資治通鑑唐紀七十二 僖宗 光啓 一年 885年

正月 改元と還京の途

  • 黄巢は平定されたものの、秦宗權の脅威を恐れた朝廷は、正月にその招撫を命じた。
  • 己卯、車駕は成都を発した。陳敬瑄は漢州まで見送り、そこから引き返した。
  • 二月、車駕は鳳翔に着き、三月丁卯に京師へ戻った。だが長安は荊棘が生い茂り、狐や兎が走り回る荒廃した都となっており、皇帝は深く痛んだ。
  • 己巳、天下に大赦を行い、元号を光啓と改めた。
  • この時点で、朝廷の号令が実際に及ぶのは河西・山南・剣南・嶺南の数十州にすぎなかった。

荆南・淮南の混乱

  • 荆南では、監軍の朱敬玫が募った忠勇軍が横暴を重ね、節度使の陳儒はこれを憂えていた。かつて鄭紹業が荆南にいたとき、申屠琮に五千を与えて長安で黄巢討伐に参加させたが、帰還後に陳儒は申屠琮を除こうとした。これを知った忠勇軍の程君従は部衆を率いて朗州へ逃れ、申屠琮は追撃して百余人を殺した。以来、申屠琮が軍政を専断した。
  • 雷満がたびたび荆南を攻め、陳儒は賄賂で退かせていた。
  • 一方、淮南から張瓌・韓師徳が高駢に背いて復州・岳州を拠り、陳儒は張瓌を行軍司馬代理、韓師徳を節度副使代理として雷満攻撃に当たらせたが、韓師徳は上峡して略奪し、岳州へ帰った。
  • 張瓌は軍を返して陳儒を追い落とし、自ら代わった。陳儒が行在へ逃れようとすると、張瓌はこれを連れ戻して幽閉した。
  • 張瓌は渭州の人で、貪暴であり、荆南旧将をほとんど滅ぼした。
  • かつて朱敬玫は大将や豪商を殺して蓄財していたが、中使楊玄晦が後任に来ると、なお荆南に留まっていた。張瓌はその財を欲し、夜襲して朱敬玫を殺し、財物を奪い尽くした。
  • 張瓌は牙将の郭禹を勇悍ゆえに憎み、殺そうとしたため、郭禹は千人を率いて逃げ、帰州を襲って自称刺史となった。郭禹は青州の人で、のちの成汭であり、かつて人を殺して逃亡し、姓名を変えていた。

南方諸州の割拠

  • 南康の賊帥・盧光稠は䖍州を陥れ、自ら刺史と称し、同郷の譚全播を参謀とした。
  • 秦宗權が光州刺史の王緒に租税を要求すると、王緒は応じられず、宗權の怒りを恐れて光州・寿州の兵五千を率い、官民を引き連れて南へ渡った。前鋒は劉行全で、江州・洪州・䖍州を荒らし、この月には汀州・漳州も落としたが、どこも長くは保てなかった。
  • 秦宗權が潁州・亳州を攻めると、朱全忠は焦夷でこれを破った。

朝廷と秦宗權、河北諸鎮

  • 秦宗權は帝号を僭称し、百官を置いた。
  • 朝廷は武寧節度使の時溥を、蔡州四面行営兵馬都統として秦宗權討伐の総司令に任じた。
  • 盧龍節度使の李可挙と成徳節度使の王鎔は、李克用の強大化を憎んでいた。
  • 義武節度使の王処存だけは李克用と親しく、姪の王鄴に李克用の娘を娶らせ、河北諸鎮の中でもなお朝廷への帰属意識を保っていた。
  • 李可挙らは、いずれ王処存が山東へ勢力を伸ばすと恐れ、これを先に滅ぼして領地を分けようと相談し、さらに雲中節度使の赫連鐸にも働きかけて、李克用の背後を衝かせようとした。
  • 李可挙は李全忠に六万を与えて易州を攻めさせ、王鎔も将兵を出して無極を攻めた。王処存は李克用に救援を求め、李克用は康君立らを派遣した。

