正月・梁の人事
- 正月、宣武節度使で守中書令の王全昱が死去した。
- 帝は前河南府参軍の李愚が学識と操行にすぐれると聞いて召し、左拾遺・崇政院直学士とした。
- 衡王友諒は尊貴をもって振る舞い、李振らも彼に拝礼したが、李愚だけは長揖した。帝が非礼を咎めると、李愚は、陛下が家人の礼で兄に接するのはよいが、自分には私的な主従関係がない以上、むやみに屈するわけにいかぬと答えた。結局、その剛直さゆえに久しくして鄧州観察判官へ退けられた。
二月・吳の内乱平定
- 蜀主は李繼崇を武泰節度使兼中書令・隴西王とした。
- 二月辛丑夜、吳の宿衛将馬謙・李球が吳王を脅かして兵庫を開かせ、徐知訓討伐の兵を起こした。
- 徐知訓は一時逃げ出そうとしたが、厳可求が、主将が先に衆を見捨てれば誰が頼るのかと諫め、さらに自ら平然と寝て見せたため、府中はようやく落ち着いた。
- 壬寅、馬謙らは天興門外に陣したが、潤州から戻った朱瑾は一目見て恐るるに足らぬと判断し、外の兵に向かって大声で一喝すると、反乱兵は総崩れとなった。馬謙・李球は捕えられて斬られた。
二月から三月・魏州決戦と劉鄩大敗
- 梁帝がしきりに出戦を促しても劉鄩は動かず、晋王は李存審を莘西の営に残し、自らは貝州へ赴いて張源德攻囲の軍を労した。そして表向きには晋陽へ帰ると触れ回った。
- 劉鄩はこれを好機と見て魏州襲撃を奏請し、帝も国運を賭ける一戦としてこれを許した。楊延直も一万人で合流した。
- しかし楊延直は夜半に魏州城南へ着きながら不意を戒めず、城中から選ばれた壮士五百の奇襲を受けて潰走した。
- 翌朝、劉鄩は莘県から全軍を率いて城東に出た。李存審は後方から、李嗣源は城中から、晋王は貝州から到着して前面に立ち、梁軍は故元城西で四方から挟まれた。
- 晋王と李存審は方陣、劉鄩は円陣を取り、激戦の末に梁軍は大敗した。劉鄩は数十騎で辛うじて脱出したが、歩兵七万は河辺でほとんど殺されるか溺死した。
梁の晋陽奇襲と失敗
- 匡国節度使王檀はひそかに関西諸鎮の兵を発し、陰地関を出て晋陽を急襲すべきだと奏し、帝は河中・陝・同・華などの兵三万を与えた。
- 王檀は不意に晋陽城下へ至り、昼夜兼行で激しく攻めた。城中は無備で、役人や工匠、市民まで城上に立って防戦し、城は幾度も陥ちかけた。
- 張承業が恐れる中、代北の旧将安金全が出て、家国のために戦うと申し出て武具を受け、夜に子弟や退役将家の者数百を率いて北門から出撃し、羊馬城内で梁軍を撃退した。
- さらに昭義の李嗣昭が石君立に五百騎を率いさせ、上党を朝発してその日の夕に晋陽へ着かせた。梁兵が汾河橋を塞いでいたが、石君立はこれを破って入城し、「昭義侍中の大軍が来た」と大呼して士気を奮い立たせた。
- 夜半、安金全らと諸門から打って出たため、梁兵は大きく損害を受け、翌朝、王檀は掠奪して退いた。
- ただし晋王は、自分の立てた計ではなかったこともあって安金全らへの賞を実行しなかったとされる。
- また、梁軍が晋陽を攻めた際、大同節度使賀德倫の配下に逃亡者が多く出たため、張承業は変乱を恐れて賀德倫を斬った。
三月から四月・晋、衛州・磁州・洺州を取る
- 帝は劉鄩の敗戦と王檀の失敗を聞き、「もはや事は去った」と嘆いた。
- 三月乙卯朔、晋王は衛州を攻め、壬戌に刺史米昭が降伏した。
- 続いて惠州を攻め、刺史靳紹は逃走して捕えられ、斬られた。晋は惠州を旧名の磁州に戻した。
- 晋王は魏州へ帰還した。梁帝は劉鄩をしばしば召したが応じないため、己巳に宣義節度使として黎陽に駐屯させた。
