資治通鑑唐紀七十四 昭宗聖穆景文孝皇帝上之上 二年 771年
正月 張濬・孔緯の失脚と李克用の復権
- 正月、羅弘信は内黄に軍を置いて朱全忠に対抗したが、丙辰、朱全忠は五度戦ってすべて勝ち、永定橋で一万余を斬った。羅弘信は恐れて厚く贈り物をして講和を求め、以後、魏博は汴州に服属する姿勢を強めた。
- 庚申、孔緯は荊南節度使へ、張濬は鄂岳観察使へ左遷され、宰相職を失った。かわって崔昭緯・徐彦若が同平章事となった。
- さらに楊復恭は孔緯を長楽坡で襲わせ、旌節や資装を奪った。孔緯は命こそ助かったが屈辱を受けた。
- 李克用は再び表を上げ、自らは罪人なので藩鎮としてではなく河中あたりに寓居して命令を待ちたいと述べた。朝廷はこれに応じ、孔緯を均州刺史、張濬を連州刺史にさらに貶める一方で、李克用には官爵をことごとく戻して晋陽へ帰らせた。
孫儒、再び江を渡る
- 孫儒は淮蔡の兵をことごとく率いて江を渡り、潤州から南下して宣州方面へ転戦した。田頵・安仁義はしばしば敗れ、楊行密の諸城は風を聞いただけで逃げるところも多かった。
- 孫儒の将李從立が宣州東溪に急迫すると、楊行密軍の守りはまだ固まっていなかった。そこで台濛が夜中に五百人で往来の呼声を繰り返し、大軍到着を装ったため、李從立は退いた。
- 孫儒の前軍が溧水に至ると、李神福はわざと怯えて見せたうえで、夜襲によって千人を斬り捕えた。
二月 李克用・李罕之の復官
- 二月、李克用には守中書令が加えられ、李罕之にも官爵が戻された。張濬はさらに繡州司戸へ落とされた。
三月 西川遠征の終息
- 韋昭度は諸道十余万を率いて陳敬瑄を討っていたが、三年たっても成都を落とせず、補給も続かなくなった。朝廷では戦争終結論が強まった。
- 乙亥、朝廷は陳敬瑄の官爵を回復し、顧彦朗・王建にはそれぞれの鎮に帰るよう命じた。
平盧 王師範の自立
- 王師範は、棣州刺史張蟾と結んだ都指揮使盧弘が引き返して自分を攻めると、ひそかに重賂を送り、「自分は幼少で任に堪えないから位を譲りたい」と偽って油断させた。
- 側近の劉鄩は、宴席で盧弘を斬り、その党も殺した。王師範は士卒を慰撫して兵心を安定させ、自ら棣州を攻めて張蟾を捕え、斬った。崔安潜は京師へ逃げ帰った。
- 朝廷は王師範を正式に平盧節度使に任じた。王師範は和やかで学を好み、郷里の県令が赴任すると自ら礼を尽くして拝礼し、桑梓を敬うことで子孫に本を忘れぬことを教えたという。
張濬・孔緯の華州寓居
- 張濬は藍田から逃れて華州の韓建に身を寄せ、孔緯も商州から引き返して華州に寓居した。二人は密かに朱全忠へ助力を求め、朱全忠が冤を訴える表を上げたため、朝廷もやむなく彼らの自由を認めた。
邢洺・山東の動き
- 邢洺節度使安知建は朱全忠と内通していたため、李克用は李存孝に交代させようとした。安知建は青州へ逃れたが、朝廷から神武統軍に任ぜられて京師へ向かう途中、鄆州で朱瑄に襲われて殺され、その首は晋陽へ送られた。
四月 成都の飢餓と王建の野心
- 四月、彗星が三台から太微へ入り、長さ十丈余に及んだ。
- 成都では食糧が尽き、捨て子が道に満ちた。密かに行営へ出て米を買って戻る者があると、韋昭度は哀れんで見逃し、陳敬瑄もまた咎めなかった。もっとも流通する量はきわめて少なく、高価で、餓死者は野に満ちた。
- 軍民のあいだでは弱者を侵す事件が絶えず、極刑を重ねても止まらなかった。出降を図る者があれば、その一族まで皆殺しにされた。
- 内外都指揮使の徐耕だけは慈悲深く多くを救ったが、田令孜に疑われ、恐れて夜中に囚人を処刑する始末だった。
- 王建は、詔勅で罷兵を命じられても「大功が成りかけているのにやめられない」と考え、周庠の進言に従って、韋昭度だけ朝廷へ帰し、自分が単独で成都を取る策を選んだ。
- 王建は韋昭度に対し、関東の藩鎮抗争こそ国家の腹心の病であり、陳敬瑄は癬のようなものだから自分に任せて都へ帰るべきだと説いた。
