資治通鑑唐紀六十九 僖宗 廣明元年 一年 880年

正月・改元と沙陀南侵

  • 正月朔日、改元して廣明元年となった。
  • 沙陀は雁門関から侵入し、忻州・代州を寇した。

二月・河東節度使康伝圭の失政と最期

  • 庚戌、沙陀二万余が晋陽へ迫り、翌日には太谷を落とした。
  • 朝廷は諸葛爽に東都防禦兵を率いさせて河東救援に向かわせた。
  • しかし河東節度使康伝圭は威刑ばかりを事とし、私怨で報復し、富民の財を奪っていた。前遮虜軍使蘇弘軫を太谷方面へ出したが、秦城で敗れるとただちに斬った。実際には沙陀はすでに代北へ退いていた。
  • さらに都教練使張彦球に三千を率いさせて追わせたが、壬戌、百井で軍が変を起こし、晋陽へ引き返した。康伝圭は城門を閉じて拒んだため、乱兵は西明門から入って康伝圭を殺した。
  • 監軍周従寓が出て慰撫し、張彦球を府城都虞候にしてようやく鎮まった。
  • 朝廷は、節度使殺害は一時の暴発だとして兵士たちを安心させる宣慰を出した。

侯昌業の死諫

  • 左拾遺侯昌業は、関東に盗賊が満ちるのに皇帝は政務を親らず、遊興・賜与は度を越え、田令孜が専横して天変地異も続くと、きわめて激しく諫めた。
  • 皇帝は激怒して侯昌業を内侍省へ召し、自殺を命じた。
  • 胡注は、後世に伝わる上疏文には偽作らしい部分もあるが、時弊を強く言って死を招いた事実自体は動かしがたいとみる。

僖宗の遊芸と財政策

  • 皇帝は騎射・剣槊・算術・音律・蒲博に至るまで多芸で、特に蹴鞠や闘鶏を好み、諸王と鵝を賭けて遊んだ。鵝一羽に五十緡もの値がついたという。
  • 度支は費用不足のため富戸と胡商の財貨の半分を借り上げようとしたが、塩鉄転運使高駢が、盗賊蜂起の原因は飢寒であって、まだ富戸・胡商まで追い詰めるべきでないと奏し、中止させた。
  • 高駢はまた、楊子院を発運使に改組するよう奏上した。

三月・西川に陳敬瑄、河東に鄭従讜

  • 庚午、左金吾大将軍陳敬瑄が西川節度使に任じられた。彼は許州の人で、田令孜の実兄である。若いころ崔安潜に兵馬使を求めたが拒まれ、その後、田令孜の力で神策軍から大将軍にまで進んでいた。
  • 田令孜は関東の乱が深まるのを見て、ひそかに蜀行きの備えを進めており、陳敬瑄・楊師立・牛朂・羅元杲の四人に三川を分け与えるつもりだった。皇帝に四人で撃毬をさせ、その勝者の陳敬瑄を西川に決めたという。
  • 辛未、門下侍郎同平章事の鄭従讜が、宰相のまま河東節度使となった。河東兵の驕慢が甚だしかったので、朝廷は宰相本人を送り込んで抑えようとしたのである。
  • 鄭従讜は王調・劉崇亀・趙崇・劉崇魯ら名士を幕僚に選び、当時「小朝廷」と呼ばれた。
  • 彼は温厚な外見ながら決断力があり、悪事を働こうとする将兵を先回りして処罰し、善意の者は信任したため、軍中はしだいに落ち着いた。張彦球の実力を見抜き、百井の変は本心ではないとして重用し、軍権を委ねたところ、張彦球も尽力した。

高駢、諸道行営都統に

  • 高駢の将張璘らは黄巢軍に対して連勝しており、盧攜は高駢を諸道行営都統に推した。
  • 高駢は全国に檄を飛ばして兵を徴発し、土着兵と客兵を合わせて七万を集め、威望は大いに高まった。朝廷も深く期待を寄せた。
  • 胡注は、高駢が都統となった時期について諸史に異同があるが、王鐸の都統と重複しない形で理解すべきだと整理している。

安南・荆南の混乱

  • 安南では軍が乱れ、節度使曾衮は城外へ避難した。邕管へ戍していた諸道兵も続々と帰還した。
  • 四月、李琢が蔚朔等州招討都統行営節度使となった。李琢は李聴の子である。
  • 張璘は江を渡って賊将王重霸を降し、黄巢をしばしば破って饒州へ追い詰めた。別将常宏も数万を率いて降った。張璘は饒州を落とし、黄巢を走らせた。
  • ただし江淮諸軍は戦果をしばしば誇大に奏上しており、朝廷も宰相以下が賀表を出して、自らを安心させていたと胡注は皮肉る。