- 四月、晋軍は洺州も奪い、袁建豐を洺州刺史に任じた。
四月・李霸の乱
- 劉鄩敗北後、河南では将卒の動揺が広がった。帝は捉生都指揮使李霸に千人を率いさせ楊劉へ送った。
- ところが癸卯、李霸は大梁の宋門から出たその日の夕方、水門から再び入城し、大声を上げて放火・掠奪し、建国門を攻めた。
- 帝は城楼に登って防戦した。龍驤四軍都指揮使杜晏球は毬場に五百騎を置いていたが、賊が油をかけた長木を掲げて楼門を焼こうとするのを見て、敵に甲冑がないことを見抜き、騎兵を出して決死戦を挑んだ。
- やがて賊は潰走し、帝が誰が主犯か問うと、杜晏球は李霸の一都だけが乱れたのであり、他の軍は動いていないと答えた。
- 杜晏球は夜明けまでに討平すると請け合い、その言葉どおり乱兵を族滅し、その功で単州刺史に昇進した。
五月から六月・吳越と晋の動き
- 五月、吳越王銭鏐は安撫判官皮光業を、建・汀・虔・郴・潭・岳・荆南の道を経て梁へ朝貢させた。皮光業は皮日休の子である。
- 六月、晋軍は邢州を攻め、梁は捉生都指揮使張温に五百を与えて救援させたが、張温はそのまま晋に降った。
七月・吳越王加号
- 七月甲寅朔、晋王は魏州に到着した。
- 梁帝は、銭鏐が遠道の貢献を尽くしたことを嘉して、壬戌に諸道兵馬元帥の号を加えた。
- しかし朝議では、銭鏐の入貢は交易の利益を求めての面が大きく、重い名器を軽々しく授けるべきでないという反対も多かった。翰林学士竇夢徴は詔勅文を持ちながら泣いて抗議し、そのため蓬萊尉へ左遷された。
八月・潤州の乱
- 甲子、吳の潤州牙将周郊が乱を起こして府に入り、大将秦師権らを殺したが、陳祐らがこれを討って斬った。
- 丁酉、梁では致仕していた趙光逢を再び司空兼門下侍郎同平章事として起用した。
八月から九月・蜀の大軍侵岐と晋の邢州攻略
- 丙午、蜀主は王宗綰・王宗翰・王宗壽に十万、王宗播・劉知俊・王宗儔・唐文裔に十二万を与え、鳳州・秦州の両方面から岐を討たせた。
- 晋王は自ら邢州を攻めた。昭德節度使張筠は相州を棄てて逃げ、晋は再び相州を天雄軍に属させ、李嗣源を刺史とした。
- 晋王は閻寶に、相州がすでに抜かれたこと、張温の援軍も晋に降ったことを知らせたうえで、城下にも張温を見せて降伏を促した。閻寶はこれに応じて城を挙げて降り、晋王は彼を東南面招討使・天平節度使同平章事に任じた。
- 李存審は安国節度使として邢州に鎮した。以後、邢州の軍号は保義から安国に改められたとみられる。
契丹の南侵と河北の帰属
- 契丹主安巴堅は諸部三十万を率いて麟・勝方面から晋の蔚州を攻め、李嗣本を捕虜にしたと記されるが、地理・官制上は朔州の誤りではないかとの考証がある。
- 契丹はさらに雲州を攻め、大同防禦使李存璋がこれを拒んだ。
- 九月、晋王は晋陽へ帰還した。晋王は河北を経略していても、しばしば晋陽へ帰って曹夫人を省みた。
- 晋軍が滄州を圧迫すると、順化節度使戴思遠は東都へ逃れ、将の毛璋が城を守って晋に降った。
- 晋王は李嗣源に滄州鎮撫を命じ、のち李存審を横海節度使として滄州に移し、李嗣源を安国節度使とした。李嗣源は安重誨を中門使にし、腹心として政務を任せた。
- 晋王は自ら兵を率いて雲州救援に向かったが、代州に着くころには契丹が退いていたため、自軍も引き返し、李存璋を大同節度使とした。
貝州陥落
