資治通鑑唐紀七十五 昭宗聖穆景文孝皇帝上之中 景福二年 二年 893年
正月・各地の戦事
- 正月、時溥は兵を出して宿州を攻めたが、宿州刺史の郭言が戦死した。
- 東川留後の顧彦暉は王建と以前から対立していたが、李茂貞はこれを取り込もうとして、節鉞の再授与を朝廷に求めた。
- 朝廷は顧彦暉を東川節度使に任じた。
- 李茂貞はさらに、興元府を預かる李繼密に梓州救援を命じたが、これは実際には東川支援を口実に西川を牽制する意味が強かった。ほどなく王建軍が利州で東川・鳳翔連合軍を破ると、顧彦暉は和議を求め、李茂貞と絶交することを条件に王建はこれを受け入れた。
正月‐二月・李茂貞の兼領要求
- 李茂貞は自ら興元も兼ねて治めたいと願い出た。
- 朝廷は、李茂貞を山南西道兼武定節度使とし、徐彦若を鳳翔節度使に移すことにしたうえ、果州・閬州も武定軍に編入した。
- しかし李茂貞は鳳翔も手放したくなく、詔に従わなかった。
二月・王建・李克用・朱全忠
- 二月甲戌、西川節度使の王建に同平章事が加えられた。
- 李克用は邢州を包囲し、王鎔が使者王藏海を送って和解を求めると、これを怒って斬り、平山・天長鎮・叱日嶺下などで鎮州軍を大破した。
- 河東軍は食糧が乏しく、戦場の死体の肉を干して食べるほどだった。
- そのころ時溥は朱瑾に救援を求め、朱全忠は霍存を曹州へ出して備えさせた。霍存は朱友裕と合流して石仏山下で徐州・兗州軍を大破し、朱瑾を敗走させた。
- しかし徐兵が再び出撃すると、霍存は油断して戦死した。
二月・井陘と鎮州、朱友裕事件
- 李克用は井陘を落とし、李存孝も王鎔救援名目で鎮州へ入り、王鎔と協議した。
- 王鎔はさらに朱全忠にも援軍を求めたが、朱全忠は時溥との戦争中で動けず、書面で李克用を牽制するにとどまった。
- 甲午、李匡威が救援に来て元氐で河東軍を破り、李克用は邢州へ退いた。王鎔は藁城で李匡威を厚く犒い、多くの金帛を贈った。
- 朱友裕は彭城を囲んでいたが、都虞侯の朱友恭に讒言され、交代と査問の命令が誤って本人に届いたため、恐れてわずかな騎兵とともに逃亡した。
- その後、伯父の朱全昱を頼って身を潜め、張夫人の取りなしで朱全忠に許され、許州の守将代理に任じられた。
- 張夫人は碭山の人で、朱全忠も軍政上しばしばその判断を仰いでいた。
二月‐四月・李匡威の失地
- 李匡威が王鎔救援のため幽州を離れた際、家族との送別の席で、弟の李匡籌の妻と関係を持ってしまった。
- 帰路、李匡籌はこれを機に軍府を掌握して留後を称し、行営兵を呼び戻したため、李匡威の兵は潰散した。
- 李匡威は深州にとどまるほかなかったが、京師へ帰ろうとすると、都ではたび重なる騒乱の経験から「金頭王が来て社稷を狙う」と恐れられた。
- 王鎔は、李匡威が自分を救った恩に感じて、彼を鎮州へ迎え、父のように遇した。
柳玭の左遷と家訓
- 柳玭は渝州刺史から瀘州刺史に移された。
- 柳氏は代々、孝悌・礼法で名門とされ、柳玭自身も本来は宰相候補と見られていたが、宦官に嫌われて地方に長く留め置かれた。
- 柳玭は子弟に、門地の高さは頼みとするものではなく、むしろ過失の責めが重くなるゆえ恐るべきものだと戒め、名門の子ほど一層勉学と修身に励むべきだと教えた。
四月・陳敬瑄・田令孜の最期