閏月―五月 塩池をめぐる田令孜と王重榮の対立

  • 田令孜が蜀で募った新軍五十四都や、南牙北司の官人は膨れ上がっていたが、藩鎮が租税を独占して中央には上供せず、度支の収入は京畿・同華・鳳翔など数州に限られ、軍の維持も賞賜もままならなかった。
  • もともと安邑・解県の両池の塩は塩鉄使の管理下にあったが、中和年間以来、河中節度使の王重榮がこれを専掌し、毎年三千車を朝廷に献じて国用にあてていた。
  • 田令孜は旧制復帰を奏請し、四月には自ら両池榷塩使を兼ねて、その利を神策軍の養いに回そうとした。
  • 王重榮は上章して強く抗議し、使者の説得にも応じなかった。田令孜は平素から各藩鎮へ親信を送り込んで動静を探らせ、従わぬ者は除こうとしていた。養子の匡祐が河中へ赴くと、王重榮は厚遇したが、匡祐は無礼きわまりなく、河中軍の憤怒を買った。王重榮は田令孜の罪を数え、その無礼を責め立て、監軍が取りなして辛うじて匡祐は脱出した。
  • 匡祐は帰ると王重榮を討つよう勧め、五月、田令孜は王重榮を泰寧節度使に、斉克譲を義武節度使に、王処存を河中節度使に移す人事を強行し、さらに李克用に河東兵を率いて王処存の赴任を援けるよう命じた。

河北での戦い

  • 盧龍軍は易州を攻め、副将の劉仁恭が地道を掘って入城し、これを落とした。劉仁恭は深州の人であった。
  • 李克用は自ら無極救援に赴き、成徳軍を破って新城まで追い、さらに九門まで追撃して万余の首級を挙げた。
  • 盧龍軍は易州を奪ったあと驕りゆるんでいたが、王処存は夜陰に三千を羊皮で身を覆わせて城下へ忍ばせた。敵兵はこれを羊と見誤って奪いに出たところを襲われ、大敗した。易州は再び王処存の手に戻った。
  • 李全忠は敗残兵を率いて幽州へ帰り、李可挙に処罰されるのを恐れて逆に幽州を急襲した。六月、李可挙は窮して一族と楼に登り、自焚して死んだ。李全忠は自ら留後を称した。

洛陽の荒廃

  • 東都留守の李罕之は、秦宗權の将・孫儒と数か月にわたり対峙していたが、兵は少なく食も尽きて、東都を棄てて西の澠池へ退いた。
  • 孫儒は宗権軍の名で東都へ入り、宮室・官寺・民家を焼き払い、大規模な掠奪ののち去った。都城には鶏犬すらいない荒野だけが残った。
  • 李罕之は再び東都へ戻ったが、城が広すぎて守りにくく、住民もいなかったため、市の西に砦を築いてそこに拠った。

七月―十月 常濬の上疏と義昌の変

  • 乙巳、右補闕の常濬は上疏し、朝廷が藩鎮を甘やかしすぎて、是非も功罪も区別しないため天下が乱れているのだと論じ、駱谷越えの艱難を忘れて再び西へ逃げるようなことがあってはならない、典刑を立てて四方を威服すべきだと説いた。
  • だが田令孜の党人は、こんな上疏が藩鎮へ伝われば猜疑を招くと皇帝に言い、常濬は万州司戸に左遷されたのち、まもなく死を賜った。
  • 滄州では軍が乱れて節度使の楊全玫を逐い、牙将の盧彦威を留後に立てた。楊全玫は幽州へ逃れた。
  • 朝廷は保鑾都将の曹誠を義昌節度使とし、盧彦威は徳州刺史とした。

王重榮と田令孜の対立激化

  • 王重榮は、自分には長安回復の功があるのに田令孜に排斥されるとして、兖州赴任を拒み、令孜の離間を論じ、その十罪を数え立てた。
  • 田令孜は邠寧節度使の朱玫、鳳翔節度使の李昌符と結んでこれに対抗した。
  • 王処存もまた、幽州・成徳の兵が退いたばかりで易定を離れられず、かつ王重榮には罪がなく大功があるから軽々しく移すべきでないと上言した。
  • だが朝廷は赴任を急がせ、王処存は軍を率いて晋州まで進んだものの、刺史の冀君武が城門を閉ざして受け入れなかったため、引き返した。

