正月・蜀、蠻俘を受けて大赦
- 正月己亥、蜀主は得賢門に出て南詔・黎雅蛮の捕虜を受け、大赦を行った。
- もともと黎州・雅州の西方では、劉昌嗣・郝玄鑑・楊師泰らの諸酋が唐に内属して官爵を受け、「㚋金堡三王」と呼ばれていたが、ひそかに南詔と通じ、偵察や道案内をしていた。
- これまで蜀の鎮守は文臣が多く、事情を知っても強く問いただせなかったが、蜀主は軍機漏洩の罪で成都で彼らを斬り、㚋金堡を破却した。以後、南詔は再び辺境を侵さなくなった。
二月・徐州陥落
- 牛存節らは彭城を陥とし、王殷は一族とともに自焚した。
三月・魏博分割策とその反発
- 三月丁卯、宰相趙光逢は太子太保として致仕した。
- 天雄節度使楊師厚が死ぬと、梁帝は表向きには厚く遇していたものの、内心ではその専横を恐れており、死を聞いて宮中でひそかに賀を受けた。
- 租庸使趙巖と判官邵贊は、魏博は唐以来二百余年にわたり朝廷を悩ませてきた強大な藩鎮であり、いまこそ六州を二鎮に分けて弱体化すべきだと進言した。
- 帝はこれを容れ、賀德倫を天雄節度使とし、相州に昭德軍を新設して澶州・衛州をこれに属させ、張筠をその節度使に任じた。
- さらに魏州の将士と府庫の半分を相州へ分けるよう命じ、劉鄩に六万を率いて白馬から河を渡らせた。名目は鎮・定討伐であったが、実際には魏博を威圧するためであった。
- しかし魏博の兵は何世代にもわたり父子相承で結びつき、相州への分割移駐を極度に嫌った。応じる兵は皆、営中で嘆き悲しみ、泣き合った。
三月末から四月・魏州兵の反乱
- 己丑、劉鄩が南楽に駐屯し、その前に王彦章が龍驤五百騎で魏州に入って金波亭に置かれた。
- 魏兵は、朝廷は自軍の強盛を憎み、策略で自分たちを分散・消耗させようとしているのだと憤った。その夜、ついに軍乱が起こり、放火・掠奪ののち金波亭を包囲した。王彦章は門を破って脱出した。
- 翌朝、乱兵は牙城に入り、賀德倫の親兵五百を殺し、賀德倫を楼上に押し込めた。
- 效節軍校の張彦が刀を抜いて掠奪を止め、自らの一党を率いて秩序回復に当たった。
四月・張彦、晋に援軍を求める
- 梁帝は扈異を遣わして魏軍をなだめ、張彦に刺史を約したが、張彦はまず相・澶・衛三州を旧来どおり天雄に戻すことを求めた。
- 扈異は、張彦は扱いやすいので劉鄩に圧力をかけさせれば首を取れると報じた。帝は譲歩せず、優詔を送るのみとした。
- 張彦は再度の使者が来ると詔書を地に投げ捨て、朝廷を激しく罵ったうえ、賀德倫に対して「外援がなければ独立できない」と説き、晋へ援軍を求める書状を書かせた。
岐・梁・吳の動き
- 李繼徽の養子の保衡は李彦魯を殺し、自ら静難留後を称して邠・寧二州を挙げて梁に降った。梁は保衡を感化節度使に、霍彦威を静難節度使に任じた。
- 吳では徐温がその子徐知訓を淮南行軍副使・内外馬歩諸軍副使に任じた。のちの驕横の伏線となる人事である。
五月・晋王、魏博に介入
- 晋王は賀德倫の書を受けると、李存審を趙州から進ませて臨清を押さえた。劉鄩は洹水に屯し、賀德倫は再び晋へ急報した。
- 晋王は黄澤嶺を越えて東下し、李存審と臨清で合流したが、魏人の真意を疑ってすぐには進まなかった。
- そのとき賀德倫の判官司空頲が犒軍に来て、張彦は凶猾であり、乱を絶つにはまず張彦を除くべきだと密かに進言した。
