、事前奏聞がないとして問題視された。唐文扆はこれを機に蜀主へ讒言し、毛文錫は茂州司馬へ左遷、子の毛詢は維州へ流され、家産も没収された。
- 毛文晏も地方官へ落とされ、庾伝素も罷免された。代わって庾凝績が内枢密院の実務を握った。
秋八月 嶺南で劉巖が即位
- 清海・建武節度使の劉巖は番禺で皇帝を称し、国号を大越とした。大赦を行い、乾亨と改元した。
- 梁から来ていた趙光裔・楊洞潜・李殷衡らを宰相級に登用し、三廟を立て、祖先と父兄に追尊号を贈った。広州は興王府とされた。
契丹包囲下の幽州救援
- 契丹は幽州をほぼ二百日包囲し、城中は危機に陥っていた。李嗣源・閻宝・李存審らは易州に集結した。
- 李存審は平地での会戦は不利と考え、李嗣源は補給面からも山中を潜行して幽州へ近づく策を支持した。晋軍は大房嶺を越え、険路を進んだ。
- 幽州近くで契丹軍と遭遇すると、李嗣源父子は前衛として激戦し、契丹側に対して強硬に威嚇した上で自ら突撃し、敵将を斬った。後続もこれに続き、晋軍は包囲を突破した。
- 李存審は歩兵に木を伐らせて即席の防柵を築かせ、契丹騎兵の機動力を殺した。さらに煙塵を利用して兵数を多く見せ、後陣の歩兵を起こして敵を挟撃し、契丹軍を大破した。
- 契丹軍は北山方面へ退き、車帳・甲冑・羊馬を大量に捨てた。晋軍の捕虜・斬首は非常に多かった。李嗣源らが幽州へ入ると、周徳威は彼らと会って涙を流して喜んだ。
- その後も契丹は盧文進を幽州留後、のち盧龍節度使とし、平州を拠点に毎年のように南辺へ侵攻させた。晋軍は瓦橋から薊城へ兵糧輸送を続けたが、しばしば掠奪を受け、盧龍管内の諸州は疲弊した。
九月 後梁で劉鄩を降格
- 劉鄩が滑州から入朝すると、朝廷では河朔喪失の責任が問われ、平章事を解かれて亳州団練使へ左遷された。
冬十月 呉越王鏐に天下兵馬元帥
晋陽の張承業と晋王の衝突
- 晋王が外征を重ねる間、軍府の政務はほぼ張承業に一任されていた。張承業は農桑を奨励し、兵糧・財貨・軍馬を蓄え、租税と法令を厳格に運用して、晋陽の軍政を引き締めた。
- そのため補給は豊かだったが、晋王が賭博や伶人への下賜のために蔵金を求めても、張承業は公金流用を許さなかった。
- 酒宴の場で晋王は、子の李継岌に舞わせて、その褒美として金庫の金の一部を与えるよう迫ったが、張承業は「これは戦士を養うための金であり、私的な礼には使えない」と拒絶した。
- 晋王は怒って剣を求めたが、張承業は先王李克用の遺命を引き、「国のために死ぬなら本望だ」と泣いて諫めた。閻宝がとりなしたが、張承業は閻宝を逆に罵った。
- 曹太夫人がこれを聞いて晋王を呼びつけると、晋王は恐れて謝罪し、翌日には母とともに張承業邸を訪れて和解した。
- その後、張承業には高位高官が授けられたが、本人は受けず、終生唐の官名だけを称した。
- また張承業は、粗暴で無礼な盧質を危険視しつつも、晋王が「功業のためには賢才を包容すべきだ」と答えると、天下獲得を心配する必要はないと喜んだ。
晋王家の内廷事情
- 晋王の後宮では、韓夫人・伊夫人・劉夫人らがいたが、最も寵愛されたのは劉夫人だった。だがその出自は卑しく、父は成安の医卜の徒であった。
- 父が娘の栄達を聞いて魏宮に現れると、晋王は袁建豊に確認させた。ところが劉夫人は、ほかの夫人たちとの寵争いと門地意識から、自分の寒微な家柄を恥じ、父を偽物扱いして宮門で鞭打たせた。
閏月 越の使者が呉に即位を通告
- 劉巖は客省使の劉瑭を呉に送り、自らの即位を知らせるとともに、呉王にも帝号を称するよう勧めた。
閏月 蜀の庾凝績昇進
十一月 蜀主の郊祀
十一月以降 晋王、黄河結氷を好機として南進
- 晋王は黄河が凍ったと聞き、長年黄河が障害となって梁を攻めきれなかったが、いま天が味方したのだと考え、急ぎ魏州へ向かった。
- 梁側では賀瓌が慶州平定の功で昇進し、やがて北面行営招討使となった。
- 晋王は朝城で河氷の堅さを確かめると、歩騎を順次渡河させた。梁の守る楊劉城周辺の柵群を急攻し、次々に落としたうえで楊劉城もその日のうちに奪い、守将安彦之を捕えた。
梁帝の洛陽行幸と頓挫
- 以前から租庸使の趙巖は、皇帝が即位後まだ南郊を行っていないことを問題にし、西都洛陽で郊祀し、あわせて宣陵に拝謁すべきだと勧めていた。
- 敬翔は、近年の敗戦で公私とも困窮し、強敵も河上に迫る中で、郊祀のために賞賜をばらまくのは実害が大きいと諫めたが、帝は聞かなかった。
- 帝は洛陽へ赴き、車服や宮殿を整えさせたが、楊劉失陥の報と、晋軍が大梁へ迫ったとの流言が伝わると、随従たちは家を案じて泣き、帝も狼狽して郊祀を中止し、大梁へ逃げ帰った。
- 洛陽には張宗奭を留守として残した。
閩と南漢の婚姻
- この年、閩王王審知は子の王延鈞に、劉巖の娘を娶らせた。