正月・趙王との会見と劉守光父子の処刑
- 春正月戊戌朔、趙王王鎔は晋王の陣所に赴いて賀を述べ、宴席を設けた。王鎔は劉仁恭に会いたいと望み、晋王は劉仁恭・劉守光父子の枷を外して宴に同席させ、衣服・鞍馬・酒食まで贈った。
- 己亥、晋王は王鎔と行唐西方で狩りをし、王鎔は国境まで送って別れた。
- 壬子、晋王は劉仁恭父子を縛して凱旋し、晋陽へ入った。
- 丙辰、晋王は二人を太廟に献じたのち、自ら劉守光を斬った。劉守光は降伏しなかったのは李小喜のせいだと責任転嫁したが、李小喜はかえって彼の非道を面罵したため、先に処刑された。
- 劉守光は騎射の才を理由に助命を乞うたが、その妻の李氏・祝氏が恥じて潔く死を勧めた。一方の劉守光は最期まで泣き叫び、命乞いをやめなかった。
- 晋王は盧汝弼らに命じて劉仁恭を代州へ護送させ、先王の墓にその心血を供えてから斬首した。
晋王、尚書令となる
- ある者が趙王王鎔に対し、いま王鎔が称している尚書令は本来梁の官であり、梁と敵対する以上はふさわしくないうえ、唐太宗以後は誰も軽々しく名乗らぬ重職だと説いた。そして、盟主である晋王へ譲るよう勧めた。
- 王鎔はこれをよしとし、王處直とともに使者を出して晋王を尚書令に推した。晋王は三度辞退したのち受け入れ、唐太宗の先例にならって開府し、行臺を置いた。
蜀と荆南の戦い
- 高季昌は、蜀の夔・万・忠・涪の四州は本来荆南の旧領だとして兵を起こし、まず水軍で夔州を攻めた。
- 当時、鎮江節度使兼侍中の嘉王王宗壽が忠州を鎮し、夔州刺史王成先が甲冑の支給を請うたが、王宗壽は白布の袍しか与えなかった。王成先はそれでも出撃した。
- 高季昌は火船で蜀の浮橋を焼こうとしたが、張武が鉄索でこれを防いだ。しかも風向きが変わったため、火船は逆に荆南軍自身を焼き、多くが焼死・溺死した。
- 高季昌自身の戦艦も飛石を受けて破損し、小舟に乗り換えて逃走した。荆南軍は大敗し、五千級を失った。
- 王成先はひそかに王宗壽の怠慢を奏上したが、王宗壽はそれを知って王成先を殺した。
梁の人事と吳・楚の動き
- 梁では岐の侵攻がたびたびあったため、二月、感化節度使康懷英を永平節度使として長安に移した。康懷英は、帝の諱を避けて名を改めた人物である。
- 四月、蜀主は鎮江軍の治所を夔州に移した。
- 同月、梁の宰相于兢は、私情による軍校の昇進に関わった罪で罷免され、さらに萊州司馬に左遷された。
- 吳では袁州刺史劉崇景が楚に降った。楚は許貞に一万人を与えて救援させ、吳は都指揮使柴再用・米志誠らに討伐を命じた。
- 同じころ、楚の岳州刺史許德勲は水軍で国境を巡視していたが、部下の王環が夜半に黄州へ奇襲をかけ、縄梯子で登城して州署へ突入し、刺史馬鄴を捕え、大掠奪をして引き揚げた。鄂州で迎撃されるおそれがあったが、王環は逆に旗鼓を整えて進み、鄂州側を恐れさせた。
夏から秋・韓遜の死と袁州平定
- 五月、朔方節度使兼中書令の韓遜が没し、軍中は子の韓洙を留後に推した。朝廷もこれを認めて節度使とした。
- 吳の柴再用らは万勝岡で劉崇景・許貞を大破し、二人は袁州を捨てて逃れた。
七月・晋の邢州侵攻と撤退
- 晋王は幽州を平定したのち、河北からさらに梁への侵攻を図った。七月、趙王王鎔・周德威と趙州南で会し、邢州へ進撃した。李嗣昭も昭義軍を率いて合流した。
- 梁では楊師厚が漳水東岸に駐屯して救援した。晋軍が張公橋まで進むと、裨将の曹進金が梁から晋へ降ったが、その後晋軍は退き、諸鎮の兵もそれぞれ帰還した。
- 八月、晋王は晋陽へ戻った。
蜀の内政と南征中止
- 蜀の武泰節度使王宗訓は黔州で貪暴のふるまいが多く、勝手に成都へ戻って蜀主に多くを要求し、言葉も不遜であったため、蜀主は衛士に命じて撲殺させた。
- 戊子、蜀は内樞密使潘峭を武泰節度使・同平章事とし、毛文錫を礼部尚書・判樞密院とした。
- 峽江上流の堰を切って江陵を水攻めにすべきだという意見が出たが、毛文錫は、高季昌が服属しなくとも民に罪はなく、徳で天下を懐柔すべきだとして諫めた。蜀主はこれを聞き入れた。
徐州をめぐる梁と吳の戦い
- 梁帝は福王友璋を武寧節度使に任じたが、前任の王殷は友珪に立てられた人物で、交代を恐れて受任を拒み、吳に降った。
- 九月、梁は牛存節・劉鄩に命じて王殷を討たせ、十月には宿州に進駐させた。これは徐州を直接攻めるより、埇橋の要地を押さえて吳の援軍を断つ狙いだった。
- 吳の朱瑾らが救援に来たが、牛存節らに撃破されて引き返した。
蜀と南詔の戦い
- 十一月乙巳、南詔が黎州へ侵攻した。蜀主は夔王宗範・王宗播・嘉王宗壽に討伐を命じた。
- 丙辰、蜀軍は潘倉嶂で南詔軍を破り、酋長趙嵯政らを斬った。壬戌には山口城でも破り、十二月乙亥には武侯嶺の十三寨を落とした。
- 辛巳には大渡河でも大勝し、数万を捕虜・斬首とした。南詔軍は争って渡河しようとして橋が絶え、さらに数万人が溺死した。
- 蜀軍は浮橋を作って大渡河を渡り追撃しようとしたが、蜀主は深入りを避けて撤兵を命じた。
蜀の対岐戦と李繼徽の死
- 癸未、蜀の王宗鐸は興州から岐の階州と固鎮を攻め、細沙など十一寨を破って四千級を斬った。
- 甲申には王宗儼も長城関など四寨を破り、二千級を斬った。
- 一方、岐の静難節度使李繼徽は、その子李彦魯に毒殺され、李彦魯が留後を称した。