資治通鑑唐紀六十八 懿宗 咸通 十一年 750年

春正月 南詔軍の接近と成都防衛の立て直し

  • 春正月、群臣は懿宗に長大な尊号を奉り、大赦が行われた。
  • 西川では南詔の来襲が近いと知れ渡り、民衆は成都に殺到した。しかし成都の防備はきわめて脆弱で、外郭も壕も乏しく、飲み水さえ不足していた。人々は雨をしのぐ場所にも困り、摩訶池の濁り水を沈殿させて飲むありさまだった。
  • 節度使の盧耽は、彭州刺史の呉行魯を参謀役として呼び、前瀘州刺史の楊慶復とともに守備を整えさせた。戦棚・投石具・檑木などを備え、警邏を厳重にし、将校の任務を明確にした。
  • 西川軍には名ばかりの兵が多く俸給もなかったため、勇士を実任に補して厚く待遇した。応募者は多数集まり、楊慶復は彼らを鼓舞して選抜し、精兵三千を「突将」と名づけた。呉行魯は彭州の人である。

南詔との交渉と康承訓の失脚

  • 戊午、南詔軍が眉州に到着すると、盧耽は王偃らを派遣して、南詔の実力者杜元忠と講和を試みた。
  • 南詔側は、行動の方針は唐朝の宰相路巖・韋保衡の態度次第だと答えた。
  • 同じころ、路巖と韋保衡は、徐州の乱を討った康承訓がぐずぐずして進まず、残党掃討も徹底せず、戦利品の報告も遅らせたと非難した。
  • 辛酉、康承訓は蜀王傅・東都分司に左遷され、まもなくさらに恩州司馬へ落とされた。

成都包囲へ

  • 南詔軍は新津へ進出した。盧耽は譚奉祀に杜元忠への書を持たせて来意を問わせたが、南詔は譚奉祀を留めて返さなかった。
  • 盧耽は朝廷に急を告げ、暫定的にでも講和して危機をしのぐため、正式の和睦使派遣を求めた。
  • 朝廷は四方館を管掌していた太僕卿の支詳を、宣諭通和使として派遣した。
  • 南詔は、盧耽の礼遇が丁重だったため、しばらく談判を引き延ばした。その間に成都の守備はどうにか形を整えた。

成都城下への進出

  • 甲子、南詔軍は北上して双流を落とした。盧耽は柳槃を派遣して相手方と会見させたが、杜元忠から渡された文書は、和睦後に南詔王が西川節度府と会見するための儀礼を示したもので、南詔王をほとんど天子同然に扱う傲慢な内容だった。
  • さらに南詔側は、蜀王の旧庁舎を南詔王の宿所にすると称して彩幕まで運び込んだ。
  • 癸酉、朝廷は定辺軍を廃し、その七州を西川に戻した。
  • この日、南詔軍は成都城下に到着した。前日、盧耽は王晝を漢州へ派遣して援軍の様子を探らせ、到着を急がせた。
  • この時、興元・鳳翔の兵はすでに漢州に来ていたが、竇滂が定辺軍を失った責任を分散したい思惑から、援軍諸将に「賊は官軍の数十倍で、遠来の兵は疲れている。軽々しく前進すべきではない」と説いたため、諸軍は疑心暗鬼となって進まなかった。
  • 成都では十将の李自孝がひそかに南詔と通じ、東倉に放火して内応しようとしたが、事前に発覚して処刑された。
  • 数日後、南詔が攻城してきたが、城内に呼応する者がいなかったため、ひとまず攻撃を止めた。

