資治通鑑唐紀七十 僖宗 中和 一年 881年

正月:成都への行幸

  • 正月、皇帝は興元を発って成都へ向かった。牛朂には同平章事が加えられた。
  • 陳敬瑄は、供奉の兵や近侍が驕って統制しにくいことを警戒した。先に成都へ着いていた内園小児のひとりが、西川を蛮地だと馬鹿にしていたが来てみれば悪くないと笑ったため、陳敬瑄はこれを捕えて杖殺しにし、以後は誰も軽挙できなくなった。
  • 辛未に綿州へ至り、東川節度使の楊師立が拝謁した。
  • 壬申、蕭遘が宰相に任じられた。

鄭畋、黄巢使者を斬る

  • 鄭畋は前朔方節度使の唐弘夫、涇原節度使の程宗楚と協力して黄巢討伐を進めようとしていた。
  • 黄巢は将の王暉に詔を持たせて鄭畋を召そうとしたが、鄭畋はこれを斬り、その子の凝績を行在所へ走らせた。
  • 皇帝は漢州でこれを受け取り、ほどなく成都へ到着した。

高駢への期待と、田令孜への屈折

  • 皇帝は高駢に黄巢討伐を急がせる使者をたびたび出したが、高駢はついに兵を出さなかった。
  • それでも朝廷はなお高駢に期待し、配下の刺史や諸将で功ある者には監察から常侍に至るまで、いったん墨勅で任命して事後報告してよいという大きな便宜を与えた。
  • 裴澈は賊中から脱出して行在所へ来た。まだ百官が揃わず、詔勅を書ける者が足りない中で、右拾遺の楽朋龜は田令孜に面会すると拝礼し、そのため翰林学士へ抜擢された。
  • 張濬も先に田令孜へ拝礼していたが、ある酒宴で人前での拝礼を恥じて事前に別室でだけ挨拶したところ、田令孜は「自分とは清濁を異にすると言いながら陰では礼を取るのか」と皮肉り、張濬はひどく恥じ入った。

二月:王鐸を大都統に

  • 王鐸が守司徒・同平章事となり、まもなく諸道行営都都統として京師奪還の総指揮を執ることになった。高駢は塩鉄転運使のみを領し、都統などの兵権は奪われた。
  • 鄭畋にも同平章事が加えられた。
  • 高駢には東面都統、鄭從讜には兼侍中を加えつつ行営招討使のままとした。

代北・沙陀の動き

  • 代北監軍の陳景思は、沙陀酋長の李友金、薩葛・安慶・吐谷渾など諸部を率いて京師救援に向かったが、絳州まで来て黄河を渡ろうとした際、絳州刺史の瞿稹が、賊勢がまだ盛んなので軽進せず、いったん代北へ帰って兵を募るべきだと説いた。
  • そこで景思と瞿稹は雁門へ引き返した。

朱温、鄧州を奪う

  • 黄巢は朱温を東南面行営都虞候として鄧州攻撃に向かわせた。
  • 三月、朱温は鄧州を陥落させ、刺史の趙戒を捕え、その地に駐屯して荊襄方面を扼した。

鄭畋、鳳翔で勝つ

  • 三月、鄭畋は京城四面諸軍行営都統となり、蕃漢を問わず赴難の功ある将士には自ら墨勅で官を授けられる権限を与えられた。
  • 鄭畋は程宗楚を副都統、唐弘夫を行軍司馬とした。
  • 黄巢は尚讓・王播に五万を与えて鳳翔へ侵攻させたが、鄭畋は唐弘夫に伏兵を置かせ、自らは数千の兵で旗を大きく張り、疎らな陣を高岡に布いた。
  • 賊は鄭畋を文人あがりと侮って秩序を崩して進んだところを伏兵に襲われ、龍尾陂で大敗し、二万余の首級を失った。

黄巢の恐怖政治

  • 長安では、尚書省の壁の間に賊を嘲る詩が書かれているのが見つかり、尚讓は激怒した。
  • 省中の官や門卒の目をえぐって逆さ吊りにし、さらに詩を作れる者を城中から大索し、ことごとく殺した。字の読める者は賤役に回され、殺された者は三千余に及んだ。

李克用再召の議

  • 瞿稹と李友金は代州で半月ほどの間に三万の兵を募ったが、北方諸胡の寄せ集めで、荒々しく横暴で統制がとれなかった。
  • 李友金は陳景思に対し、自分たちだけでは威信ある統帥が足りないので、兄の司徒李国昌父子を赦して呼び戻せば、代北の人心は一挙に呼応し、賊平定は難しくないと説いた。
  • 景思はこれを奏聞し、朝廷はその請いを許した。
  • 李友金は五百騎で詔を携えて達靼の地へ赴き、李克用を迎えた。李克用は達靼諸部一万人を率いてこれに応じた。

