資治通鑑唐紀 昭宗聖穆景文孝皇帝 光化 三年 780年

春正月・二月の人事と各地の動き

  • 春正月、宣州の将・康儒が睦州を攻めたが、銭鏐は従弟の銶を派遣してこれを防がせた。
  • 二月、朝廷は西川節度使の王建に中書令を兼ねさせ、威武節度使の王審知には同平章事を加えた。
  • また、吏部尚書の崔𦙍が同平章事となり、清海節度使を兼ねることになった。
  • 李克用は朱全忠の圧迫を恐れて晋陽の城郭と濠を大規模に修築しようとしたが、配下の劉延業が「攻勢を示すべきで、防備にこもれば威信を損なう」と諫めたため、李克用はこれを受け入れ、褒賞を与えた。

朱全忠の北方出兵と劉仁恭救援戦

  • 夏四月、定難軍節度使の李承慶に同平章事が加えられた。
  • 朱全忠は葛従周に兗・鄆・滑・魏の四鎮の兵十万を率いさせ、幽州の劉仁恭を攻撃させた。
  • 五月、汴軍は徳州を攻略して刺史傅公和を斬り、その後滄州で劉守文を包囲した。
  • 劉仁恭は再び河東に援軍を求め、李克用は周徳威に五千騎を与えて黄沢から出し、邢州・洺州方面を攻撃して圧力を分散させた。
  • このころ邕州では軍が反乱を起こして節度使李鐬を追放したが、李鐬は近隣の兵を借りて鎮圧した。

六月・崔𦙍と宦官対立の激化

  • 六月、東川節度使の王宗滌にも同平章事が加えられた。
  • 宰相王摶は当時としては思慮があり、宦官の専横を急に除くべきではないと説いた。まず天下の乱を鎮め、時を見て漸進的にその勢力を削ぐべきだという意見であった。
  • しかし、崔𦙍はこれを宦官側に通じる発言として昭宗に讒言した。さらに、広州へ赴任する途中で朱全忠に書を送り、王摶の発言を伝えて攻撃材料とした。
  • 朱全忠は崔𦙍を中央から離すべきでないと上表を重ね、王摶と宦官が結託していると非難した。昭宗は事情を察していたが、朱全忠の圧力に抗しきれず、湖南に到った崔𦙍を呼び戻した。
  • 丁卯、崔𦙍は再び宰相となり、王摶は罷免された。続いて王摶は左遷を重ねられ、宋道弼・景務修も流罪とされ、同日に自尽を命じられた。王摶は藍田駅で、宋道弼と景務修は長安近郊の駅で死んだ。
  • ここに崔𦙍は朝政を専断するようになり、その威勢は内外に震えた。宦官たちは激しく憤り、以後の大乱の伏線となった。

乾寧軍・老鵶堤の戦い

  • 劉仁恭は幽州兵五万を率いて滄州救援に向かい、乾寧軍に駐屯した。
  • 葛従周は張存敬・氏叔琮に滄州方面を守らせ、自ら精兵で老鵶堤に進み、劉仁恭軍を大破した。三万級を斬り、劉仁恭は瓦橋へ逃れた。

七月・八月 河東軍の洺州攻防

  • 秋七月、李克用はさらに都指揮使李嗣昭に五万の兵を与え、邢州・洺州方面を攻めさせて劉仁恭を援けた。李嗣昭は内丘で汴軍を破った。
  • 王鎔は幽州と汴州の和解を図り、また長雨のため汴軍の行動も難しくなったので、朱全忠は葛従周を呼び戻した。
  • 庚戌、昭義留後の孟遷が節度使となった。
  • 甲寅、西川節度使王建は東川・武信の両道都指揮制置等使を兼ね、東川方面にも発言権を強めた。
  • 八月、李嗣昭は沙門河でも汴軍を破り、続いて洺州を攻め落とし、刺史朱紹宗を捕えた。
  • 一方、睦州を攻めていた康儒は兵糧が尽き、清溪から撤退して帰還した。

九月 朱全忠の反撃と洺州奪回

  • 九月、葛従周は鄴県から漳水を渡って黄龍鎮に陣し、朱全忠自身も中軍三万を率いて洺水を渡った。
  • 李嗣昭は洺州城を捨てて退却し、葛従周は青山口に伏兵を置いてこれを撃破した。河東軍は大敗して撤退した。