- 王建はたびたび陳敬瑄・田令孜の誅殺を求めていたが、朝廷は許さなかった。
- 夏四月、王建はまず陳敬瑄が乱を企てたとして新津で殺し、続いて田令孜が鳳翔と内通したと訴えて獄死させた。
- その上表は馮㳙が起草し、災いの元を早めに断ったのだと正当化した。
五月・徐州陥落
- 汴軍は長く徐州を攻めても落とせず、通事官の張濤は「進軍の日取りが悪いので成功しない」と書を送った。
- 朱全忠は一度は気にしたが、敬翔が、こうした話が軍中に広まれば士気を緩めると諫めたため、その書は焼き捨てられた。
- 朱全忠は自ら徐州へ赴き、戊子、龐師古が彭城を陥落させた。
- 時溥は一族を率いて燕子楼に登り、自焚して果てた。
- 己丑、朱全忠は彭城に入って張廷範を感化留後にし、朝廷には文臣を正式な節度使として任じるよう求めた。
四月・鎮州での李匡威殺害
- 李匡威は鎮州で王鎔のために城壁修繕や軍備整備を進めつつ、王鎔が若く、しかも真定の風土を気に入っているのを見て、密かに王氏の地を奪おうと考えた。
- 李抱真の献策も受け、王鎔の将兵に恩を施して懐柔しようとしたが、鎮州では王氏が長年統治しており、民は李匡威になびかなかった。
- 匡威は自身の忌日に王鎔が弔問に来た機会に、鎧を隠して兵を伏せ、王鎔を拉致して府へ連れ込もうとした。
- しかし風雷にまぎれて王鎔側の親軍が東偏門を閉ざし、屠者の墨君和が垣を越えて王鎔を救出したため、鎮州の兵民が反撃して李匡威とその一党を殺した。
- 王鎔はこのとき十七歳で、墨君和に首を抱えられて救われたため数日間、頸と頭を痛めた。
- 李匡籌は兄の仇討ちとして挙兵を願ったが、朝廷は許さなかった。
劉仁恭の失敗
- 幽州将の劉仁恭は蔚州守備を命じられていたが、任期を過ぎても交代がなく、兵は帰郷を望んでいた。
- そこへ李匡籌の政変が起こり、戍卒たちは劉仁恭を主に推して幽州へ向かったが、居庸関で幽州府兵に破られた。
- 劉仁恭は河東へ逃れ、李克用はこれを厚遇した。
廬州の平定
- 李神福は廬州を包囲し、甲午には楊行密自身も廬州へ出陣、田頵も宣州から加わった。
- もと蔡州出身で孫儒から楊行密に帰順していた張顥は、楊行密に厚遇されて廬州防備に当たっていたが、蔡儔が叛くと再びこれに従っていた。
- 包囲が厳しくなると、張顥は城を越えて降り、袁稹はその反覆を理由に処刑を求めたが、楊行密は親軍に編入して保護した。
五月・福州陥落と王潮の入城
- 福州を囲む王彦復・王審知は、城が堅く、しかも董昌が温州・台州・婺州から五千の援兵を送ってきたため、撤退も考えた。
- だが王潮は「兵が尽きれば兵を足し、将が尽きれば将を足し、それでも尽きれば自分が行く」と返し、攻撃を続行させた。
- 五月、城中の食糧が尽きると、范暉は夜に印を監軍へ渡して逃亡し、援軍も引き返した。
- 庚子、王彦復らが福州へ入り、翌日、王潮も入城して留後を称した。
- 王潮は陳巖を喪服で葬り、その子に娘を嫁がせて家を厚く遇し、汀州・建州も降り、嶺南方面の群盗もあるいは降り、あるいは潰走して、王氏は七閩をほぼ掌握した。
閏月‐六月・諸王・神策将の節度使任命
- 閏月、錢鏐は蘇杭観察使となった。
- また曹誠を黔中節度使、李鋋を鎮海軍節度使、孫惟晟を荊南節度使、六月には陳珮を嶺南東道節度使とし、いずれも同平章事を加えた。
