資治通鑑唐紀 昭宗聖穆景文孝皇帝 天祐 元年 904年

正月:崔胤失脚と誅殺

  • 春正月、朱全忠は密表を送り、司徒兼侍中・判六軍十二衛事・塩鉄転運使・判度支の崔胤が専権して国を乱し、君臣を離間しているとして、その党与の鄭元規・陳班らとともに誅すべきだと訴えた。
  • 乙巳、詔により崔胤は太子少傅へ左遷され、分司となり、鄭元規は循州司戸、陳班は溱州司戸に貶された。
  • 丙午、崔胤らの罪状が布告され、裴枢が左三軍事・塩鉄転運使、独孤損が右三軍事・判度支を兼ねた。
  • 崔胤が募った兵はすべて解散させられた。
  • 兵部尚書崔遠と、翰林学士柳璨がそろって同平章事となった。柳璨は柳公綽の一族である。
  • 戊申、朱全忠はひそかに朱友諒へ命じて兵で崔胤邸を包囲し、崔胤・鄭元規・陳班およびその親しい者数人を殺した。

崔胤誅殺の意味

  • 崔胤には国家を危うくした責任はあったが、もとより唐を滅ぼそうとしたわけではなく、宦官除去のために朱全忠を招いたところ、かえって朱全忠の兵勢を強大にしてしまった。
  • その後は朱全忠の簒奪を恐れ、自らも詭計で対抗しようとして失敗したのであり、唐室の崩壊に深く関わった人物ではあるが、その動機自体を単純に逆臣と断じるべきではない。

遷都計画の現実化

  • 昭宗がかつて華州にいた頃から、朱全忠はたびたび洛陽遷都を求めていた。天子は許さなかったが、朱全忠は常に張全義に東都の宮室修築を命じていた。
  • かつて邠州を攻めた際、朱全忠は静難節度使楊崇本の妻子を河中に質として置き、その妻を私したうえで返したため、楊崇本は激怒した。
  • 楊崇本は李茂貞に「唐室が滅びようとしているのに、どうして黙って見ていられるのか」と訴え、再び本姓に復して李繼徽と名乗り、李茂貞とともに兵を合わせて京畿を圧迫した。
  • 己酉、朱全忠は河中へ出兵した。

延喜楼の詔と長安追放

  • 丁巳、昭宗が延喜楼に出御すると、朱全忠は寇彦卿に表を奉らせ、邠州・鳳翔の兵が畿内を脅かしているので、洛陽遷都を願うとした。
  • 天子が楼を下りると、裴枢はすでに朱全忠の文書を受け取り、百官に東行を急がせていた。
  • 戊午、士民は泣き叫びながら追い立てられ、道には「崔胤が朱温を呼び込んで社稷を覆し、我らを流離させた」と罵る声が満ちた。
  • 老幼が連なって東へ向かうさまは一月余りも絶えなかった。

長安出発と宮室破壊

  • 壬戌、車駕は長安を発した。
  • 朱全忠は張廷範を御営使として行幸一行を統轄させた。
  • さらに長安の宮室・官署・民家を打ち壊して材木を取り、渭水から黄河へ浮かべて東へ運び、洛陽再建に使わせた。長安はこれ以後、廃墟となっていった。
  • 河南・河北の諸鎮から数万の工匠が徴発され、張全義が東都宮室修築の責任を負った。
  • 江・浙・湖・嶺で朱全忠に従う諸鎮も、財貨を送ってこれを助けた。

華州・陝州への道

  • 甲子、車駕が華州に至ると、民は道の両側で万歳を叫んだ。昭宗は泣いて「万歳と呼ぶな、朕はもうお前たちの主ではない」と言い、興徳宮に宿った。
  • また側近に向かって、寒さに凍える雀に「なぜ自分の生まれた楽しい土地へ飛び去らないのか」と言う俗語を引き、自らも漂泊してどこへ落ち着くかわからぬと嘆き、涙を流した。
  • 二月乙亥、車駕は陝州に至った。東都の宮室がまだ完成していなかったため、しばらくここに留まった。

陝州での屈辱

  • 丙子、朱全忠は河中から来朝し、昭宗は寝殿に引き入れて何皇后にも会わせた。
  • 皇后は泣いて、「今後は天子も私も、身の安全を全忠に委ねるほかない」と言った。
  • 甲申、皇子禎を端王、祈を豊王、福を和王、禧を登王、祐を嘉王に立てた。

王建への密詔

  • 昭宗は間使を立てて王建に手書きの御札を送り、難を告げた。
  • 王建は邛州刺史王宗祐を北路行営指揮使として出し、鳳翔兵と合流して天子を迎えようとしたが、興平で汴軍に阻まれて引き返した。
  • これを機に王建は、以後は自ら墨書の制書で官を授けるようになり、「車駕が長安へ戻った後に奏聞する」と称した。中央権威からの離脱がさらに進んだのである。

