資治通鑑唐紀六十七 懿宗昭聖恭惠孝皇帝 咸通十年 749年
春正月 柳子に大軍集結
- 康承訓は諸道の兵七万余を率いて柳子の西に駐屯し、新興から鹿塘まで三十里にわたり砦を連ねた。徐州側は兵を四方に分散していたため、城内兵は数千に満たず、龐勛はようやく危機感を抱いた。
- 民衆の多くは穴を掘って潜んでいたが、龐勛はこれを掘り出して兵にしようとした。しかし一日に二、三十人ほどしか得られなかった。
孟敬文の誅殺
- 豊県を守る孟敬文は強悍で兵も多く、龐勛に二心を抱いていたうえ、自らの符命を作るなどしていた。
- 魏博軍が豊を攻めると、龐勛は腹心の将に兵三千を率いさせて救援に向かわせた。孟敬文は新参兵を前鋒に立てながら、自分は退いてしまい、その結果、新兵は全滅した。
- 龐勛は王弘立が淮南を平定したので徐州の留後を選ぶと偽って孟敬文を呼び寄せ、城外で伏兵に捕らえて辛酉に殺した。
同昌公主の降嫁
- 丁卯、同昌公主が韋保衡に降嫁し、韋保衡は起居郎・駙馬都尉に任じられた。
- 公主は郭淑妃の娘で、皇帝にことさら寵愛されていたため、宮中の珍宝を傾けるほどの豪奢な嫁入りとなった。邸宅の窓や戸、井戸の欄、薬臼や箱までも金銀・雑宝で飾られ、下賜金は五百万緡に及んだ。
海州・寿州方面での反乱軍敗北
- 徐州賊が海州を攻めたが、海州に駐屯していた諸道兵は橋を細工し、伏兵を置いて待ち構えた。賊が渡ると橋が崩れ、賊は大混乱のうちに多くが討たれた。
- 寿州を攻めていた別働隊も、南道軍に敗れて数千の首級を失った。
辛讜の兵糧搬入
- 辛讜は浙西軍とともに楚州へ至り、勅使の張存誠から船の支援を得たが、賊が淮流を鎖で遮断し、水陸に兵を布いていたため、浙西軍は恐れて進めなかった。
- 辛讜は自ら前鋒を願い出て、米船三艘と塩船一艘で強行突破した。両岸から矢を浴び、鎖の地点では斧で鎖を断ち切って城内へ入った。城上の人々は歓声をあげ、杜慆以下は涙して迎えた。
- 乙酉にはさらに大きな船団が東から見えたが、火船を見て止まっていたため、辛讜は決死隊で迎えに出て、賊陣を衝き抜け、張存誠らに「敵は多くない」と鼓舞して入城させた。
二月 楊収の失脚
- 端州司馬に左遷されていた楊収は、さらに驩州への長流となり、まもなく死を賜った。部下や親しい者も十余人が嶺南へ流された。
- かつて裴坦の子が楊収の娘を娶った際、持参品が犀玉で豪華に飾られているのを見た裴坦は「我が家を滅ぼす」と怒り、ただちに壊させたという。楊収は結局、賄賂で身を滅ぼした。
朱邪赤心の奮戦
- 康承訓は朱邪赤心に沙陀騎兵三千を率いさせて前鋒とした。十鎮の兵はいずれもその驍勇を恐れた。
- あるとき康承訓が麾下千人を率いて渙水を渡ったところ、賊の伏兵に囲まれた。朱邪赤心は五百騎で猛然と突入し、康承訓を救出したうえ、賊軍を撃ち破った。
鹿塘の大勝
- 康承訓が賊と幾度も戦ってたびたび勝つなか、王弘立は淮口での勝利を誇って、自分の三万人だけで官軍を破ってみせると請い、許可された。
- 己亥、王弘立は濉水を渡り、夜明けに鹿塘寨を急襲して包囲した。だが沙陀騎兵は左右から飛ぶように出入りし、賊は混乱した。
- そこへ寨中の諸軍も打って出て、官軍は賊を濉水まで追い詰めた。溺死者は数知れず、鹿塘から襄城まで五十里にわたり死体が横たわり、斬首二万余級という大勝となった。王弘立だけは単騎で逃れた。
- 賊に連行されていた民は散って山谷に逃げ帰り、以後、官軍と出会うたびに先に崩れるようになった。朝廷が「農民を得ても釈放せよ」と命じていたためである。