- これは李茂貞のような武臣が制御困難になったため、朝廷が諸王を藩鎮に充てる方針を考え、その前段として神策軍の将を京師から外へ出して兵権を奪おうとした措置だった。
七月・李克用と王鎔の和解
- 七月、王鎔が兵を出して邢州を救おうとすると、李克用は平山でこれを破った。
- しかし王鎔が兵糧二十万を提供して邢州攻撃に協力すると願うと、李克用はこれを受け入れた。
- 李克用は欒城で軍を整え、王鎔の三万と合わせて任県へ進み、李存信は琉璃陂に屯した。
七月・廬州平定
- 丁亥、楊行密は廬州を奪回し、蔡儔を斬った。
- 部下の中には蔡儔の父母の墓を暴こうとする者もいたが、楊行密は「蔡儔がこの罪を犯したからこそ、今こうなったのだ。自分が同じことをしてどうする」と言って禁じた。
七月・錢鏐の杭州経営
- 錢鏐は民夫二十万と十三都の軍士を動員し、杭州の羅城を周囲七十里にわたって築いた。
- これは後の杭州城郭の基礎となった。
秋・李茂貞と昭宗の対立激化
- 李茂貞は功を恃んで驕横となり、上表や杜讓能への書で朝廷を侮った。
- その表では、天子は外戚一人も守れず、楊復恭のような者一人も誅せず、強弱ばかり見て是非を見ないとまで言い、もし兵を起こせば京畿の民を害し、天子もどこへ逃れるのかと脅した。
- 昭宗は大いに怒り、李茂貞討伐を決意し、杜讓能に全権を与えた。
- 杜讓能は、即位間もない朝廷にとって近在の強藩と衝突するのは危険だと何度も諫めたが、昭宗は王室の威が国門の外に出ない現状を嘆き、敢えて用兵すると言い張った。
- 杜讓能は、将来は自分が晁錯のように罪を負うだけで、乱を防げぬかもしれないと泣いて諫めたが、結局詔に従った。
朝廷内の分裂
- 杜讓能は中書にこもって兵糧・調度を計画したが、崔昭緯がひそかに邠州・鳳翔と結んで情報を流し、朝廷内の動きはすぐ敵方に知られた。
- 李茂貞の側は市人を数百・数千も動員して、西門君遂や宰相の崔昭緯・鄭延昌の輿を取り囲ませ、「岐帥に罪はない」と訴えさせた。
- 騒ぎの中で宰相らは輿を捨てて逃げ、朝廷は主唱者を処刑したが、都人の間ではむしろ戦争への恐れが広がり、山谷へ逃げる者も多くなった。
八月・覃王嗣周の出征
- 八月、覃王嗣周が京西招討使、神策大将軍李鐬が副使となった。
- 丙辰、楊行密は田頵に宣州兵二万を率いさせて歙州を攻めさせた。
- 歙州刺史の裴樞は固く守ったが、周辺の刺史の多くが貪暴だったのに対し、池州団練使の陶雅は寛厚で評判が良かった。
- 歙州の人々が「陶雅が来るなら従う」と望んだため、楊行密はただちに陶雅を歙州刺史とし、歙州は降った。
- 陶雅は裴樞を礼をもって送り返した。
九月・兗州攻撃と錢鏐の昇進
- 朱全忠は龐師古に命じて兗州を攻めさせ、朱瑾とたびたび戦って勝った。
- 九月丁卯、錢鏐は鎮海節度使に進められた。唐の旧来の鎮海軍は潤州にあったが、この時点ではまだ名目上であり、のちに杭州へ軍号が移る。
邢州攻囲の完成
- 李存孝は夜襲で李存信の営を破り、奉誠軍使孫考老を捕えた。
- 李克用は自ら邢州を囲んで塹壕と城塞を築き巡らせようとしたが、李存孝は何度も出撃して妨害した。
- そこで牙将の袁奉韜がひそかに李存孝をだまし、「晋王は塹が完成したら帰るつもりで、本当に恐れているのはあなただけだ」と伝えた。
