資治通鑑唐紀七十三 昭宗 文徳 元年 一年 888年

正月:秦彦・畢師鐸の最期、張守一誅殺

  • 正月甲寅、孫儒は秦彦・畢師鐸・鄭漢章を殺した。
  • もともと三人が秦宗衡のもとへ逃れた時にはなお二千余の兵があったが、その後少しずつ孫儒に奪われていた。
  • 部将の唐宏は、自分も巻き添えで殺されるのを恐れ、「彼らが汴軍をひそかに招こうとしている」と讒言したため、孫儒は三人を誅した。
  • 唐宏自身はその功で馬軍使となった。
  • 張守一は呂用之とともに楊行密へ帰順していたが、また諸将のために仙丹を調合し、軍政にも口を出そうとしたため、楊行密は怒ってこれを殺した。

朱全忠、蔡州都統となる

  • 蔡軍の石璠が一万余で陳州・亳州へ侵入すると、朱全忠は朱珍・葛従周に数千騎を与えてこれを討たせ、石璠を生け捕りにした。
  • 癸亥、朝廷は朱全忠を蔡州四面行営都統とし、時溥に代えて対秦宗権戦線の総帥とした。
  • 諸鎮の兵はみな朱全忠の節度を受けることとなった。

淮南留後問題

  • 張廷範は広陵で厚遇されたが、李璠が淮南留後として来ると聞くと、楊行密が受け入れまいとする気配を察し、ひそかに朱全忠へ「自ら大軍で赴任すべき」と報じた。
  • 朱全忠はその策に従って宋州まで進んだが、張廷範が広陵から逃げ帰り、「行密は今は図れない」と告げた。
  • 甲子、李璠もまた徐州軍が道を遮ると報じたので、朱全忠は淮南行きを中止した。

呉越・朝廷・魏博の動揺

  • 丙寅、銭鏐は薛朗を斬り、その心臓をえぐって周宝に祭った。阮結は潤州制置使となった。
  • 二月、朱全忠は楊行密を淮南留後に任ずるよう上奏し、朝廷もこれを認めた。
  • 乙亥、昭宗の病状が悪化し、壬午に鳳翔を発して、己丑に長安へ戻り、庚寅に大赦を行って改元した。
  • 韋昭度は兼中書令となった。
  • 魏博の楽彦禎は驕慢で不法が多く、六州の民を動員して方八十里の羅城を築かせたため、人民は酷役に苦しんだ。
  • その子の楽従訓はいっそう凶暴で、亡命者五百余を集めて親兵「子将」とし、牙兵は自分たちが排除されると疑って不安を募らせた。
  • 楽従訓は恐れて変装し近県へ逃れたが、楽彦禎はこれを相州刺史にして兵甲と財貨を送り込んだため、牙兵の疑いはますます強くなった。
  • 楽彦禎はついに位を避けて龍興寺で僧となることを願い出た。群衆は都将の趙文㺹を留後に推した。
  • 楽従訓は三万を率いて魏州城下に迫ったが、趙文㺹は戦わず、軍中は再び趙文㺹を殺してしまった。
  • そこで牙将の羅弘信が推されて留後となった。以前から「白髭の老人が、弘信こそこの地の主になると言った」という風説があり、衆はこれを縁起として受け入れた。
  • 羅弘信は兵を出して楽従訓を破り、従訓は内黄に立て籠もった。