成都行在の体制整備

  • 成都には皇帝を追ってきた群臣が次第に集まり、南司・北司あわせて朝する者は二百人近くになった。
  • 諸道や周辺異民族からの貢献も絶えず、蜀中の府庫は豊かで、賞賜も不足せず、士卒は喜んだ。
  • 王徽は黄巢に捕えられて官に就くよう迫られたが、口がきけないふりをして拒み続け、一か月余の後に河中へ逃れ、間道から絹の表文を行在所へ送った。朝廷はこれを受けて兵部尚書に任じた。
  • 諸葛爽も再び河陽から唐へ帰順を申し入れ、そのまま河陽節度使に留め置かれた。

夏四月:各地の勤王軍

  • 宥州刺史の拓跋思恭は党項の有力者で、夷夏の兵を糾合して鄜延節度使の李孝昌と鄜州で盟を結び、賊討伐に当たった。
  • 奉天鎮使の齊克儉も鄭畋に使者を送り、功を立てたいと申し出た。
  • 鄭畋は天下の藩鎮へ檄を飛ばして合兵を促した。皇帝が蜀にいるため朝命は諸方に通じにくく、朝廷は再起不能と見られがちだったが、この檄が届くと諸鎮は競って兵を出した。賊は恐れて京西方面へ容易に手を伸ばせなくなった。

王鐸・拓跋思恭への加任

  • 四月、王鐸に侍中が加えられ、拓跋思恭は夏綏節度使の権知となった。これはのちに拓跋氏が西夏方面で勢力を伸ばす前触れでもあった。

朱玫の挙兵

  • 黄巢は将の王玫を邠寧節度使に任じたが、邠州通塞鎮将の朱玫がこれに反発して兵を挙げ、討伐に乗り出した。
  • 朱玫は別将の李重古を節度使に立て、自ら兵を率いて黄巢と戦った。

長安一時回復と失敗

  • このころ、唐弘夫は渭北、王重榮は沙苑、王處存は渭橋、拓跋思恭は武功、鄭畋は盩厔に屯していた。
  • 唐弘夫は龍尾陂の勝利に乗じて長安へ迫り、壬午、黄巢は東へ退却した。程宗楚が先に延秋門から入城し、唐弘夫がこれに続き、王處存も精鋭五千を率いて夜中に入った。
  • 坊市の民は大いに喜び、官軍を迎え、瓦礫を賊へ投げ、落ちた矢を拾って官軍に渡す者までいた。
  • しかし程宗楚らは他軍に功を分けたくないとして鳳翔・鄜夏への連絡を怠り、兵士は武装を解いて邸宅に入り、金帛や妓妾を略奪した。
  • 王處存は兵に白い頭巾を目印とさせたが、坊市の若者がこれを盗んで人を掠める者も出た。
  • 黄巢軍は覇上に露営して情勢をうかがい、官軍の布陣が整わず、諸軍も続かないことを知ると、反転して各門から長安へ突入した。
  • 大戦の末、程宗楚・唐弘夫は戦死し、略奪で重荷を負った兵が逃げきれず、官軍は大敗した。死者はほとんど十の八九に及んだ。王處存は残兵をまとめて退いた。
  • 丁亥、黄巢はふたたび長安へ入り、民が官軍に味方したことを怒って、兵に城中の大殺戮を命じた。血が川のように流れ、「洗城」と呼ばれた。これにより諸軍はみな退き、賊勢はかえって強まった。

華州・東渭橋の戦い

  • 黄巢が長安をいったん離れた際、同州刺史の王溥、華州刺史の喬謙、商州刺史の宋巖はそろって鄧州へ逃れた。
  • 朱温は王溥を斬り、喬謙も処断し、宋巖だけは商州へ帰した。
  • 拓跋思恭と李孝昌は王橋で賊と戦ったが敗れた。
  • 朝廷は王重榮を正式に河中節度使とした。

高駢の空威張り

  • 広陵の府舎に雉が二羽集まり、占いでは「野鳥が城邑に集まるのは、やがて城が空になる兆し」とされた。高駢はこれを嫌った。
  • そこで四方へ檄を飛ばし、黄巢討伐のため巡内の兵八万、舟二千艘を大々的に動員して東塘に駐屯した。旗幟も甲兵も壮観だった。
  • しかし諸将がしきりに出陣日を問うても、高駢は風浪や日取りの悪さを口実にして進まず、ついに出兵しなかった。