三月:朱全忠、禁衛を掌握

  • 丁未、朱全忠は左右神策および六軍諸衛の事務を兼判することとなった。禁衛の名義上の統轄権もほぼ彼の手に入った。
  • 癸丑、朱全忠は陝州の私第で酒宴を設け、昭宗を招いた。君主を臣下の私邸に招くという異例の事態である。
  • 乙卯、朱全忠は先に洛陽へ向かうと辞去した。天子は群臣退出後も、忠武節度使韓建とともに朱全忠を引き留めて飲ませた。皇后も自ら玉杯を捧げた。
  • このとき晋国夫人可証が昭宗に耳打ちし、韓建が朱全忠の足を踏んだ。朱全忠は自分を陥れる合図ではないかと疑い、酒を飲まず、酔ったふりで退出した。

軍号・節度使の再編

  • 朱全忠は、長安を佑国軍とし、韓建を佑国節度使にした。
  • 鄭州刺史劉知俊は匡国節度使となった。

諸鎮への救援要請

  • 丁巳、昭宗は再び間使を送り、王建・楊行密・李克用らへ絹詔を伝え、諸藩の長を糾合して自分を救い、唐室を回復するよう求めた。
  • 詔には、洛陽に至れば幽閉され、詔勅はすべて朱全忠の手から出て、自分の意志は二度と伝わらなくなると記されていた。
  • しかし各地の勢力がこれにどう応じるかは鈍く、多くは情勢を見守るばかりであった。

淮南と鄂岳戦線

  • 楊行密は銭伝璙とその妻、顧全武を銭塘へ帰した。
  • さらに李神福を鄂岳招討使として再び杜洪攻めに向かわせた。
  • 朱全忠は楊行密に使者を送り、鄂州・岳州方面を捨てて旧好を修めようと誘った。
  • 楊行密は、天子が長安に戻ったなら兵を収めて和を結ぼうと返答したが、実際にはその志は領土拡張にあり、ここで本気で停戦する気はなかった。

四月:洛陽行の強行

  • 四月辛巳、朱全忠は洛陽宮室が完成したとして、車駕の早発をしきりに求めた。
  • 昭宗は宮人を派遣して、皇后が出産直後で旅に耐えられないので十月まで待ってほしいと伝えた。
  • しかし朱全忠は、昭宗が諸道の救援を待って逡巡しているのではないかと疑い、激怒した。牙将寇彦卿に対し、「すぐ陝州へ行き、その日のうちに出発を促せ」と命じた。

閏月:陝州出発と側近殺害

  • 閏月丁酉、車駕は陝州を発した。
  • 壬寅、朱全忠は新安で迎えた。
  • 昭宗が陝州にいたころ、司天監は星の気に変異があり、今秋は東行に不利と奏していた。そのため昭宗は本来十月の洛陽入りを望んでいた。
  • 朱全忠は、医官許昭遠に告発させる形で、医官使閻祐之・司天監王墀・内都知韋周・晋国夫人可証らが元帥暗殺を謀っているとし、皆捕えて殺した。

六軍旧臣の抹殺

  • 癸卯、昭宗は穀水に憩った。このとき昭宗に従っていた旧禁軍は、撃毬供奉・内園小児など二百余人しか残っていなかった。
  • 朱全忠はなお彼らを恐れ、帳幕で食事を与えるふりをして、全員を絞め殺した。
  • あらかじめ体格の似た二百余人を選び、その衣服を着せて護衛に見せかけたため、昭宗は数日経ってようやく真相を悟った。
  • 以後、昭宗の身辺の職掌や使令はすべて朱全忠の人間に置き換えられた。

洛陽到着と改元

  • 甲辰、車駕は穀水を発して洛陽宮へ入り、正殿で朝賀を受けた。
  • 乙巳、光政門に御し、大赦して改元し、天祐とした。
  • さらに陝州を興唐府と改め、李茂貞・楊崇本討伐を命じた。

内廷機構の整理

  • 戊申、内諸司は宣徽など九使のみを残し、ほかは停止・廃止された。以後、内夫人を使職に充てることもしないとした。
  • 蔣玄暉は宣徽南院使兼枢密使、王殷は宣徽北院使兼皇城使、張廷範は金吾将軍兼街使、韋震は河南尹兼六軍諸衛副使となった。
  • また、朱友恭を左龍武統軍、氏叔琮を右龍武統軍として宿衛を総べさせた。いずれも朱全忠の腹心である。

五月:朱全忠の権威拡大

  • 癸丑、張全義が天平節度使となった。
  • 乙卯、朱全忠は護国・宣武・宣義・忠武の四鎮節度使を兼ねた。もとは天平も兼ねていたが、洛陽遷都後の功績によって張全義に天平を譲り、そのぶん忠武を加えた形である。
  • 銭鏐は呉越王への進封を求めたが、朝廷は許さなかった。朱全忠が執政に働きかけた結果、越王から呉王へ改封された。
  • 魏博はあらためて天雄軍と改称され、癸亥、天雄節度使の羅紹威は鄴王に進められた。