朱全忠と魏博、河南・河陽の衝突

  • 先に朱全忠は蔡州討伐のため、押牙の雷鄴に銀一万両を持たせて魏博で兵糧を買わせようとしていたが、魏博牙兵は楽彦禎追放の混乱の中で雷鄴を館で殺した。
  • 敗れた楽従訓は朱全忠に救援を求めた。
  • 一方、河陽節度使の李罕之と張全義はかつて腕に血盟を結ぶほど親しかったが、罕之は勇猛ながら無謀で貪暴、全義を田舎者と嘲った。
  • 罕之は穀帛をたびたび要求し、全義はその都度応じたが、要求は際限なく、少しでも気に入らぬと河南の役人を河陽へ連行して杖打ちにした。
  • 河南の将吏は憤ったが、張全義は表向き従順にふるまい、事を荒立てなかった。
  • 李罕之の軍は農耕せず専ら掠奪で食いつなぎ、人肉まで食らっていた。
  • この年、罕之は全軍で絳州を攻め、刺史王友遇を降し、さらに晋州へ進んだ。
  • そこで護国節度使王重盈は張全義と密かに通じて李罕之を図り、張全義は屯兵を夜陰に乗じて河陽三城へ潜入させた。
  • 明け方には河陽を奪い、李罕之は城壁を越えて徒歩で逃亡した。張全義はその家族を捕え、河陽節度使をも兼ねることになった。
  • 李罕之は沢州へ逃れて李克用に救援を求めた。

三月:僖宗崩御・昭宗即位

  • 三月戊戌朔、日食があった。
  • 己亥、昭宗の病が再び重くなった。
  • 壬寅、僖宗は危篤となった。群臣は年長で賢明な吉王保を待望したが、十軍観軍容使の楊復恭は弟の寿王傑を推した。
  • 同日、寿王傑を皇太弟・監軍国事とする詔が下った。劉季述が兵を率いて六王宅から迎え、少陽院へ入れ、宰相以下が拝謁した。
  • 癸卯、僖宗は霊符殿で崩じた。享年二十七。
  • 遺詔により皇太弟傑は名を敏と改め、韋昭度が冢宰を代行した。
  • 昭宗は容貌すぐれ、気概があり、文学を好み、僖宗の時代に衰えた朝威を立て直したいと望んでいた。即位当初、内外は大いに期待した。

朱全忠の北進と河陽救援

  • 朱全忠は宋州で兵糧を整え、秦宗権を討つ準備をしていたが、楽従訓の救援要請が届いたため、軍を滑州へ移した。
  • 李唐賓らに歩騎三万を与えて蔡州を攻めさせ、朱珍らには楽従訓救援の別働隊を任せた。
  • 汴軍は白馬から黄河を渡り、黎陽・臨河・李固の三鎮を下した。
  • さらに内黄へ進んで魏軍一万余を破り、将の周儒ら十人を捕えた。
  • 李克用は康君立を南面招討使とし、李存孝・薛阿檀・史儼・安金俊・安休休ら五将、騎兵七千で李罕之を援けて河陽奪還に向かわせた。
  • 張全義は城を固めて守り、妻子を人質に出して朱全忠へ救援を求めた。
  • 王建は彭州を攻めたが、陳敬瑄の救援軍が来ると退き、西川十二州で大掠奪を行った。

夏四月:孫儒、揚州を奪う

  • 庚午、昭宗の母王氏が恭憲皇后と追尊された。
  • 壬午、孫儒が揚州を襲って陥落させ、自ら淮南節度使を称した。楊行密は敗れて逃走した。
  • 行密は海陵へ走ろうとしたが、袁襲が「いまは廬州へ帰って再起を図るべきだ」と勧めたため、これに従った。