五月・張彦誅殺
- 晋王が永済へ進むと、張彦は銀槍效節五百を選んで武装したまま自衛しつつ謁見した。
- 晋王は驛楼に登って張彦を責め、主帥を脅かし百姓を虐げた罪を挙げ、今回は土地目当てではなく魏人安撫のために来たのだから、功があっても赦せないとして、張彦とその党七人を斬った。
- そのうえで残兵には、罪は八人に止めると告げ、今後は自らの爪牙となれと諭したので、軍中はみな服従した。
- 翌日、晋王は軽装で進み、張彦の兵を武装させたまま左右に従え、彼らを帳前銀槍都とした。これにより魏人の心は大きく晋に傾いた。
五月から六月・劉鄩と晋軍の対峙
- 劉鄩は晋軍接近を聞き、一万余を率いて洹水から魏県へ向かった。晋王は李存審を臨清に残し、史建瑭を魏県に置いてこれを防がせ、自らも親軍で魏県へ赴いて漳河を挟んで劉鄩と対峙した。
- 梁帝は魏博の離反を聞いて大いに後悔し、牛存節を楊劉に置いて劉鄩を援けさせたが、牛存節は病没し、王檀がその任を継いだ。
- 岐王は劉知俊に邠州を囲ませたが、霍彦威は固守して応戦した。
六月・晋王、天雄を兼領
- 庚寅朔、賀德倫が将吏を率いて晋王に城中への入府と慰労を請い、さらに印と節を差し出して天雄軍兼領を願った。
- 晋王は当初辞退したが、賀德倫が、軍中は張彦の乱で心腹も紀綱も失われ、自分には衆を統べる力がないと泣訴したため、ついに受けた。
- こうして賀德倫らは晋王を「賀王」として拝し、晋王は承制によって賀德倫を大同節度使に移した。ただし晋陽に着くと張承業が彼を留め、辺鎮に実権を持たせなかった。
魏州の粛清と司空頲の処刑
- 銀槍效節都はなお驕横であったため、晋王は流言・朋党・暴掠を禁じ、沁州刺史李存進を天雄都巡按使に任じた。
- 李存進は、群衆を惑わす者や一銭以上を強奪した者さえ厳罰にし、市でさらし首にしたため、十日ほどで魏州は粛然となった。
- 晋王が征討に多く出るあいだ、魏州の政務は判官司空頲に委ねられたが、司空頲は才を頼み、怨みを必ず報い、賄賂を受けて驕奢であった。
- 司空頲がひそかに河南にいる一族を呼び寄せようとしたことが発覚すると、晋王はこれを軍門で族誅し、王正言を後任とした。
- 魏州孔目吏の孔謙は、会計と徴発に長じていたため晋王に抜擢され、軍需を支えたが、苛斂誅求で六州の民に怨みを蓄積させることにもなった。
貝州攻略の布石
- 張彦が魏博を晋へ帰属させたのちも、貝州刺史張源德は従わず、北は滄州・德州と結び、南は劉鄩と通じて晋に対抗し、しばしば鎮・定への糧道を断った。
- 先に貝州を攻めるべきだという意見もあったが、晋王は、貝州は堅固で容易に落ちず、まず無備の德州を奪えば滄州と貝州の連絡を断てると判断した。
- そこで騎兵五百を昼夜兼行で德州に奇襲させ、刺史を城外へ追って徳州を奪い、馮通を刺史に任じた。
七月・澶州攻略と晋王の危機
- 七月、晋軍は夜襲で澶州を陥とした。刺史王彦章は劉鄩の営中にいたため、その妻子が晋の手に落ちた。晋は厚遇して寝返りを誘ったが、王彦章は使者を斬り、晋はその家族を皆殺しにした。
- 晋王は李巖を澶州刺史にした。
- 晋王が魏県で軍を慰労したのち、百余騎で河沿いに進んで劉鄩の営を偵察したところ、劉鄩は河の屈曲部の林間に伏兵五千を置いており、突如これを発して晋王を幾重にも包囲した。
