資治通鑑唐紀七十五 昭宗聖穆景文孝皇帝上之中 景福元年 元年 892年
正月・改元と諸鎮の動向
- 春正月、朝廷は大赦を行い、元号を景福に改めた。
- 鳳翔の李茂貞、静難の王行瑜、鎮国の韓建、同州の王行約、秦州の李茂莊ら五節度使は、楊守亮が反臣の楊復恭をかくまっているとして討伐を請い、あわせて李茂貞を山南西道招討使に任じるよう求めた。
- 朝廷では、もし李茂貞に山南西道を与えれば、今後は制御できなくなると危ぶみ、和解を命じたが、諸鎮は従わなかった。
河北・河東の戦い
- 王鎔と李匡威は十数万の兵で堯山を攻めたが、李克用は李嗣勲を送ってこれを撃破し、多数を討ち取った。
- その後も河東・鎮定・幽州の間では緊張が続き、以後の大規模衝突の伏線となった。
淮南・楊行密の持久策
- 孫儒の兵は楊行密よりはるかに多く、楊行密は銅官へ退いて守る案を諸将に諮った。
- 劉威・李神福・戴友規らは、堅壁清野で敵を疲弊させ、補給を断ち、さらに淮南の避難民を先に帰郷させて生活再建を進めれば、孫儒軍に帰心が生じて崩れると説いた。
- 楊行密はこの策を採用した。
二月・西川と東川周辺の戦い
- 威戎節度使の楊晟は楊守亮らと結んで王建を攻めようとし、二月、部将の呂蕘に二千を与えて楊守厚とともに梓州を攻めさせた。
- 王建は行営都指揮使の李簡を派遣し、呂蕘を討って斬った。
- 王建はさらに宗裕・王宗侃・華洪・王宗瑤らに五万を授けて彭州を攻めさせた。楊晟は敗れて彭州に籠城した。
- 楊守亮は符昭を援軍として送り、成都へ迫らせたが、王建が急遽呼び戻した華洪が夜間の偽装で大軍来襲と見せかけ、符昭を退却させた。
二月・朱全忠の濮州方面での敗戦
- 朱全忠は朱瑄を討つため出兵し、子の朱友裕を先鋒として斗門に進ませた。
- 朱瑄は歩騎一万で奇襲し、朱友裕の営を奪った。朱全忠は事情を知らぬまま斗門へ進んだが、到着した兵は次々に鄆州軍に殺された。
- 朱全忠は瓠河へ退いたが、朱瑄の追撃を受けて大敗し、張歸厚の奮戦で辛うじて逃れた。副使の李璠らは戦死した。
興元討伐と朝廷の譲歩
- 李茂貞と王行瑜は、朝命を待たず独断で興元攻撃を始めた。李茂貞はなおも山南西道招討使の任命を求め、杜讓能・西門君遂に書を送って朝廷を侮った。
- 昭宗は延英殿で宰相・諫官に議させたが、宦官の中には二鎮と内通する者もおり、多くは沈黙した。
- ただ給事中の牛徽が、李茂貞の功は認めつつも詔命を待たぬのは非であるとし、しかし山南の民を救うため、任命して法で拘束すべきだと進言した。
- 昭宗はこれを容れ、李茂貞を山南西道招討使に任じた。
孫儒包囲下での楊行密の反攻準備
- 孫儒は宣州を包囲していた。
- その間、楊行密の将張訓は常州を急襲し、孫儒配下の陳可言を斬って常州を奪い、別将はさらに潤州も取った。
徐州の疲弊と時溥の窮状
- 朱全忠が長年にわたり時溥を攻め続けたため、徐・泗・濠三州の民は耕作も収穫もできず、兗州・鄆州・河東の援兵も効果を上げられなかった。
- そのうえ水害も重なり、死者が多く出た。困窮した時溥は和睦を求めたが、朱全忠は他鎮への転出を条件とした。
- 朝廷は劉崇望を感化節度使とし、時溥を太子太師としたが、時溥は朱全忠の欺きと恐れて詔に従わず、劉崇望も華陰から引き返した。