- なお決断できぬ昭度に対し、王建は側近の駱保を軍門で捕えて殺し、その肉を裂いて示威した。昭度は恐れて節印を王建へ渡し、三使留後・行営招討使として成都攻略を委ねて東へ帰った。
- 王建は昭度を新都まで送って別れたが、昭度が剣門を出るや、そこを兵で押さえて東川軍を入れなくした。昭度が帰京すると、東都留守に左遷された。
王建の成都攻略準備
- 王建は成都を厳重に包囲し、王鷂という狗屠を間者として城内に送り込み、外では茶売りを装いながら王建の兵威を民衆へ吹聴させた。これにより陳敬瑄・田令孜は守りを緩め、城中の不安は高まった。
- また鄭渥を偽降させて城内事情を探らせ、帰還後には王宗渥と改名させて重用した。
西南・嶺南・淮南
- 周岳は嶺南西道節度使に移された。
- 李克用は赫連鐸を河上で破って雲州を包囲した。
- 楊行密は劉威・朱延寿に三万を率いさせて黄池で孫儒を撃たせたが、大敗した。だが五月の大水で孫儒の諸営が水没し、孫儒は揚州へ戻らざるを得なかった。楊行密はその隙に康暀を和州、安景思を滁州に置いた。
- 丙午、皇子祐が徳王に立てられた。
- 楊行密は李神福に命じて和州・滁州を攻め、康暀は降り、安景思は逃げた。
七月 雲州陥落
- 七月、李克用は雲州を急攻し、赫連鐸は食糧の尽きたため吐谷渾の部族へ逃れた。のち幽州へ身を寄せた。李克用は石善友を大同防禦使に任じた。
孫儒と楊行密、対決深まる
- 朱全忠は楊行密に使者を送り、孫儒を共に攻めようと約した。
- 孫儒は兵力の優勢を頼み、先に楊行密を滅ぼしてから朱全忠に当たるつもりで、諸藩鎮へ檄を飛ばし、朱全忠の罪を数え上げたうえで、宣州と汴州を平らげたのち朝廷へ入り、君側の悪を除くと主張した。
- 孫儒は揚州の民家を焼き払い、壮丁と婦女をことごとく江南へ連れ去り、老弱は殺して食糧とした。楊行密配下の張訓・李徳誠は密かに揚州へ入って残った穀物数十万斛を確保し、飢民を救済した。泗州刺史張諫も軍糧を貸し与えたため、楊行密はこれを恩義として記憶した。
八月 李克用の南巡と鎮州侵攻
- 李存孝は李克用に鎮州攻撃を勧め、李克用は南巡して沢州・潞州へ出、さらに懐州・孟州の境を経て成徳への圧力を強めた。
- 一方で朱全忠は宿州を攻め、その外城を落とした。
- 乙未、孫儒は蘇州から出て広徳に屯した。楊行密が迎え撃つと、孫儒はその寨を囲んだが、李簡が百余人で奮戦して楊行密を救い出した。
王建、成都を得る
- 王建は陳敬瑄への圧迫を強め、内州県も多くが王建に奪われた。威戎節度使楊晟が食糧を送っていたが、王建が新都を押さえて彭州道を断ったため、成都は孤立した。
- 辛丑、田令孜は城上で王建に呼びかけ、かつての恩義を言って包囲を解くよう求めた。王建は父子の恩は忘れていないが、朝命に従っている以上、陳敬瑄が退かぬ限りやめられないと答えた。
- その夜、田令孜は自ら西川の印節を携えて王建の営へ赴き、引き渡した。将士は歓呼した。
- 壬寅、陳敬瑄は城門を開き、王建を迎え入れた。王建は事前に、城に入れば金帛や女性を思うままに取らせ、節度使の地位さえ交替で与えると兵を誘っていたが、いざ入城すると掠奪を禁じ、張勍に厳格な市中警備を委ねた。違反者は胸を打って殺され、人々は張勍を「張打胸」と呼んだ。
- 翌日、王建は成都へ入り、西川留後を称した。韓武という小校が「節度使は交替でやるはずだ」と使庁で騒いだため、王建は密かに刺客を送り殺した。
- そもそも陳敬瑄は才覚に乏しく、田令孜の勧めで軍政をほぼ全面的に任せてしまっていたため、最後には自ら統制を失って滅亡した。王建は陳敬瑄の子陳陶を雅州刺史とし、のちには新津で租税を与えて養った。
- 癸丑、王建は兵を諸州に分散して食を求めさせ、文武堅・謝從本に王宗阮・王宗本の名を与えた。陳敬瑄の旧臣で才能のある者は礼をもって登用した。
秋 楊復恭失脚への道
- 楊復恭は宿衛兵を総覧し、朝政を壟断していた。養子たちは節度使・刺史・監軍となり、その勢いは盛大だった。
