資治通鑑唐紀七十四 昭宗聖穆景文孝皇帝上之上 龍紀 一年 769年

正月 改元と朝廷人事

  • 春正月癸巳朔、天下に大赦が出され、元号は文徳二年から龍紀元年に改められた。あわせて劉崇望が同平章事となった。
  • この時期、朱全忠の勢力はさらに拡大し、汴軍は宿遷を奪って呂梁に進み、時溥は迎え撃って敗れ、彭城へ退いて立てこもった。

秦宗権の最期

  • 壬子、蔡州の将郭璠が申叢を殺し、秦宗権を汴州へ送った。朱全忠は郭璠が「申叢は秦宗権を再び立てようとしていた」と告げたのを受け、郭璠を淮西留後に任じた。
  • 二月、朱全忠は秦宗権を京師へ送り、独柳で斬らせた。京兆尹孫揆が刑の監督を務めたが、秦宗権はなお自らの非を弁じ、見物人の失笑を買った。
  • 三月、朱全忠は中書令を兼ね、東平郡王に進められた。蔡州平定によってその兵威はいよいよ強くなった。

蔡州・陳州方面の人事

  • 趙徳諲には中書令が加えられたが、本文の官号には軍名の取り違えがあるとされる。
  • 蔡州節度使の趙犨は同平章事となり、忠武節度使に移されて陳州を治所とした。病を得ると軍政を弟の趙昶に委ね、のちに没した。朝廷は趙昶を後任の忠武節度使とした。

四川 王建と山行章の攻防

  • 戊申、王建は新繁で山行章を大破し、多数を討ち取った。山行章はかろうじて逃れ、楊晟も恐れて三交へ移った。山行章は濛陽に屯して王建と対峙した。

江南 宣州陥落と楊行密の進出

  • 楊行密は宣州を包囲し、城中では食糧が尽きて人肉食まで起こった。指揮使周進思が城を掌握して趙鍠を追放し、趙鍠が広陵へ逃れようとすると田頵が捕えた。まもなく城中の者は周進思をも捕えて降伏した。
  • 楊行密が宣州に入ると、諸将が財貨を奪うなか、徐温だけは米倉を押さえて粥を施し、飢民を救った。これは徐温の器量を示すものとされる。
  • 趙鍠の将だった周本は勇猛を見込まれて楊行密に用いられ、趙鍠に最後まで従った李徳誠もまた楊行密に取り立てられ、宗族の娘を妻に与えられた。
  • 朝廷は楊行密を宣歙観察使とした。
  • 朱全忠は旧縁のある趙鍠の引き渡しを求めたが、袁襲の進言により、楊行密は趙鍠を斬ってその首を送った。ほどなく袁襲が死ぬと、楊行密は大きく惜しんだ。
  • 孫儒は廬州を攻め、蔡儔は州を挙げて降った。

汴州軍内部の粛清

  • 朱珍が蕭県を奪って時溥と対峙した際、部下の李唐賓を自ら斬った。これを聞いた朱全忠は怒ったが、敬翔が夜まで待って機を見て報告し、しかも唐賓の家族を拘束して事態を抑える策を授けたため、軍中は動揺せずに済んだ。
  • 秋七月、朱全忠は蕭県へ赴き、迎えに出た朱珍をその場で捕えて専断を責め、誅殺した。霍存ら諸将が助命を願ったが聞き入れられず、龐師古が後任の都指揮使となった。
  • 八月、朱全忠は時溥の陣を攻めたが、大雨のため撤兵した。

東南 蘇州・潤州・常州

  • 丙申、錢銶が蘇州を奪い、徐約は海へ逃れて死んだ。錢鏐は沈粲に蘇州を委ねた。
  • 四月、陝虢軍は保義軍の号を賜った。
  • 五月、潤州制置使阮結が死去すると、錢鏐は成及を後任とした。
  • 楊行密は田頵らを常州に遣わして攻め、地道から城内へ突入させて杜稜を捕え、三万の兵を常州に駐屯させた。

河東 邢洺争奪と孟方立の死

  • 李克用は大軍を動かし、李罕之・李存孝に命じて孟方立を攻めさせ、磁州・洺州を奪った。琉璃陂の戦いで孟方立軍は大敗し、主将の馬溉・袁奉韜も捕虜となった。
  • 李克用が勢いに乗って邢州を攻めると、孟方立は将兵の怨みを買っており、誰も力を尽くさなかった。孟方立は羞恥と恐怖から毒を飲んで自殺し、軍は弟の孟遷を擁立した。
  • 孟遷は朱全忠に救援を求めた。羅弘信は魏博通過を許さなかったため、朱全忠は王虔裕に精兵数百を率いさせ、間道から邢州へ入らせて共同防衛に当たらせた。

祭天をめぐる宦官と朝廷

  • 十一月、皇帝は名を曄と改めた。
  • 圓丘祭祀を前に、従来の宦官の服制をさらに改めて法服・剣佩を着用させようとした。孔緯や諫官・礼官は不可としたが、皇帝は大礼を優先するとして押し切り、宦官は祭祀に剣佩を着けて侍した。

楊復恭への不信と李順節の抜擢

  • 皇帝は藩邸のころから宦官を憎んでいた。即位後も、擁立の功を誇って違法なふるまいの多い楊復恭を快く思わず、政務では孔緯・張濬ら宰相に多く相談した。
  • 孔緯は、楊復恭が肩輿で太極殿まで乗り入れ、養子の壮士たちに禁軍や方鎮を任せているのは反逆の萌しだと指摘した。皇帝が「なぜ国を守るというのに李姓にせず楊姓なのか」と問い詰めると、楊復恭は答えられなかった。
  • 皇帝は楊復恭の養子で武勇のある胡弘立を手元に置くため、李姓を賜って李順節と改名させ、六軍の門鑰管理を任せた。やがて急速に昇進して同平章事にまで加えられた。
  • 順節は百官と班見したがったが、孔緯は宰相の権威を守るためこれを許さなかった。順節は不満を見せたが、それ以上は争えなかった。
  • 朱全忠が塩鉄使の兼任を求めると、孔緯は強く反対し、これ以上の権力集中を認めなかった。

常州・潤州をめぐる争奪

  • 朱全忠は龐師古を潁上から淮南へ進めて孫儒を攻めさせた。
  • 十二月、王建は広都で山行章と西川の騎将宋行能を破り、山行章は眉州へ退いたのち王建に降伏した。
  • 孫儒は広陵から兵を率いて渡江し、田頵を追って常州を奪い、劉建鋒を守将とした。ところが孫儒が広陵へ帰ると、劉建鋒はさらに成及を追って潤州を奪った。

成都周辺の小記事

  • かつて襄陽にいた劉巨容は、申屠生から焼薬で黄金を作る術を学び、田令孜の弟にそれを見せていた。のち成都に寓居した際、田令孜がその法を求めて断られると恨み、ついにこの年、劉巨容一族を滅ぼした。