- 忠義節度使の趙徳諲が死去し、その子の趙匡凝が後を継いだ。
福建・王潮の福州攻撃
- 福州の范暉は驕奢で民心を失っていた。
- 王潮は従弟の王彦復を都統、弟の王審知を都監として福州攻めに送り、民は自発的に兵糧を輸送し、平湖洞や海辺の諸勢力も船でこれを助けた。
三月・人事と四川方面の戦況
- 三月、鄭延昌が宰相となった。
- 神策軍の楊子実・楊子遷・楊子釗らは楊守亮の仮子で、渠州から楊晟救援に向かっていたが、楊守亮側の敗勢を見て、兵二万を率いて王建に降った。
- 李克用と王處存は王鎔を攻めて天長鎮を落としたが、王鎔は新市で大勝し、河東軍に大損害を与えた。李克用は欒城へ退いた。
- 朝廷は河東・鎮定・幽州の四鎮に和解を命じた。
- 楊晟は楊守貞・楊守忠・楊守厚に東川攻撃を促したが、内応予定だった神策督将の竇行実の計画が漏れ、顧彦暉がこれを斬った。
- 王建の将吉諫・李簡らは楊守厚・楊守忠を相次いで破り、多数を斬獲・降伏させた。
四月・杭州と楚州
- 四月、杭州に武勝軍が置かれ、錢鏐が防禦使となった。
- 天威軍使の賈徳晟は李順節の死を恨んでおり、西門君遂に憎まれて殺された。その配下千余騎は鳳翔へ走り、李茂貞の勢力はさらに強まった。
- 李匡威は雲州・代州方面へ侵攻し、李克用はようやく鎮州方面から兵を退いた。
- 時溥は南へ兵を出して楚州へ迫ったが、楊行密の将張訓・李徳誠が寿河でこれを破り、そのまま楚州を奪って刺史劉瓚を捕えた。
- 王行瑜は中書令を兼ねることとなった。
六月・孫儒の滅亡
- 楊行密はたびたび孫儒の軍を破り、広徳の営も攻略した。張訓は安吉に屯して糧道を断ったため、孫儒軍では食糧が尽き、疫病も流行した。
- 孫儒は劉建鋒・馬殷を分遣して諸県を略奪させたが、六月、孫儒が瘧を患ったとの報が届くと、楊行密は総攻撃をかけた。
- 暴風雨の中で孫儒軍は大敗し、安仁義は五十余寨を破り、田頵が陣中で孫儒を捕えて斬った。首は京師へ送られ、残党の多くは楊行密に降った。
- 劉建鋒・馬殷は残兵七千を集めて南の洪州へ向かい、途中で兵が十余万に膨れ上がった。劉建鋒が主帥、馬殷が先鋒指揮使、張佶が謀主となった。
- 丁酉、楊行密は軍を率いて揚州へ帰還した。
七月・楊行密の揚州帰還と淮南再建
- 秋七月、楊行密は広陵に到着し、田頵を宣州、安仁義を潤州に置いた。
- かつて天下有数の富庶を誇った揚州は、秦彦・畢師鐸・孫儒・楊行密らの戦乱で完全に荒廃し、江淮一帯は千里にわたり草木も残らぬほどだった。
- それでも楊行密は、寛大で猜疑心が少なく、軍民と苦楽を共にし、倹約して用を足し、逃散した民を招き戻し、軽税で再建を進めた。
七月・彭州包囲と王先成の献策
- 王建の彭州包囲は長引き、民は山谷へ逃れ、諸寨の兵は日々出撃して住民を捕らえ、財物や家畜を奪い、男女老幼を奴婢として分配していた。
- 新津出身の書生上がりの兵士・王先成は、王宗侃に対し、こうした略奪は民心を完全に失わせ、かえって楊氏への思慕を生むと説いた。
- さらに、山中の百姓への招安、軍の掠奪禁止、捕虜の家族再会、臨時の招安寨や行県の設置、地方官による復業支援など七か条の具体策を提出した。