河陽戦線の転機

  • 朱全忠は丁会・葛従周・牛存節に数万の兵を授けて河陽を救援させた。
  • 李存孝は李罕之に歩兵で攻城させ、自ら騎兵で温に進んで迎撃しようとしたが、河東軍は敗れた。
  • 安休休は罪を恐れて秦宗権のもとへ逃げた。
  • 汴軍が太行路を断とうとすると、康君立らは帰路を失うのを恐れて撤退した。
  • 朱全忠は丁会を河陽留後とし、張全義を再び河南尹に戻した。
  • 丁会は寿春人、牛存節は博昌人であった。
  • 張全義は朱全忠に命を救われた恩を感じ、以後は全力でこれに尽くした。全忠が出兵するたびに、糧秣と武器の補給を引き受けて不足を出さなかった。
  • 李罕之は沢州刺史・河陽節度使として名目を保ったが、実際には掠奪を専業とし、懐州・孟州から晋州・絳州にかけての広い地域は、十年近く刺史も令長もなく、田畑も煙火も絶えた。
  • 河中・絳州の間の摩雲山は高く険しく、民衆が賊を避けて集まっていたが、李罕之はこれを攻め落としたため、人々は彼を「李摩雲」と呼んだ。
  • 楽従訓は洹水へ移ったが、羅弘信の将・程公信に討たれ、斬られて父楽彦禎とともに軍門にさらされた。
  • 癸巳、羅弘信は厚い贈物をもって朱全忠軍を慰労し、友好修復を願ったので、全忠は軍を引いた。
  • 朝廷は羅弘信を魏博留後とした。
  • 帰州刺史郭禹は荆南の王建肇を討って追い払い、自ら荆南留後となった。戦乱後の荆南は十七家しか残っていなかったが、郭禹は農商の回復に努め、後には万戸近くまで立て直した。
  • 当時、諸藩鎮が互いに争って民生を顧みない中、華州刺史韓建だけは流民を集め農桑を勧めたので、「北に韓建、南に郭禹」と称された。
  • 郭禹はまた秦宗権方の常厚が拠る夔州を将の許存に攻め取らせ、のちに朝廷は郭禹を荆南節度使、王建肇を黔州の武泰節度使とした。
  • 郭禹は本姓本名を復して成汭となった。
  • 李克用には兼侍中の加官がなされた。

五月:朱全忠と趙徳諲

  • 己亥、朱全忠にも兼侍中が加えられた。
  • 趙徳諲は荆南を失い、しかも秦宗権の敗北が避けられないと見て、壬寅、山南東道を挙げて朝廷に帰順した。
  • 彼は同時に朱全忠への従属も望み、全忠はこれを副都統として用いたいと願った。
  • 朝廷は山南東道を忠義軍と改め、趙徳諲をその節度使・蔡州四面行営副都統とした。
  • 朱全忠は洛陽・河陽を手中に収めて西方の憂いを除き、大軍で秦宗権を蔡州南方に破った。
  • 北関門を奪い、秦宗権は中城に籠もった。全忠は諸将を二十八寨に分けてその周囲を取り囲んだ。
  • 李茂貞には検校侍中が加えられた。

王建の名分工作と昭宗の対西川方針

  • 王建は成都がなお堅いのを見て、掠奪も尽き、退兵を考えた。
  • これに対して周庠と綦毋諫は、邛州を根拠地として確保し、さらに朝廷へ陳敬瑄の罪を訴えて大臣を総帥に仰げば、私戦ではなく官軍の形が取れると進言した。
  • 王建は周庠に上表文を作らせ、「陳敬瑄討伐で罪を贖いたい」と願い、併せて邛州を求めた。
  • 顧彦朗もまた、王建の罪を赦し、陳敬瑄を他鎮へ移して両川を安定させるよう求めた。
  • 昭宗は、かつて寿王として蜀へ逃れた際、疲労して動けなくなった自分を田令孜が鞭で無理に歩かせた恨みを忘れていなかった。
  • 即位後に西川へ宦官監軍を派遣して田令孜を召しても、令孜は陳敬瑄を頼んで応じなかった。
  • 昭宗は藩鎮の横暴を抑えたい意図もあり、顧彦朗・王建の上表を利用して、令孜の拠り所たる陳敬瑄を崩そうとした。
  • 六月、韋昭度を西川節度使・両川招撫制置等使とし、陳敬瑄を龍武統軍へ徴した。
  • 王建が綿竹に軍を置くと、何義陽・費師懃ら綿竹一帯の土豪がそれぞれ数千から万の兵で自立していたが、王宗瑤が説得すると、みな軍勢を率いて王建に属し、王建軍は再び勢いを得た。

秋七月:河南・鳳州・魏博

  • 張全義の功により、河南府に佑国軍が置かれ、張全義が節度使となった。
  • 七月、李罕之は河東兵を率いて河陽へ侵入したが、丁会がこれを撃退した。
  • 鳳州は節度府に昇格し、興州・利州をその管下に入れ、満存が節度使・同平章事となった。
  • 羅弘信は正式に魏博節度使となった。