二月 成都攻防戦

  • 二月癸未朔、南詔軍は梯子や衝車を揃えて四方から成都を攻めた。城上の守兵は鉤で攻城具を引き寄せ、油と火で焼き払い、多くの攻撃兵を倒した。
  • 盧耽は楊慶復と李驤に突将を率いさせて出撃させ、南詔軍二千余を殺傷し、夕暮れには攻城具三千余を焼いて帰還した。
  • 突将は楊慶復に抜擢され厚遇されていたため士気が高く、出撃できなかった者さえ奮戦を求めた。
  • 数日後、南詔軍は民家の垣根を濡らして重ね、舟の覆いのような防火覆いを作ってその下から城壁を掘ろうとした。矢石も火も効かなかったため、楊慶復は溶かした鉄を浴びせてこれを撃退した。

和睦交渉と援軍到着

  • 乙酉、支詳は南詔に和睦を申し入れた。丁亥、南詔は一度兵を収めて和議を請い、戊子には支詳を迎える使者を送った。
  • しかし顔慶復は、援軍が近づいているのを見て、唐の使者は本来定辺で講和するよう命じられて来たのであり、成都を囲んでいる今の状況では話が違う、まず包囲を解くべきだと言った。
  • 南詔は和使が来ないのを見ると、庚寅に再び攻城したが、辛卯に城内の兵が出撃すると退いた。
  • これ以前、韋皋が南詔を味方につけて吐蕃を破った際、南詔側の要請で甲冑や弩の製造法を唐の工匠が教えていた。そのため今では南詔の武器は精良になっていた。さらに東蛮の諸部族も唐の辺境官吏への恨みから南詔に心服し、唐への侵攻で主力を担っていた。

援軍の反攻と南詔退却

  • 朝廷は竇滂を康州司戸に左遷し、顔慶復を東川節度使として、蜀救援の諸軍を統轄させた。
  • 癸巳、顔慶復は新都に到着した。甲午、これを迎え撃った南詔軍を大破し、二千余を斬った。蜀の民数千も草刈り刀や棒を手に官軍を助け、野を揺るがすほどの声援を送った。
  • 乙未、南詔は歩騎数万で再戦したが、ちょうど宋威が忠武軍二千を率いて到着し、官軍は大勝して五千余を討ち、敵は星宿山へ退いた。宋威は沱江駅まで進軍し、成都まで三十里の地点に迫った。
  • 南詔は楊定保を支詳のもとへ送り講和を請ったが、支詳は包囲解除を求めた。南詔は包囲を続けたまま和議を求めたため、成都城内では、敵がたびたび講和を申し出るのは援軍が優勢だからだと察した。
  • 戊戌、南詔は再度講和を申し入れ、使者は十度も往復した。城中も態度を曖昧にして時間を稼いだ。
  • 庚子、官軍は成都城下に到達し、南詔軍と戦って升遷橋を奪回した。
  • その夜、南詔軍は自ら攻城具を焼いて逃走し、官軍は夜明けになってようやく敵の退却に気づいた。

退却追撃の失機と成都防備の強化

  • もともと朝廷は顔慶復を主将、宋威を後詰としていたが、宋威が先に到着して功を立てたため、顔慶復はこれを妬んだ。
  • 宋威は兵に食事を与えて追撃しようとし、城中の守兵も北方からの援軍と協力して進撃したがっていたが、顔慶復は牒文で宋威軍を差し止め、漢州へ帰らせた。
  • 南詔軍は双流へ退き、新穿水で橋を造るのに手間取り、三日かかってようやく渡河し、橋を切って去った。多くの武器や物資を道に捨てて逃げたため、蜀人は追撃を許さなかったことを深く残念がった。
  • 黎州刺史の厳師本は散兵を集めて邛州を守り、南詔は二日攻めても落とせず撤退した。
  • 顔慶復はその後、成都の外門を防ぐ壅門、壕、水堀、鹿角、営舖などを整えさせ、以後、南詔は成都を再び犯そうとしなくなった。

功労者への官授と腐敗

  • これまで西川の牙将には職だけあって正式官位のない者が多かったが、南詔撃退の功で四人が監察御史に任ぜられた。
  • ところがその官職の文書を受けるには「堂例銭」三百緡を納めねばならず、貧しい者には大きな苦しみとなった。朝廷の秩序がすでに大きく崩れていたことを示している。