- 王建はこれを喜んで全面採用し、布告が出ると数日で山中の民が続々と戻り、市が立ち、やがて元の村落に復帰していった。
七月・李茂貞の山南拡張
- 己巳、李茂貞は鳳州を落とし、感義節度使の満存を興元へ敗走させた。
- さらに興州・洋州も奪い、自らの子弟をそれぞれの地に置いた。
八月・楊行密の正式任命
- 八月、楊行密は淮南節度使・同平章事に任じられ、田頵は宣州留後、安仁義は潤州刺史となった。
- 孫儒軍からの降兵には蔡州出身者が多く、楊行密はその中でも精強な五千人を選び、黒衣と甲を与えて「黒雲都」と名づけ、先鋒に用いた。周辺はこれを恐れた。
- 楊行密は財用不足から茶塩の専売で布帛を集めようとしたが、書記の高勗が、戦乱直後の民をさらに困らせれば離反を招くと諫め、農桑振興と交易重視を進言した。
- 楊行密はこれに従い、のちに淮南は数年で大いに回復した。
八月・雲州方面の李克用
- 李克用は北巡中、李匡威と赫連鐸が八万で雲州を侵していると聞き、密かに新城に入って伏兵を置き、吐谷渾の斥候三百を捕えた。
- 援軍の李君慶が到着すると、李克用は雲州へ移って出撃し、李匡威らを大破して天成軍まで追撃した。
八月・興元陥落
- 辛丑、李茂貞は興元を攻め落とした。
- 楊復恭・楊守亮・楊守信・楊守貞・楊守忠・満存らは閬州へ逃れた。
- 李茂貞は子の李繼密を興元府の長官代行とした。
九月・時溥の復任
- 九月、時溥は監軍を通じて「将士が自分の留任を望んでいる」と奏上し、冬十月に再び感化節度使・侍中となった。
- しかしこれは朝廷の威令が地方に及ばなくなっていることを示す一例でもあった。
十月・李存孝の離反
- 邢洺磁州留後の李存孝は、同じく李克用の仮子である李存信と仲が悪く、軍功でも互いに競っていた。
- 王鎔との戦いで思うような成果が出ず、しかも李存信から讒言されるに及んで、李存孝は身の危険を感じた。
- ついに王鎔・朱全忠と連絡を取り、三州をもって朝廷に帰順する上表を行い、節鉞と諸道兵の派遣を求めた。
- 朝廷は李存孝を邢洺磁節度使に任じたが、諸道兵の招集までは認めなかった。
十一月・徐州周辺の変動
- 十一月、時溥配下の濠州刺史張璲、泗州刺史張諫が州ごと朱全忠に降った。
- 乙未、朱全忠は子の朱友裕に十万を与えて濮州を攻め落とさせ、刺史邵倫を捕えさせたのち、その兵を徐州攻めへ向けた。
- 孫儒の将王壇は婺州を落とし、刺史蔣瓌は越州へ逃れた。
淮南周辺の動き
- 廬州刺史の蔡儔は、かつて楊行密の家の墓を暴いたうえ、舒州刺史の倪章と結んで朱全忠に救援を求めた。
- だが朱全忠はその反復を嫌い、印綬だけ受け取って救わず、かえって楊行密へ知らせた。
- 楊行密は李神福に命じて蔡儔討伐へ向かわせた。
十二月・新暦の制定
- 宣明暦の誤差が目立つようになり、太子少詹事の邊岡らが新たな暦を作って十二月に献上した。
- これを景福崇玄暦と名づけた。
十二月・閬州方面と王建・朱全忠の接触
- 壬午、王建は華洪に命じて閬州の楊守亮を破らせた。
- また節度押牙の鄭頊を朱全忠のもとへ遣わした。朱全忠が剣閣の地勢を問うと、鄭頊はその険阻さを強調したが、朱全忠は本気にしなかった。
この年の明州
- 明州刺史の鍾文季が死に、将の黄晟が自ら刺史を称した。