洺州・陳州・王緒軍の変

  • 洺州刺史の馬爽は昭義行軍司馬の奚忠信と対立し、邢州南に兵を起こして孟方立に忠信誅殺を求めたが、やがて兵が散って魏州へ逃れ、忠信は楽彦禎に賄賂を贈って馬爽を殺させた。
  • 秦宗權は二十余州を攻め落としたが、蔡州に近く兵力の弱い陳州だけは刺史の趙犨が日々戦って守り抜き、朝廷は彼を蔡州節度使に任じた。趙犨は朱全忠の支援に感謝し、その娘婿関係を結んで、朱全忠の命令にはただちに応じた。
  • 王緒は漳州まで進むと、道が険しく糧も少ないとして、老弱を従軍させることを禁じたが、王潮・王審知兄弟ら三人だけは母の董氏を支えて従わせた。王緒が法を破ったと責めて母を斬ろうとすると、三人は「母を殺すなら先に我らを殺せ」と願い、将士も取りなして助かった。
  • その後、王緒は望気者の言を信じ、軍中に王者の気があるとして、自分より勇略があり体格の立派な者を殺し始め、劉行全も殺したため、兵は皆わが身の危険を感じた。
  • 南安に至ると、王潮は前鋒将に対し、「我らは望んで盗賊になったのではなく、王緒に脅されているだけだ。彼は猜疑深く無辜を殺しており、次はあなたが危ない」と説いた。
  • 前鋒将は計略を問うて王潮の策に従い、竹藪に壮士を伏せて王緒を襲い、生け捕って縛った。軍中は歓声を上げた。人々は王潮を推して主とし、王潮は当初辞退したが、ついに将軍に推戴された。
  • 王潮は当初、光州へ帰るつもりだったが、沙県に至ると泉州の張延魯ら耆老が牛酒を捧げて迎え、貪暴な刺史・廖彦若に代わって州に留まってほしいと請うたため、王潮は泉州を包囲した。

秋九月―十二月 四川・荆南・河東・沙苑の前夜

  • 九月、陳敬瑄は三川および峡内諸州の都指揮制置等使に任じられた。これは田令孜の後押しによるものであった。
  • 蔡軍が荆南を包囲すると、馬歩使の趙匡は前節度使の陳儒を奉じて出ようとしたが、留後の張瓌に察知され、趙匡と陳儒はともに殺された。
  • 十月、秦宗權は八角で朱全忠を破った。
  • 王重榮は李克用に救援を求めた。李克用はもともと朱全忠が上源駅で自分を襲った件を朝廷が裁かなかったことを怨み、兵馬を集めていたが、王重榮から「先に君側の悪を除けば、その後で朱全忠を討つのは容易だ」と説かれた。
  • 朱玫と李昌符も内々には朱全忠に通じていたため、李克用は二人が朱全忠と表裏一体で自分を滅ぼそうとしていると上奏し、翌年に渭北から二鎮を討つと宣言した。
  • これに対し皇帝は使者を重ねて和解を勧めたが、朱玫は朝廷に李克用討伐を決意させようとして、しばしば京城に工作員を潜入させ、倉庫に火をかけたり近侍を刺したりして、李克用の仕業だと流言させた。
  • 田令孜は朱玫・李昌符に加え、神策・鄜延・霊夏などの兵を各三万と称して沙苑に屯させ、王重榮を討とうとした。
  • 十一月、王重榮は同州刺史の郭璋を攻め、郭璋は戦死した。王重榮は朱玫らと一か月余り対峙し、その間に李克用も兵を率いて来援し、沙苑に並んで陣を張った。
  • 両者は令孜・朱玫・李昌符の誅殺を請願したが、朝廷は和解を命じるばかりで、李克用は従わなかった。
  • 十二月癸酉、沙苑で合戦が行われ、朱玫・李昌符の軍は大敗し、それぞれの本鎮へ逃げ帰った。敗残兵は途中で焚掠を働いた。
  • 李克用はそのまま京城へ迫り、乙亥の夜、田令孜は天子を奉じて開遠門から鳳翔へ逃れた。黄巢の去ったあと王徽がようやく修復した長安は、またしても乱兵に焼かれ、残るものはほとんどなくなった。
  • この年、河中軍には護国の軍号が与えられた。