三月以後の朝政と地方問題

  • 三月、宰相の曹確は鎮海節度使として外任に出され、四月には翰林学士韋保衡が同平章事に任ぜられた。
  • 徐州の残党はなお兗・鄆・青・斉の間で群盗化していたため、朝廷は徐州観察使の夏侯瞳に招諭を命じた。
  • 五月、邛州刺史の呉行魯は西川留後に任ぜられた。
  • 光州では民衆が刺史李弱翁を追放した。これに対し楊堪らは、刺史に罪があっても朝廷に訴えるべきであり、民衆が勝手に追放する風潮は上下の秩序を壊すので厳罰にすべきだと上奏した。
  • そこで朝廷は徐州統治のあり方を百官に議させた。
  • 六月、李膠らは、徐州を完全に解体すれば兵糧や民心の面でかえって問題が大きいとし、泗州だけを淮南に移して徐州は徐・濠・宿三州を統轄する観察使のままとする案を出し、採用された。
  • 幽州節度使張允伸には侍中が加えられた。

八月 同昌公主の死と劉瞻排斥

  • 八月乙未、同昌公主が薨去した。懿宗は深く悲しみ、翰林医官の韓宗劭ら二十余人を殺し、その親族三百余人まで京兆府の獄に繋いだ。
  • 宰相の劉瞻は諫官に諫言を促したが、誰も口を開かなかったため、自ら上奏した。人の寿命は定められたもので、医官たちも治療に全力を尽くしたのであり、失敗したからといって老幼三百余人まで連座させるのは、道理を知る天子にふさわしくないと訴え、囚人の釈放を求めた。
  • 懿宗はこれを不快とし、劉瞻が京兆尹温璋とともに面前で強く諫めると、激怒して二人を叱り退けた。

魏博の内乱

  • 魏博節度使何全皥は若くして驕暴で、殺戮を好み、将士の衣糧まで削ったため、軍中に反乱が起きた。
  • 何全皥は単騎で逃げたが追って殺され、軍は大将韓君雄を留後に推戴した。成徳節度使王景崇がその旌節授与を朝廷に求めた。
  • 九月庚戌、韓君雄は正式に魏博留後となった。

九月 劉瞻一派の失脚

  • 九月丙辰、劉瞻は荊南節度使に出され、温璋は振州司馬に左遷された。温璋は「時に遭わぬだけだ。死は惜しくない」と言って、その夜に毒を飲んで死んだ。
  • 朝廷は、温璋は悪事が極まって死んだのだとする冷酷な勅を出し、三日間は城外に仮埋葬し、恩赦があるまで帰葬を許さぬとした。
  • 続いて高湘・楊知至・魏簹らも嶺南に左遷された。皆、劉瞻と親しかったため韋保衡に排斥されたのである。
  • 路巖と韋保衡はさらに、劉瞻が医官と共謀して誤って毒薬を投じたとまで讒言した。
  • 丙子、劉瞻は康州刺史にさらに左遷された。
  • 翰林学士承旨の鄭畋は、劉瞻罷免の制書に、数畝の宅地さえ自分のものとせず、四方からの賄賂も人に知られるのを恐れて受けなかった、とその清廉をにじませる文句を書いたため、路巖の怒りを買って梧州刺史に貶された。
  • 御史中丞孫瑝も、劉瞻に引き立てられていたとして汀州刺史に左遷された。
  • 路巖はなお満足せず、十道図を見て康州よりさらに遠い驩州を選び、劉瞻を驩州司戸に再び落とした。

冬 人事

  • 十月癸卯、呉行魯は西川節度使に任ぜられた。
  • 十一月辛亥、王鐸が同平章事となった。王起の兄の子である。
  • 丁卯、徐州は再び感化軍節度使となった。
  • 十二月、成徳節度使王景崇に同平章事が加えられ、左金吾上将軍李国昌が振武節度使に任ぜられた。