正月・潁州救援
- 正月、梁は宣武節度使袁象先に潁州救援を命じた。袁象先が到着すると、吳軍は包囲を解いて引き揚げた。
二月・黎陽攻防
- 二月甲申、晋王は黎陽を攻め、劉鄩がこれを防いだ。数日攻めても落ちず、晋王は兵を退いた。
二月・新州で反乱、盧文進が契丹へ奔る
- 晋王の弟で威塞軍防禦使の李存矩は新州にあったが、驕慢で政務を怠り、侍婢にまで政事を任せた。
- さらに山北の部落や劉守光の旧兵を募って南征軍を増強しようとし、民に馬の供出を強いて、十牛を売って一馬を買うような苦境に追い込んだ。辺民の怨嗟は強かった。
- 李存矩は五百騎を自ら送ることにし、寿州刺史盧文進を副将としたが、行軍中も兵をいたわらなかった。
- 甲午、祁溝関に至ると、小校宮彦璋が、主君は遠征で兵を死地に送りながら何ら配慮しない、いっそ李存矩を殺して盧文進を擁立し新州へ帰ろうと兵に呼びかけた。兵はこれに応じ、翌朝まだ寝ていた李存矩を殺した。
- 盧文進は抑えきれず、新州へ戻ろうとしたが、守将楊全章が拒んだため、武州を攻めた。李嗣肱がこれを破り、周德威も追討兵を出したが、盧文進はついに契丹へ奔った。
- 晋王は李存矩の不徳が乱の原因だとして、侍婢と幕僚数人を殺した。
渝関防備の弛緩と契丹の南侵基盤
- 幽州の北七百里に渝関があり、東北へ海沿いに細い道が続き、その狭隘部には八つの防禦軍が置かれていた。平時の租税は守備兵の糧食となり、幽州からも絹や綿が送られて兵衣を支えた。
- 契丹が来れば早めに収穫し、野を空しくし、堅壁して去るのを待ち、退くところを隘路で邀撃するのが旧来の策であった。兵は自耕の田園を持ち、功あれば勲賞を受けたので、よく戦った。
- ところが周德威は勇を恃み、辺備を修めず、しかも幽州旧将で名望ある者を多く殺したため、ついに渝関の要害を失い、契丹は営州・平州の間で自在に牧畜するようになった。
猛火油と舒嚕后の献策
- 吳王は契丹主に「猛火油」を贈り、これで城楼を焼けば水をかけても火はかえって盛んになると教えた。
- 契丹主は喜び、三万騎を選んで幽州攻略を図ったが、舒嚕后は、油を試すためだけに一国を攻めるのかと笑い、城を樹木にたとえて、皮を剥ぐように四野を掠めて食を断てば数年で自滅すると説いた。軽挙して敗れれば中国に笑われ、部落も離反すると警告した。
- 契丹主はこの意見を入れ、即時の大挙攻城を取りやめた。
三月・新州陥落と幽州包囲
- 三月、盧文進は契丹軍を率いて新州を急攻し、刺史安金全は守れずに逃れた。盧文進は部将劉殷を刺史として置いた。
- 晋王は周德威に河東・鎮・定の兵を合わせて攻めさせたが、十日攻めても新州を落とせなかった。
- 契丹主は三十万を率いて救援に現れ、周德威は寡兵のため大敗し、退却した。
- 楚王馬殷の弟・馬存は吳の上高を攻め、捕虜を得て帰った。
- 契丹は勢いに乗って幽州を包囲した。号して百万人、氊車と毳幕が山野を覆った。
- 盧文進は契丹に地道を教え、四面から昼夜を分かたず攻めさせた。城中は穴に火を入れて迎撃し、また土山を築かれると銅を熔かして注ぎ、日ごとに千人単位で敵を殺したが、攻勢は衰えなかった。
晋王、幽州救援を決断
- 周德威は間使を遣わして急を告げた。晋王は梁と河上で対陣中であり、兵を割けば不足し、放置すれば幽州喪失の恐れがあるため諸将に相談した。
- 李存審・閻寶は、契丹は輜重を持たず長くは留まれないので、食い詰めて退くのを待って追撃すべきだとした。
- しかし李嗣源は、周德威は社稷の臣であり、幽州が朝夕に危うい以上、内部で変が起こる恐れもある、待つ余裕はないとして、自ら先鋒を願い出た。
- 晋王はこれを採り、即日治兵し、四月、李嗣源を前軍として淶水へ進め、閻寶が鎮・定兵で続いた。
吳の鎮海軍、治所を昇州へ移す
- 吳の昇州刺史徐知誥は、城郭や官舎を大いに整備していた。
- 五月、徐温が巡属を視察して昇州の繁栄を気に入り、陳彦謙の勧めもあって、鎮海軍の治所を潤州から昇州へ移した。
- 徐知誥は宣州への転出を望んだが許されず、潤州団練使に回された。当初は不満だったが、宋齊丘が、徐知訓は驕慢でいずれ失脚する、潤州は広陵と一水を隔てるだけで好機だと説き、徐知誥も喜んで赴任した。
- 徐温は陳彦謙を鎮海節度判官とし、大綱だけを自ら握り、細務はほとんど彼に委ねた。そのため江淮一帯はよく治まったと評された。
荆南と梁の関係改善