- 晋王は自ら馬を躍らせて突破し、夏魯奇らも短兵で奮戦して申の刻まで戦い抜いた。七騎を失ったが、李存審の救援でかろうじて脱した。夏魯奇は百余人を斬り、全身に傷を負ったため、晋王はますます彼を愛し、李紹奇の名を賜った。
劉鄩、晋陽奇襲に失敗
- 劉鄩は、晋の主力は皆魏州にあるので晋陽は手薄だと見て、密かに黄澤西方へ兵を退かせ、晋陽を襲おうとした。
- 晋側は当初その静けさを怪しみ、再度偵察してようやく、城上に見えた人影や旗は藁人形と驢馬による偽装だったと知った。
- 晋王は劉鄩が奇襲には長じるが決戦には弱いと見抜き、急いで騎兵を追わせた。
- しかし長雨で黄澤道は泥深く、士卒は腹痛と足の腫れに苦しみ、多くが病死した。先行した李嗣恩が晋陽に入って守りを固めたため、劉鄩は楽平まで来て兵糧が尽き、晋に備えがあることと追兵の接近を知って撤退した。
- 劉鄩は軍を励まして下山し、邢州の陳宋口から漳水を越えて宗城へ東進したが、往復の疲労で軍馬の半数近くを失った。
周德威、臨清を先取
- 劉鄩は臨清の蓄積を奪って晋軍の補給を断とうとした。
- 周德威は急追し、南宮に至ると梁軍の斥候を捕えて腕を断ち、「周侍中はすでに臨清を押さえた」と伝えさせた。
- 劉鄩は大いに驚いた。周德威はそのまま梁営をかすめて臨清へ入り、劉鄩は貝州へ退いた。
- このころ晋王は博州に出ており、劉鄩は堂邑、ついで莘県へ移って防御を固めた。莘から河に至る甬道を築き、河向こうから補給を通じさせた。
- 晋王は莘の西三十里に営し、互いに日に何度も戦った。
李紹榮・高行周
- 晋王は元行欽の勇健を愛し、李嗣源から求めて麾下に入れ、散員都部署とし、李紹榮の名を与えた。
- 紹榮が顔に矢傷を受けて危うくなった際には、高行周が救い出した。晋王は続けて高行周も引き抜こうとしたが、高行周は、自分を育てた代州刺史に背けないとして辞退した。
八月・梁軍の劣勢
- 絳州刺史尹皓は晋の隰州・慈州を攻めたが、いずれも落とせなかった。
- 王檀と賀瓌は澶州を奪還し、李巖を捕えて東都へ送った。梁帝は楊延直を澶州刺史とし、一万人を率いて劉鄩を助けさせ、あわせて魏人の離反を誘わせた。
- 晋王は李存審に五千を与えて貝州を攻めさせた。張源德の兵は毎夜略奪を繰り返したため、州民は城を囲んで耕作の安全を保ってほしいと願い出た。李存審は八県から人夫を集め、塹壕で貝州を囲んだ。
劉鄩への非難と敗戦
- 莘に長くとどまった劉鄩は補給不足に悩まされ、晋軍がたびたび寨下まで来て挑戦しても出撃しなかった。晋軍は甬道を断ち、寨木を切り払って梁軍を動揺させ、捕虜を得て引き揚げた。
- 梁帝は、兵糧を浪費し戦わずにいるとして劉鄩を責めた。劉鄩は、もとは奇兵で晋の腹心を突くつもりだったが、長雨や兵糧不足、周德威の急来などで計画が崩れたと弁明した。
- 帝がなお決戦策を求めると、劉鄩は「一人に十斛の米を与えてくれれば賊を破れる」と持久戦を主張したため、帝は激怒した。
- 中使が督戦に来たため、劉鄩はやむなく諸将に決戦を問うたが、内心では主君は暗く、臣下はへつらい、将兵は驕り怠るとして、破滅を予感していた。