- 李存孝はこれを信じて出撃をやめ、十日ほどで包囲施設が完成し、邢州は逃げ道を失った。
九月‐十月・覃王軍の敗北
- 乙亥、覃王嗣周は禁軍三万を率いて徐彦若を鳳翔へ送るため興平に進んだ。
- 李茂貞と王行瑜はあわせて六万近い精鋭を盩厔に置いてこれを拒んだ。禁軍は新募の市井の少年が多く、対する敵は長年戦った辺兵であった。
- 壬午、李茂貞らが興平に迫ると、禁軍はほとんど戦わず総崩れとなり、敵はそのまま三橋へ進んだ。京城は大混乱となり、市民は再び宮門で首謀者の処罰を要求した。
- 崔昭緯は杜讓能を陥れようとして、ひそかに李茂貞へ「用兵は天子の本意ではなく、杜太尉の専断だ」と通じた。
- 甲申、李茂貞は臨皐驛に陣し、杜讓能の罪を数えて誅殺を求めた。
- 杜讓能は自らの処罰で兵を解かせるよう願い、昭宗は涙ながらに別れを告げた。
- その日のうちに杜讓能は梧州刺史に左遷され、西門君遂・李周潼・段詡もそれぞれ南方へ流され、翌乙酉には昭宗が安福門で君遂らを斬った。
- なお杜讓能もさらに雷州司戸へ落とされた。
九月‐十月・新中枢の成立
- 昭宗は、惑わせて挙兵させたのは内侍三人であって杜讓能その人ではないと李茂貞に弁解し、駱全瓘・劉景宣を左右軍中尉とした。
- 壬辰、韋昭度が司徒・同平章事、崔𦙍が戸部侍郎・同平章事となった。
- 崔𦙍は外見は寛大だが内心は険しく、崔昭緯と深く結んでこの地位を得たとされる。叔父の崔安潛は、生前に「父兄が苦労して立てた家門を、この緇郎が壊す」と嘆いていた。
十月・杜讓能の死と朝廷の屈服
- 李茂貞はなお兵を解かず、杜讓能の死を要求した。崔昭緯もこれを後押しした。
- 冬十月、杜讓能と弟の杜弘徽は自殺を命じられた。
- 朝廷はさらに詔を出し、杜讓能を誣告して売官・重税の罪まで着せた。
- 以後、朝廷の決定はことごとく邠州・鳳翔の意向をうかがうようになり、宦官も朝臣も二鎮に取り入って恩恵を求めた。
- 崔鋋・王超のような二鎮の判官が、天子の可否にまで口を出すありさまとなった。
- 朝廷は改めて李茂貞を鳳翔節度使兼山南西道節度使・守中書令とし、李茂貞は鳳翔・興元・洋州・隴州・秦州など計十五州を実質支配するに至った。
- 徐彦若は御史大夫に転じた。
- 戊戌、王潮は福建観察使となった。
- 倪章は舒州を捨てて逃げ、楊行密は李神福を舒州刺史とした。
十一月・王行瑜への処遇
- 王行瑜は尚書令を求めたが、韋昭度は、太宗以来この官は原則として臣下に授けず、郭子儀だけが例外であったと密奏し、軽々しく与えるべきではないとした。
- そこで十一月、王行瑜には太師・尚父の号と鉄券が与えられた。
十二月・塩鉄と山東の戦い
- 十二月、朱全忠は軍需の便を理由に塩鉄使の機構を汴州へ移すよう求めた。
- 崔昭緯は、朱全忠は徐州・鄆州を破って勢いが増しており、ここで塩鉄財源まで渡せば制御できなくなると恐れ、詔でなだめるにとどめた。
- 汴将の葛從周は齊州を攻め、朱瑄・朱瑾が救援に来た。
湖南・鄧処訥の進出
- かつて武安節度使の周岳が閔勗を殺して潭州を奪っていたが、邵州刺史の鄧處訥はその報を聞いて哭し、閔勗への恩を語って仇討ちを決意した。
- 諸将を訓練し、八年を経て朗州刺史の雷満と結び、ついに潭州を攻め落として周岳を斬り、自ら留後を称した。