- 皇帝の外戚王瓌が節度使を求めて楊復恭に拒まれると、王瓌は楊復恭を罵った。楊復恭はこれを憎んで、王瓌を黔南節度使にし、利州方面の桔柏津で山南西道節度使楊守亮に命じて舟を覆させ、一族ともども殺した。皇帝は真相を察して深く恨んだ。
- さらに、寵臣となった李順節が楊復恭の陰事をことごとく皇帝へ告げたため、皇帝は楊復恭を鳳翔監軍へ左遷しようとした。楊復恭は怒って赴任を拒み、病を称して致仕を求めた。九月乙卯、上将軍致仕とされたが、詔使までひそかに刺客を放って殺した。
九月 楊氏一門の挙兵
- 王重盈には中書令が加えられた。
- 顧彦朗が死ぬと、軍中は弟の顧彦暉を留後に推した。
- 冬十月、宿州刺史張筠は丁会に降った。
- 癸未、王建は正式に西川節度使とされ、翌日には永平軍が廃止された。
十月 楊復恭討伐
- 王建は西川を得ると政務に心を向け、諫言を受け入れ、人材登用にも長けていたが、猜疑心が強く、功臣をのちに多く誅したとも評される。
- 楊復恭の邸宅は玉山軍営に近く、養子の楊守信がしばしば出入りしていた。これを理由に反乱の疑いが生じ、乙酉、皇帝は安喜楼に出て自衛しつつ、李順節・李守節に命じて楊復恭の邸を攻めさせた。
- 張綰が家兵を率いて抵抗し、楊守信も援軍を率いたため、順節らは苦戦した。翌日、含光門の禁兵は市を掠めようとしたが、劉崇望が「天子みずから街東で督戦している。小利を貪るな」と説得し、兵は従った。
- やがて援軍と誤認した楊守信方の兵が潰走し、守信と楊復恭は一族を連れて通化門から興元へ逃れた。永安都頭の権安が張綰を捕え、斬った。
- 興元へ至ると、楊守亮・楊守忠・楊守貞・楊守厚らがいっせいに兵を挙げ、名目上は李順節討伐を掲げて朝廷に対抗した。
十月 鎮州遠征
- 李克用は王鎔を攻め、龍尾崗で鎮州軍を大破して多数を斬り捕え、臨城を抜き、元氏・柏郷を攻めた。李匡威は幽州兵を率いて王鎔を救援したため、李克用は掠奪のうえ撤兵し、邢州へ軍を戻した。
十一月~十二月 中原の戦乱
- 十一月、曹州では都将郭銖が刺史郭詞を殺して朱全忠に降った。
- 朱瑾は万余を率いて単州を攻めた。
- 乙丑、時溥配下の驍将劉知俊が二千を率いて朱全忠に降った。時溥軍はこれ以後大きく衰え、朱全忠は劉知俊を左右開道指揮使に任じた。
- 辛未、寿州の将劉弘鄂は孫儒の残虐を憎み、州を挙げて朱全忠に降った。
- 十二月乙酉、丁会・張帰霸は金郷で朱瑾を大破し、朱瑾は単騎で逃れた。
年末 李順節の誅殺
- 李順節は恩寵を頼んで驕り高ぶり、常に兵を従えて出入りした。左右神策中尉の劉景宣・西門君遂はその乱心を恐れ、皇帝に危険を訴えた。
- 戊子、二人は詔を偽って李順節を召し出し、銀台門の仗舎で対座させたところを、供奉官の似先知が背後から斬りつけて首を取った。
- 順節配下の天威・捧日・登封の三都は永寧坊を大掠したが、日暮れにようやく鎮まった。百官はかえって表を上げて祝賀した。
江南・東川・福建
- 孫儒は蘇州・常州を焼き掠めつつ宣州へ迫った。錢鏐は再び兵を遣わして蘇州を押さえた。孫儒はしばしば楊行密軍を破り、その軍列は百余里にわたった。楊行密は錢鏐に援助を求め、錢鏐は兵と食糧を送った。
- 顧彦暉が東川節度使とされると、中使宋道弼が旌節を届けたが、楊守亮は楊守厚に命じてこれを奪わせ、梓州を攻めさせた。
- 癸卯、顧彦暉は王建に救援を求め、甲辰、王建は華洪・李簡・王宗侃・王宗弼を派遣した。王建はひそかに「救援後の犒宴の場で彦暉を捕えよ」と命じていたが、王宗弼がこれを漏らしたため、顧彦暉は病を理由に宴を断り、難を免れた。
- 以前から李茂貞の養子李繼臻が金州に拠っていたが、均州刺史馮行襲がこれを攻め落とし、朝廷は馮行襲を昭信防禦使として金州に置いた。楊守亮が金商から京師を襲おうとすると、馮行襲はこれを迎え撃って大破した。
- この年、涇原軍には彰義軍の号が与えられ、渭州・武州を加領した。
- 福建では観察使陳巖が病み、泉州刺史王潮へ書を送って軍政を委ねようとしたが、王潮が到着する前に陳巖は死んだ。陳巖の妻の弟范暉は将士をそそのかして自ら留後となろうとした。