田令孜の三川人事

  • 朝廷は李琢を蔚朔節度使兼都統とし、楊師立を東川節度使、牛朂を山南西道節度使に任じた。これは田令孜の意向によるものである。

荆南で宋浩が殺される

  • 劉巨容が襄陽へ引き返した後、楊復光は忠武都将宋浩に荆南府事を代行させ、泰寧都将段彦謩に兵を守らせた。
  • 朝廷は宋浩を荆南安撫使にしたが、段彦謩は自分がその下に置かれたのを恥じて不満を抱いた。
  • 宋浩が街中の槐柳を切ることを禁じ、段彦謩配下の兵を杖打ちにすると、段彦謩は激怒して刀を持って押し入り、宋浩とその二子を殺した。
  • 楊復光は、宋浩が苛酷であったため衆に殺されたと報告し、朝廷は段彦謩を朗州刺史に、鄭紹業を荆南節度使にした。

五月・諸葛爽の転任と劉漢宏

  • 五月、諸葛爽は振武節度使となった。
  • 劉漢宏の勢力は次第に強まり、宋州・兗州に侵入して掠奪したため、朝廷は東方諸道に討伐を命じた。

信州の疫病、高駢の失策、張璘戦死

  • 黄巢は信州に駐屯中、疫病に苦しみ兵卒が多く死んだ。張璘は急追してこれを圧迫した。
  • 黄巢は金品を張璘に贈り、高駢に降伏を願う書を送って節鉞を求めた。高駢はこれを真に受け、節度使任命を朝廷に求めると約束した。
  • そのころ昭義・感化・義武など諸軍が淮南に集まりつつあったが、高駢は功を独占したいがために、賊は間もなく平定できるとして諸軍を帰還させるよう奏請し、朝廷もこれを許した。
  • 黄巢は諸道兵が北へ去ったのを探り知ると、高駢と絶交して戦いを挑んだ。高駢は怒って張璘を出したが、張璘は敗死した。これによって黄巢の勢いは再び盛り返した。
  • 胡注は、高駢が賊を意図的に放ったという説には疑いを示し、実際には過信の末に張璘を失い、恐れて抑えられなくなったのだろうと論じる。

宦官人事と権勢の増大

  • 乙亥、西門思恭を鳳翔監軍に、丙子、李順融を枢密使にし、いずれも閤門で白麻を降して将相同様の待遇を与えた。
  • 胡注は、これは末唐における宦官権力の増大を示すものだと説明する。

西川の妖人騒ぎ

  • 西川では、身分の低かった陳敬瑄が新節度使と聞いて、蜀人は何者かわからず驚いた。
  • そこへ青城の妖人が「陳僕射」と称して一党を率いたが、馬歩使瞿大夫が虚妄を見抜き、狗血を浴びせて白状させ、一味をすべて誅した。

六月・盧攜病み、李琢の進撃

  • 盧攜は中風で歩行もままならず、長く病欠していたが、六月にようやく入対した際には拝礼を免ぜられ、黄門が両脇を支えた。
  • それでも内では田令孜、外では高駢に依拠し、なお朝政を専断していた。病が重くなると、政務の可否は親吏の楊温・李修に左右され、賄賂が横行した。豆盧瑑は攜に追随するばかりで、崔沆の建言もしばしば抑えられた。
  • 庚子、李琢は沙陀二千が降ったと奏上した。彼は一万人を率いて代州に駐屯し、李可挙・赫連鐸とともに沙陀を討っていた。
  • 李克用は大将高文集に朔州を守らせ、自らは雄武軍で李可挙に当たった。赫連鐸が高文集を説得すると、高文集は李克用の将傅文達を縛り、沙陀の酋長李友金、薩葛都督米海万、安慶都督史敬存らとともに李琢へ降り、城門を開いて官軍を迎えた。

黄巢、宣州を陥し、劉漢宏は申・光へ

  • 庚戌、黄巢は宣州を攻め落とした。
  • 劉漢宏は南へ進んで申州・光州を掠めた。

六月末・南詔和親方針の転換

  • 趙宗政が南詔へ帰ると、西川節度使崔安潜は、先の崔澹の意見が正しいとして、南詔は本来雲南一郡ほどの小蛮であり、和議を求めても臣下の礼を取らぬなら、かえって中国の弱さを見せるだけだと奏した。
  • 盧攜・豆盧瑑はこれに対し、近年の南詔との戦争で国家財政と民力が疲弊し、中原の乱もその余波だと述べたうえで、今は安南も邕管も不安定であるから、まずは正式な臣従を求めずとも和親を急ぐべきだと主張した。
  • 皇帝はこれを容れ、陳敬瑄に詔して、南詔に臣下の礼を強いず和親を許し、金帛を増して与えさせ、嗣曹王亀年を使者、徐雲虔を副使、さらに内使も加えて派遣した。