- 晋軍は貝州を一年以上包囲した。張源德は河北の諸州が皆晋に帰したのを見て降伏を考えたが、部下は困窮してからの降伏では死を免れないと恐れ、彼を殺してなお抗戦した。
- 城中は食い尽くして人肉を糧とするほど窮し、ついに「武装したまま降り、あとで武装解除させてほしい」と晋軍に求めた。晋将は承諾し、三千人が甲冑を着けたまま出てきたが、武装を解くや四方から包囲して皆殺しにした。
- 晋王は毛璋を貝州刺史に任じた。これで河北はほぼ晋の手に入り、梁側は黎陽を残すのみとなった。
南方と蜀・梁
- 吳の光州将王言が刺史載肇を殺したため、吳王は李厚に討たせた。廬州観察使張崇は命を待たず兵を進め、王言は城を棄てて逃げたので、李厚が光州を預かった。
- 庚申、蜀では新宮が旧宮の北に完成した。
- 己卯、天平節度使王檀は、多くの盗賊を親兵として抱えていたが、その盗賊に襲われて殺された。副使裴彦が討って軍府を安定させた。
- 十月、蜀の王宗綰らは大散関を出て岐兵を大破し、宝雞を取った。王宗播らは故関を出て隴州へ進み、李繼岌は猜疑を恐れて二万を率いて蜀軍に降った。
- 劉知俊も王宗綰らとともに鳳翔を囲んだが、岐兵は出ず、大雪により蜀主は撤兵を命じた。李繼岌は桑弘志の旧姓名に戻された。
- 丁酉、梁は礼部侍郎鄭珏を中書侍郎同平章事に任じた。
- 己亥、蜀は大赦した。
- 晋王は吳に使者を送って共同で梁を撃とうとした。
- 十一月、吳は徐知訓を淮北行営都招討使とし、朱瑾らとともに宋州・亳州方面へ進ませ、晋と呼応させた。吳軍は淮を渡って潁州を包囲した。
- 十二月戊申、蜀は大赦し、翌年を天漢と改元し、国号を大漢とした。
- 楚王馬殷は晋王の河北平定を聞き、使者を送って通好し、晋王もこれに応じた。
- この年、慶州が岐に叛き、李繼陟がこれを拠したため、梁は賀瓌を西面行営馬歩都指揮使として討たせ、岐兵を破って寧州・衍州を奪った。
- また、河東監軍張承業は一族に厳しく、盗殺を犯した甥を即座に斬った。晋王に推挙された甥の張瓘にも厳命し、そのため張瓘は赴任先で不法を働かなかった。
- 吳越の銭伝珦が閩に婚姻を結び、両国は友好関係を深めた。閩では鉛銭が鋳造され、銅銭とともに流通した。
契丹の皇帝即位と韓延徽
- 劉守光の末年、幽州の人々はその苛政を逃れて多く契丹に帰し、さらに守光が包囲された際、北辺の士民も契丹に連れ去られて、その勢力は日増しに強まった。
- 契丹の安巴堅は自ら皇帝を称し、国人は天皇王と呼び、妻の舒嚕氏を皇后とし、百官を置いた。この年、年号を神冊とした。
- 舒嚕后は勇断と権略に富み、黄頭・錫伯・二室韋が契丹の留守を襲ったときも、自ら兵を整えて大破した。母や姑にも拝礼せず、「自分が拝するのは天だけだ」と言ったという。
- 晋王は河北経略のため契丹との同盟を欲し、安巴堅を叔父、舒嚕后を叔母の礼で遇した。
- 劉守光は衰亡のころ、韓延徽を契丹へ救援使に送った。契丹主は当初その不拝に怒って牧馬をさせたが、舒嚕后は節を守る賢者だとして推挙し、契丹主も才能を認めて謀主とした。
- 韓延徽は契丹に、牙府・城郭・市里の制度を整え、漢人を定住させ、農耕させることを教え、契丹の国家形成に大きく貢献した。
- いったん晋陽へ逃れた際には王緘の讒言を恐れて留まらず、母に会った後で再び契丹に戻った。契丹主はこれを大いに喜び、のちに宰相・中書令にまで任じた。
- 韓延徽は晋王に書を送り、自分が北へ戻った理由を釈明し、老母を託した。結果として、同光年間を通じて契丹が深く南侵しなかったのは延徽の力だと評される。