李克用、河東を脅かす

  • 李克用は河東に対し、詔を奉じて黄巢討伐に五万で赴くから、宿営と駅伝の用意をせよと通達した。
  • 鄭從讜は城門を閉ざしてこれに備えたが、李克用は汾水東岸に屯し、資糧を受け取っても動かなかった。
  • やがて自ら城下へ来て大声で面会を求め、さらに追加の軍賞も要求した。鄭從讜は銭千緡と米千斛を与えて退去させようとしたが、李克用は翌日、沙陀兵を放って居民を掠奪させた。
  • 鄭從讜は振武節度使の契苾璋に救援を求め、契苾璋は突厥・吐谷渾の兵を率いて救援し、沙陀の二寨を破った。李克用は追撃して晋陽城南まで戦い、契苾璋は城内に入り、沙陀は陽曲・榆次を掠めた。

忠武軍と楊復光の離反工作

  • 黄巢が長安を陥れた際、忠武節度使の周岌はこれに降っていた。ある夜宴で、周岌は監軍の楊復光を急に呼んだ。
  • 左右は危険だと止めたが、楊復光は「この状況で自分だけ助かろうとは思わない」と赴いた。
  • 酒が回ると周岌は唐朝のことを語り、楊復光は涙ながらに、匹夫から公侯にまでなった恩を忘れて十八代の天子を捨てるのかと諭した。
  • 周岌も涙を流し、自分一人では賊に逆らえないので表面上は従っているだけで、内心は討とうとしていると明かし、その夜、酒をそそいで盟約した。
  • その晩、楊復光は養子の守亮に命じて賊の使者を驛で殺させた。
  • さらに秦宗權が蔡州に拠って周岌の命に従わないため、楊復光は忠武兵三千を率いて蔡州へ赴き、秦宗權を説得して共に黄巢討伐へ立たせた。
  • 秦宗權は将の王淑に三千を率いさせて従わせたが進軍をためらったため、楊復光は王淑を斬り、その兵も併せて再編した。
  • 忠武兵八千を八都に分け、鹿晏弘・晉暉・王建・韓建・張造・李師泰・龐從ら八人に率いさせた。王建・韓建らがここで初めて大きく史上に現れる。
  • 楊復光はこの八都を率いて朱温を破り、鄧州を奪回し、さらに藍橋まで追って引き返した。

華州奪回・李克用の北帰

  • 昭義節度使の高潯は王重榮とともに華州を攻めて奪回した。
  • 六月、鄭畋に司空・同平章事が加えられた。
  • 李克用は大雨に遭って北へ引き返し、その途中で忻州・代州を陥れ、そのまま代州にとどまった。
  • 鄭從讜は教練使の論安らを百井へ派遣して備えさせた。

興平方面の戦い

  • 邠寧節度副使の朱玫は興平に駐屯していたが、黄巢の将の王播に攻囲されると奉天へ退いた。
  • 西川の黄頭軍使の李鋌は一万人、鞏咸は五千人を率いて興平に二寨を置き、黄巢軍とたびたび戦って勝った。
  • 陳敬瑄はさらに神機営使の高仁厚に二千を率いさせて援軍とした。

七月:中和改元

  • 七月、年号を中和と改め、天下に大赦した。
  • 韋昭度が宰相に任じられた。
  • 鄭從讜は、百井から無断で引き揚げた論安を、靴も脱がせぬまま斬り、その一族を滅ぼした。温漢臣を再び百井へ送った。契苾璋は振武へ帰還した。

成都で郭琪の乱

  • 皇帝が成都へ着いた当初、蜀軍には一人三緡の賞が出たが、田令孜が行在都指揮処置使となってからは、各地の貢献する金帛をもっぱら従駕諸軍へ分配し、蜀軍には回らなくなったので、不満が広がった。
  • 丙寅、田令孜が土軍・客軍の都頭を宴席に招いて金杯で酒を振る舞い、杯を与えたところ、西川黄頭軍使の郭琪だけが受け取らず、蜀軍と従駕軍の賞賜の差が大きすぎて変事を招くおそれがあると直言した。
  • 郭琪は自分の戦歴も挙げて発言したが、田令孜は別の盃の酒を与えた。郭琪は毒入りと察しつつ拒めずに飲み、帰って婢を殺してその血を吸って解毒し、黒い汁を数升吐いたという。
  • ついに郭琪は配下を率いて乱を起こし、坊市を焼き掠めた。田令孜は皇帝を奉じて東城に立てこもり、諸軍に攻撃を命じた。郭琪はいったん引いたが、陳敬瑄が都押牙の安金山に討たせると、夜に包囲を破って広都へ逃げた。
  • 配下はみな潰散し、役人一人だけが従った。郭琪はその者に、自分の印と剣を持って陳敬瑄へ行き、自分は川を渡る途中に斬り落とされて流されたと報告せよと命じた。陳敬瑄はその話を信じ、印剣を市に掲げて民心を鎮めたため、郭琪の家族は守られた。郭琪本人は揚州へ向かい高駢を頼るつもりだと語った。