朝廷人事と徐彦若の外任

  • 崔𦙍は自分より上位にある徐彦若を嫌い、徐彦若もまた自ら外任を求めた。
  • 当時、藩鎮の多くは強臣の支配下にあったが、嗣薛王李知柔だけは広州にあったため、その地への赴任を求めた。乙巳、徐彦若は同平章事のまま清海節度使となった。
  • 丙午、中書侍郎兼吏部尚書の崔遠が罷められ、裴贄が宰相となった。裴贄は裴坦の一族である。
  • 桂管は静江軍に昇格し、経略使劉士政が節度使となった。

朱全忠の鎮州遠征と周式の説得

  • 朱全忠は、王鎔が李克用と通じているとして成徳軍を攻めた。臨城に迫り、滹沱を越えて鎮州南門を攻め、外郭を焼いた。
  • 王鎔は恐れて判官周式を派遣し、和を請うた。朱全忠は怒っていたが、周式は「王鎔が河東と結ぶのは百姓を守るためであり、もし貴公が真に害を除くなら天下は帰服する。だが威力だけでは鎮州は落としがたい」と説いた。
  • 朱全忠はこれを聞いて態度を和らげ、鎮州に使者を送った。王鎔は子の昭祚や将家の子弟を人質に出し、絹二十万を軍に与えた。朱全忠は軍を引き、さらに娘を昭祚に嫁がせた。
  • 成徳の判官張沢は、河北諸鎮をまとめて河東を牽制すべきだと王鎔に進言した。王鎔は再び周式を派遣して朱全忠を説き、朱全忠は喜んで張存敬に魏博兵を合わせ、劉仁恭攻めに向かわせた。

十月 河北諸州の攻略

  • 冬十月、張存敬は瀛州を攻め落とし、ついで景州を攻略して刺史劉仁霸を捕えた。
  • その後、莫州も落とした。

湖南の桂州攻略

  • 静江節度使劉士政は、馬殷が嶺北を平定したと聞いて恐れ、副使陳可璠を全義嶺に屯させた。
  • 馬殷は和好を求めたが、陳可璠はこれを拒んだため、馬殷は秦彦暉・李瓊らに七千兵を与えて桂州方面へ進めた。
  • 劉士政はさらに王建武を秦城に置いたが、地元民は陳可璠が耕牛を奪って軍用にしたことを恨み、湖南軍の道案内を申し出た。
  • 李瓊は小道を夜襲し、秦城に忍び入って王建武を生け捕りにした。その証拠を示して陳可璠軍を動揺させた上で攻撃し、陳可璠を捕えてその兵二千を皆殺しにした。
  • さらに桂州に迫ると、周辺の砦は次々に崩れ、数日の包囲で劉士政は降伏した。
  • 桂・宜・巖・柳・象の五州は湖南に降った。馬殷は李瓊を桂州刺史とし、ほどなく静江節度使に推挙した。

易定方面の戦い

  • 張存敬は劉仁恭の地で二十城を落とし、瓦橋から幽州へ向かおうとしたが、道がぬかるんで進めなかったため、西へ転じて易定を攻めた。
  • 辛巳、祁州を落として刺史楊約を殺した。
  • 癸未、朱友謙が保義節度使となった。これは朱全忠の意向による。
  • 張存敬はさらに定州を攻め、義武節度使王郜は王処直に迎撃を命じた。王処直は城近くに柵を築いて敵の疲弊を待とうとしたが、孔目官梁汶は「兵力差から見て怯える必要はない」と主張した。
  • これに従って沙河で出撃したが、易定軍は大敗し、王郜は晋陽へ逃れた。軍中では王処直が留後に推された。
  • 張存敬が定州を囲み、朱全忠も到着すると、王処直は自軍の忠誠と河東との縁故を説明し、今後は改めると述べた。朱全忠は定州の堅固さを見て和議を受け入れ、梁汶を処罰させ、絹帛十万を受け取って撤兵した。王処直の節鉞も申請してやった。
  • 劉仁恭は子の守光に定州救援を命じたが、朱全忠は張存敬に奇襲させ、六万余を殺した。これにより河北諸鎮はみな朱全忠に服したとみなされた。