- 劉鄩はのち、河水を一器ずつ諸将の前に置いて、これ一つすら飲み尽くせないのに、大河のごとき晋軍をどうして簡単に尽くせようかと諭したが、将兵の意気はすでに衰えていた。
- その後、劉鄩は一万余で鎮・定兵を衝こうとしたが、李存審の騎兵二千と李建及の銀槍千人に横撃され、大敗して寨へ逃げ込んだ。晋軍は寨下まで追撃し、多数を斬獲した。
南方諸国の動き
- 劉巖は楚から妻を迎え、楚王馬殷は弟の馬存を送って護送させた。
- 乙未、蜀は王宗綰・王宗播・王宗瑤・王宗翰をそれぞれ秦州・鳳州攻略に向かわせた。
- 庚戌、吳は徐温を管内水陸馬歩諸軍都指揮使・両浙都招討使とし、潤州に鎮させた。昇・潤・常・宣・歙・池の六州をその巡属とし、軍国の重要事は従来通り彼が関与した。徐知訓は広陵に残って政務を執った。
九月から十月・梁朝の内紛
- 帝は即位前から張歸霸の娘を妃としていたが、後位を辞退していた。その妃が九月壬午に病重くなり、徳妃と冊立されたその夜に没した。
- 康王友敬は重瞳を持つことから自ら帝相があると思い込み、反乱を企てた。
- 十月辛亥夜、徳妃の葬送に乗じて友敬の腹心数人が寝殿に潜んだが、帝はこれに気づき、裸足で垣を越えて脱出し、宿衛兵を呼んで殿中を捜索、発見した者を手ずから斬った。
- 壬子、友敬は捕えられて誅された。
- 以後、帝は宗室を疑い、趙巖や徳妃の兄弟・従兄弟たちを近臣として重用し、出兵のたびに監軍として付けた。彼らは権勢を笠に着て売官や裁判介入を行い、旧来の将相を離間したため、敬翔・李振らの意見は通らなくなり、政事は大いに乱れた。
十一月から十二月・蜀の火災と西北戦線
- 劉鄩は兵卒を偽降させて晋王の膳夫を買収し、毒殺を図ったが、発覚して犯人と党与五人が誅された。
- 十一月己未夜、蜀宮で火災が起こり、成都奪取以来百尺楼に蓄えていた宝貨はことごとく焼失した。王宗侃らは救火のため兵を率いて入ろうとしたが、蜀主は変乱を恐れて門を閉ざして入れなかった。
- 翌朝になっても火は収まらず、蜀主は義興門に出て群臣に会い、太廟の神主を集めて都城を巡らせるよう命じた後、また宮中へ戻って門を閉ざした。
- 乙丑、梁ではこの年の改元を行った。
- 己巳以後、蜀の王宗翰・王宗綰らは青泥嶺・金沙谷方面で岐軍と戦い、成州・階州・秦州を相次いで奪った。秦州節度使李繼崇は降伏し、王宗綰は王宗儔を留後に置いた。
- 劉知俊は邠州の霍彦威を半年囲んでも落とせず、さらに秦州が蜀へ降ったと聞き、妻子も成都に移されていたことから身の危険を感じ、夜に親兵七十人で鳳翔を脱出して蜀軍に奔った。
- 癸未、蜀は鳳州も奪い、秦・鳳・成の三州を手に入れた。
十二月・岐の温韜降梁と嶺南の離反
- 岐の義勝節度使李彦韜は岐王の衰えを見て、耀州・鼎州を挙げて梁に降った。梁はその姓を温氏に復し、名を昭図と改め、静勝軍節度使として旧任のまま用いた。
- 丁未、蜀は翌年の年号を通正とし、鳳州に武興軍を置いて文州・興州を属させた。
- この年、清海・建武節度使の劉巖は、自分はなお南平王にとどまり、吳越王銭鏐のみが国王とされていることを不満とし、南越王への冊封と都統号を求めたが、梁帝は許さなかった。
- 劉巖は、中原は大乱中で誰が真の天子かわからぬのに、遠路はるばる偽朝に仕える必要はないと語り、以後、梁への朝貢を絶った。