孟昭図の諫死

  • 皇帝は日夜、宦官とだけ国家大事を議し、外廷の臣下を著しく疎んじた。
  • 左拾遺の孟昭図は上疏し、治平の時代でさえ遠近同心が必要なのだから、このような乱世では中外が一体でなければならない、昨冬の西幸では南司に何も知らせず、そのため宰相・僕射以下が賊に殺されたのに北司だけが無事だった、さらに郭琪の乱の際にも宰相以下を召し入れず、翌日も宰相や朝臣を慰撫しなかったのは義に背く、天下は北司の私物ではないと厳しく諫めた。
  • しかし田令孜はこの奏疏を皇帝に見せず、辛未、偽詔によって孟昭図を嘉州司戸に左遷し、そのまま蟇頤津で溺殺した。人々は怒り塞がったが、口に出す者はいなかった。

その後の勤王軍人事

  • 李孝昌・拓跋思恭は東渭橋に屯し、黄巢は朱温を差し向けてこれを拒ませた。
  • 王處存は東南面行営招討使に任じられ、朱玫は邠寧節度使となった。

八月:徐州・淮南・江東の動き

  • 八月、徐州では支詳の配下だった時溥・陳璠が五千を率いて関中救援へ向かったが、東都まで進むと支詳の命と偽って軍を引き返し、陳璠と結んで河陰を屠り、鄭州を掠めつつ東へ戻った。
  • 彭城へ帰ると支詳は厚く迎えたが、時溥は親しい者に、衆心に迫られて節印を譲ってほしいと迫り、支詳は抵抗できず大彭館へ退いた。
  • 陳璠は、支詳を生かせば後悔の種になると主張し、時溥が許さなかったので、七里亭で伏兵を置いて支詳一家を殺した。
  • 朝廷は時溥を武寧留後とし、時溥は陳璠を宿州刺史にしたが、陳璠が赴任先で貪虐だったため、のちに張友に代えさせて殺した。

蔡州・光州・王潮兄弟

  • 楊復光は、蔡州を奉国軍に昇格させ、秦宗權を防御使にするよう奏請した。
  • 寿州の屠者である王緒は、妹婿の劉行全とともに五百人を集めて本州を奪い、ほどなく光州も陥れ、自ら将軍と称して一万余を擁した。
  • 秦宗權は王緒を光州刺史に推薦した。
  • 固始県佐の王潮、その弟の王審邽・王審知はこのころ才気をもって知られており、王緒は王潮を軍正使として兵糧管理・兵士検閲を任せ、深く信用した。

華州再失・南詔との修好

  • 高潯は石橋で黄巢将の李詳と戦って敗れ、河中へ逃れた。李詳は勢いに乗って再び華州を奪い、黄巢は彼を華州刺史とした。
  • 拓跋思恭は正式に夏綏節度使となった。
  • 宗正少卿の嗣曹王龜年が南詔から帰還し、驃信が唐に服属し詔命に従う意を表したことを報告した。
  • 李孝昌・拓跋思恭は東渭橋で尚讓・朱温と戦って敗れ、退いた。諸鎮の勤王軍は総じて老兵化し、長期化の中で進撃をためらっていた。