河東の南下と河陽・懐州方面

  • これより前、王郜が河東に救援を求めていたため、李克用は李嗣昭に歩騎三万を与えて太行を下らせ、懐州を攻め落とさせた。
  • 続いて河陽を攻めると、留後侯言は不意を突かれて混乱し、李嗣昭は外郭の羊馬城を壊した。
  • しかし、佑国軍将閻宝が援軍として現れ、壕外で力戦したため、河東軍は退いた。閻宝は鄆州の人である。

十一月 劉季述らの宮廷クーデター

  • 宋道弼・景務修の死後、宦官たちはいっそう危機感を募らせた。昭宗は華州から帰還後、気分が晴れず、酒色にふけり、怒りっぽくなっていたため、側近も不安を強めた。
  • 左軍中尉劉季述、右軍中尉王仲先、枢密使王彦範・薛斉偓らは、「皇帝は軽率で変わりやすく、南司を重んじて自分たちがいずれ滅ぼされる」と考え、太子を立てて昭宗を太上皇にすえる計画を立てた。岐・華の兵を後ろ盾にしようという構想であった。
  • 十一月、昭宗が苑中で酒に酔って帰り、黄門や侍女を自ら殺したことを口実に、劉季述は中書に入り、宮中の異変を確認すると、すぐ千人の禁兵を率いて宮門を破って入った。
  • 庚寅、百官を脅して連名の上表を作らせ、太子の監国を求めさせた。崔𦙍も逆らえず署名した。
  • その後、劉季述・王仲先は兵を率いて昭宗のいる殿へ乱入し、皇后の懇願を受けながらも、昭宗に退位同然の処置を迫った。皇后はやむなく伝国宝を渡し、昭宗と皇后は少陽院へ移された。
  • 劉季述は昭宗の過失を並べ立てて侮辱し、門を鎖し、食事は壁に穴をあけて渡すだけにした。紙筆も与えず、武器どころか針刀すら入れさせなかった。冬の寒さの中、后妃・公主たちは衣類や寝具にも困り、泣き声が外に聞こえた。
  • 劉季述らは偽詔を出して太子監国を命じ、ついで太子を即位させた。名も改めさせ、少陽院は「問安宮」と呼ばれるようになった。
  • 劉季述は百官・将士に恩賞を乱発し、睦王倚を殺し、昭宗に寵愛されていた宮人・僧道・方士まで次々と殺した。司天監胡秀林も危うく殺されそうになったが、その正論に劉季述がたじろいで中止した。
  • 崔𦙍の殺害も企てたが、朱全忠を憚って度支・塩鉄・転運使を解いただけで済ませた。
  • 張濬は長水で張全義と会い、クーデター鎮圧を勧めた。進士李愚も韓建に書を送り、勤王の兵を挙げるよう強く訴えたが、韓建は用いなかった。
  • 一方、朱全忠は定州行営で変を聞き、南へ引き返した。

十二月 朱全忠の決断と都への策動

  • 十二月、朱全忠が大梁へ帰着すると、劉季述は養子希度を送り、「唐の社稷を差し出す」と持ちかけた。また供奉官李奉本に太上皇誥を持たせた。
  • 朱全忠は当初、藩鎮が朝廷の大事に介入すべきか迷ったが、李振が「王室の危機は覇者の資であり、幼主が定着すれば権はすべて宦官に帰す」と説いた。
  • 朱全忠はここで決意し、希度と李奉本を拘束し、李振や蔣玄暉を長安に往復させて、崔𦙍と秘密裏に復位計画を進めた。

年末の諸事

  • 清海節度使の薛王李知柔が死去した。
  • この年、楊行密には侍中が加えられた。
  • 睦州刺史陳晟が死に、弟の陳詢が刺史を称した。
  • 太子即位後しばらく、藩鎮からの表はあまり届かなかった。
  • 王仲先は左右軍の不正蓄財を厳しく摘発し、兵士からも怨まれていた。
  • 左神策指揮使の孫徳昭は廃立に怒りを抱いており、崔𦙍の判官石戩を通じて通じ合った。孫徳昭は董彦弼・周承誨とも結び、除夜に安福門外で兵を伏せて決行することになった。