七月・黄巢が采石から淮を圧迫

  • 黄巢は采石から長江を渡り、天長・六合を包囲した。
  • 畢師鐸は高駢に、いま賊数十万が勝勢に乗って長駆しており、ここで淮水の前で撃たなければ中原の大患になると進言した。
  • しかし高駢は、諸道兵をすでに散らし、張璘も失って、自力で賊を制圧する自信を失っていた。出兵せず、諸将に固守だけを命じ、賊六十余万が天長にいて自城まで五十里もないと朝廷に告急した。
  • かつて盧攜は高駢を文武の長才として持ち上げ、天下も多少は期待していたが、この上表が届くと上下ともに失望し、人心は大いに動揺した。
  • 朝廷は、諸道兵を帰したために賊を無備のまま江北へ渡らせたと責めたが、高駢は、諸軍帰還も自分の独断ではなく、今は一方を守りきるので、東道諸州に防備を急がせよと答え、以後は風痺を理由に出戦しなかった。

河南防備と劉漢宏の降

  • 朝廷は河南諸道に兵を出して溵水に屯させ、泰寧節度使斉克讓には汝州に屯して黄巢に備えさせた。
  • 辛酉、曹全晸を天平節度使兼東面副都統にした。
  • 劉漢宏が降伏を願ったため、戊辰、宿州刺史に任じた。胡注は、その奏表が朝廷の除授より後に届いた事情を説明している。

七月~八月・李克用父子の敗北と達靼逃亡

  • 李克用は雄武軍から還って朔州の高文集を攻めたが、李可挙は行軍司馬韓玄紹を薬児嶺に伏せておき、大いに破って七千余を斬った。李尽忠・程懐信も戦死した。
  • さらに雄武軍周辺でも再び大敗し、一万人を失った。
  • 李琢・赫連鐸は蔚州へ進み、李国昌は敗れて部衆が潰散し、李国昌・李克用父子は宗族だけを率いて北の達靼へ逃げ込んだ。
  • 朝廷は赫連鐸を雲州刺史・大同軍防禦使、白義成を蔚州刺史、米海万を朔州刺史とし、李可挙には兼侍中を加えた。
  • 胡注によれば、達靼はもともと靺鞨の別部で、陰山に移っていた集団である。

達靼での李克用

  • 数か月後、赫連鐸はひそかに達靼へ賄賂を贈り、李国昌父子を捕えさせようとした。
  • だが李克用は達靼の豪帥たちと狩猟や飲酒をともにし、馬鞭の先の木葉や針を射抜くほどの腕前を見せて心をつかんだ。
  • さらに、今は天子に罪を得ているが、もし黄巢が中原を荒らして赦免される時が来れば、あなたがたと南下して大功を立てたい、誰がこんな沙漠で老死したいものかと語った。豪帥たちは大望を感じ取り、彼を害する気を失った。

八月~九月・東都と泗上の敗勢

  • 八月、前西川節度使崔安潜は太子賓客分司に左遷された。盧攜がこれを嫌ったためである。
  • 九月、東都から、汝州で募った兵五百が代州からの帰途に安喜門を焼き、東都の市を掠めて長夏門から去ったと報告があった。
  • 黄巢は十五万を号し、曹全晸は六千でこれに当たり、多少の戦果を上げたが寡兵では支えきれず、泗水のほとりに退いて諸軍の来援を待った。高駢はついに救援しなかった。

九月・薛能の死と溵水防衛線の崩壊

  • 徐州兵三千が溵水へ向かう途中で許昌を通った。徐州兵は荒々しいことで知られたが、忠武節度使薛能は以前に徐州を治めた際の恩信を頼みに、球場に宿泊させた。
  • 夜になると徐兵は騒ぎ、薛能が城楼からなだめて一度は収まった。
  • ところが忠武軍の大将周岌は、溵水へ向かっていたのを引き返して夜明けに許昌へ入り、徐兵を襲って皆殺しにした。薛能が徐兵を厚遇したことを恨んで、そのまま薛能と一族を追って殺し、自ら留後を称した。
  • 汝州・鄭州方面の把截制置使斉克讓は、周岌に襲われるのを恐れて兗州へ引き返した。
  • こうして溵水に屯していた諸道兵はすべて散り、黄巢は全軍を率いて淮を渡った。所過で住民をむやみに殺さず、主に丁壮を取り込んで兵力を増やした。目的は長安攻略にあった。

十月・振武人事変更と黄巢の中原侵入

  • 先に諸葛爽を振武節度使にしていたが、旧任の呉師泰が朝廷の混乱に乗じて軍民に留任表を出させたため、十月、再び呉師泰を振武に戻し、諸葛爽を夏綏節度使に転じた。
  • 黄巢は申州を落とし、さらに潁州・宋州・徐州・兗州の境へ入った。

群盗の灃州陥落と皇甫鎮

  • 群盗が灃州を落とし、刺史李詢と判官皇甫鎮を殺した。
  • 皇甫鎮は進士試験に二十三度挑んで及第できなかったが、李詢に見出されて幕下に入っていた。城が落ちた際、李詢が捕えられたと聞くと、恩義を受けた君を捨ててどこへ行けようかと言って引き返し、ともに死んだ。
  • 胡注は、知己のために死んだ皇甫鎮の行いを称え、科挙だけでは人材のすべてを測れないと結ぶ。