高駢と周寶の対立

  • 高駢と鎮海節度使の周寶は、ともに神策軍出身で、もとは高駢が兄事していたが、高駢が先に富貴と功績を得ると周寶を軽んじるようになり、境界の細事でもたびたび争って仲が悪くなった。
  • 高駢が周寶に京師救援を命じると、周寶は水軍を整えたが、高駢がなかなか出兵しないので幕僚に理由を問うた。ある者は、高駢は朝廷の多難を利用して江東を併呑する気であり、救援は口実にすぎず自分を狙っているのではと警告した。
  • 周寶は使者を出してうかがわせたところ、高駢に本気で北上する様子がないと知った。
  • しかも高駢が瓜洲で面会して軍議をしようと言ってきたため、周寶は罠だと考え、病と称して行かず、使者に対して高駢が李康討伐のときのように家門の武功を偽装して朝廷を欺く気かと言い放った。
  • 高駢は怒って重ねて責めたが、周寶は、同じく節度使として江を挟んで対しているのに自分を坊門の門番扱いするなと罵った。以後、両者は深く憎み合った。
  • 高駢は東塘に百余日も留まり、朝廷の督促にも、周寶や劉漢宏が後患になると訴えて出兵をやめ、八月には軍を引いて揚州へ戻った。実際には救援の意思などなく、雉の不吉を祓いたかっただけだとされる。

錢鏐の初出と杭州の変

  • 高駢は石鏡鎮将の董昌を広陵へ呼び、共に黄巢を討とうとしたが、董昌の部将だった錢鏐は、高駢には討賊の気がなく、郷里防衛を理由に帰るべきだと進言した。董昌はこれに従い、高駢も帰還を許した。
  • ちょうど杭州刺史の路審中が赴任の途中で嘉興にいたところ、董昌は石鏡から兵を率いて杭州へ入り、路審中は恐れて引き返した。
  • 董昌は杭州都押牙知州事を自称し、将吏を周寶のもとへ送って追認を求めた。周寶は抑えきれず、董昌を杭州刺史として上表した。

各地の地方反乱

  • 臨海賊の杜雄が台州を陥れた。
  • 皇子の震が建王に立てられた。
  • 昭義軍では十将の成麟が高潯を殺して潞州へ戻り、ついで天井関戍将の孟方立が兵を起こして成麟を殺し、自ら留後を称した。
  • 忠武監軍の楊復光は武功に屯した。
  • 永嘉の賊の朱褒が温州を陥れた。

十月:鳳翔で李昌言が兵権掌握

  • 鳳翔行軍司馬の李昌言は本軍を率いて興平に駐屯していたが、鳳翔では倉庫が空になり、恩賞も薄く、兵糧補給も続かなくなっていた。
  • 李昌言は、府城に兵が少ないのを見て意図的に兵の不満をあおり、十月、軍を率いて引き返し鳳翔府城を襲った。
  • 鄭畋が城上から将兵に語りかけると、兵は馬を下りて並んで拝礼し、自分たちが裏切られたわけではないと訴えた。
  • 鄭畋は、李昌言がもし兵を統制し民を愛して国のため賊を滅ぼすなら、そのまま節度を守ってもよいと諭し、留務を委ねてただちに行在所へ向かった。

十一月:曹全晸戦死・鄭畋退任

  • 天平節度使の南面招討使だった曹全晸が賊との戦いで戦死し、軍中ではその兄の子の曹存実を留後に立てた。
  • 孟楷・朱温が富平で鄜夏二軍を襲い、これを破って両軍はそれぞれ本道へ逃げ帰った。
  • 鄭畋は鳳州へ至ってたびたび辞表を出し、朝廷はこれを容れて太子少傅分司とし、李昌言を鳳翔節度使兼行営招討使にした。
  • 裴澈は鄂岳観察使に出され、周寶には同平章事が加えられた。
  • 遂昌の賊の盧約が処州を陥れた。

十二月:湖南・荆南・湖南西部の群雄化

  • 江西の将の閔朂が湖南の守備から戻る途中、潭州で観察使の李裕を追い出し、自ら留後となった。
  • 時溥は正式に感化軍節度使となり、夏州には「定難軍」の号が与えられた。
  • 高駢が荊南節度使だったころ牙将に取り立てていた武陵蛮の雷満は、淮南から逃げ帰って一千人を集め、朗州を襲って刺史の崔翥を殺した。朝廷は雷満を朗州留後としたが、彼は年に三、四度荊南へ侵入して城外を焼き掠め、大きな害となった。
  • 陬溪の周岳も雷満と争った旧縁から兵を集め、衡州を襲って刺史の徐顥を追い出した。朝廷は周岳を衡州刺史に任じた。
  • 石門蛮の向瓌も夷獠数千を集めて澧州を陥れ、刺史の呂自牧を殺して自ら刺史を称した。

王鐸、みずから出征を請う

  • 王鐸は、高駢が諸道都統の地位にありながら黄巢討伐にまったく本気でないことに怒り、みずから宰相として責任を負うべきだとして、涙ながらに出征を再三願い出た。
  • 皇帝はこれを許し、翌年正月、王鐸を諸道行営都都統に任じる布石となった。