八月:蔡州攻略と宣州包囲

  • 戊辰、朱全忠は蔡州南城を抜いた。
  • 一方、楊行密は孫儒に圧迫されていたため、軽兵で洪州を襲おうと考えた。
  • 袁襲は「鍾伝は江西を長く安定支配しており、兵も食も十分で簡単には崩れない。むしろ新たに宣州を得た趙鍠は乱に乗じて残暴で、人心を失っている。和州の孫端や上元の張雄を誘って採石から渡江させ、趙鍠と戦わせ、その隙にあなたが銅官から渡って挟撃すべきだ」と進言した。
  • 行密はこれに従い、蔡儔に廬州を守らせ、自ら諸将を率いて糝潭から江を渡った。
  • 孫端・張雄は趙鍠に敗れたが、趙鍠の将・蘇塘と漆朗が二万で曷山に屯した。
  • 袁襲はさらに「急いで曷山へ進み、固く守って挑発に応じなければ、敵は我らを恐れていると思って弛む。その時に破ればよい」と言い、行密はその通りにした。
  • 蘇塘らは大敗し、楊行密はそのまま宣州を包囲した。
  • 趙鍠の兄・趙乾之が池州から兵を率いて救援に来たが、行密の将・陶雅が九華でこれを破った。
  • 趙乾之は江西へ逃げ、陶雅は池州制置使となった。

九月:蔡州包囲の一時中止

  • 朱全忠は補給が続かず、また秦宗権はすでに困窮して大きな脅威ではないと見て、包囲を解いて兵を引いた。
  • 丙申、朱珍に兵五千を与えて、楚州刺史劉瓚をその任地へ送らせた。
  • 銭鏐は従弟の銶に兵を授け、蘇州の徐約を攻めさせた。

冬十月:諸方の戦い

  • 徐州兵は朱珍一行を邀撃したが、劉瓚は進軍を止めず、朱珍らは沛・滕の二県を奪い、多数を斬獲した。
  • 孟方立は奚忠信に三万を与えて遼州を襲わせたが、李克修が迎え撃って大破し、忠信を捕らえて晋陽へ送った。
  • 辛卯、僖宗が靖陵に葬られ、廟号を僖宗とした。
  • 陳敬瑄と田令孜は、韋昭度の到着に備えて兵を整え、城を修復して抗戦の構えを固めた。

十一月:徐州・宿州・許州

  • 時溥は自ら歩騎七万を率いて呉康鎮に屯したが、朱珍との戦いに大敗した。
  • 朱全忠は別将を遣わして宿州を攻め、刺史張友を降した。
  • 丙申、秦宗権配下の別将が許州を攻め落とし、忠武留後の王蘊を捕らえた。秦宗権は一時失っていた許州を回復した。

十二月:秦宗権滅亡と西川討伐体制

  • 蔡将の申叢が秦宗権を捕らえ、その足を折って幽閉し、朱全忠に降った。
  • 朱全忠は申叢を蔡州留後に任じた。
  • かつて感義節度使だった楊晟は、興鳳を失ったのち文・龍・成・茂四州に拠っていたが、王建が西川を攻めたため、田令孜は旧部将である楊晟に威戎軍節度使の号を仮授し、彭州を守らせた。
  • 王建が彭州を攻めると、陳敬瑄と眉州刺史山行章は五万を率いて新繁に壁を築き救援した。
  • 丁亥、朝廷は韋昭度を行営招討使とし、山南西道節度使楊守亮を副使、東川節度使顧彦朗を行軍司馬とした。
  • さらに邛・蜀・黎・雅の四州を割いて永平軍を置き、王建を節度使として邛州に治めさせ、行営諸軍都指揮使を兼ねさせた。
  • 戊子、陳敬瑄は官爵を削られた。
  • 山南西道節度使の楊守厚が夔州を陥した。