- 許佶は王弘立の驕慢が敗因だとして斬罪を求めたが、周重が、功を無視して一敗のみを咎めれば諸将が恐れるとして弁護し、龐勛は赦して泗州攻略を命じた。
三月 韋保衡の昇進と柳子包囲
- 辛未、韋保衡は左諫議大夫・翰林学士に任じられた。
- また郢王侃を威王に移封した。
- 康承訓は王弘立に勝ったのち、柳子へ進んで姚周と一か月のあいだ数十戦を重ねた。丁亥、姚周が水を渡って退こうとしたところを官軍が急撃し、そのまま柳子を包囲した。
- 大風に乗じて四方から火を放つと、賊は寨を棄てて走った。沙陀騎兵がこれを邀撃し、柳子から芳城にいたるまで屍が折り重なるほど討ち取った。劉豊は斬られ、姚周もわずかな手勢で宿州に逃げたが、宿州守将の梁丕に捕らえられて殺された。
四月 徐州側の追い詰められた決断
- 柳子の敗報に接した龐勛は大いに恐れ、許佶とともに自ら出戦しようとした。
- 周重は、姚周のような要将を失った今や危うさは累卵のようだとし、ここは大号を建てて総力決戦に出るべきだと勧めた。術士の曹君長も、徐州の山川は二人の帥を容れず、崔彦曾が生きている限り龐勛は興らないと説いた。
- そこで壬辰、龐勛はついに崔彦曾、監軍張道謹、宣慰使仇大夫、焦璐、温廷皓以下、その親族・賓客・僕妾にいたるまで皆殺しにした。さらに郭厚本・李湘の手足を切って康承訓の陣前に示した。
- 龐勛は、もとは朝恩を望んで臣節を全うしようとしたが、もはやその道は絶えた、ここからは本当の反逆者として戦うのだと公言し、城中の男子を球場に集めて強制徴兵を行った。家に男を隠した者は一族ごと罰するとし、三万人の壮丁を得て、旗幟を作り直し精兵を与えた。
- 許佶らは龐勛を「天冊将軍大会明王」に推戴しようとしたが、龐勛は王号だけは辞退した。
辛讜、再び兵糧を搬入
- 先に辛讜はまた泗州から出て、揚州・潤州で兵糧を調え、塩米二万石と銭一万三千緡を載せて戻っていた。
- 乙未、斗山に至ると、王弘芝が一万余で盱眙に拠り、戦艦百五十艘で淮流を塞ぎ、火船も放って阻んだ。
- 辛讜は長い叉で火船を押し返し、卯から未まで戦った。敵の戦艦には脇に張り出した戦棚があって矢刀が届かなかったため、小舟の勇士を潜り込ませ、槍で火牛を差し掛けて焼いた。これにより賊軍は潰走し、兵糧はついに城内へ入った。
龐勛の豊県出撃と魏博軍敗走
- 龐勛は父の龐挙直を大司馬とし、許佶らとともに徐州守備を任せた。父子の序列を整えるため、父にあえて朝礼を取らせ、自分は案にすわってこれを受けた。
- 魏博軍が豊県をたびたび囲んでいたため、丙申、龐勛は自ら出撃した。夜陰に乗じて豊県に入り込み、気づかぬ魏博軍近寨の数千を包囲した。
- 諸寨の救援部隊には要路に伏兵を置いて襲い、二千人を殺した。夜になると包囲を解いたが、官軍側は龐勛自ら来たと聞いて恐れ、各寨は夜中に潰走した。曹翔も滕県包囲を解いて兗州に退いた。龐勛はその城柵・資糧をことごとく破壊・鹵獲した。
泗州解囲
- 馬挙は精兵三万を率いて泗州救援に向かった。乙巳、軍を三道に分けて淮を渡り、中流で大いに鬨の声をあげたため、賊は兵数を測れず驚き、城西の寨に集まった。
- 馬挙はすぐこれを囲み、火を放って柵を焼いた。賊は大敗し、数千の首級を失い、王弘立も戦死した。吴迴は徐城へ退いた。
- こうして、前年九月末以来およそ七か月続いた泗州の包囲はようやく解けた。守兵は眠れぬ日々で顔中に瘡ができるほどだった。
柳子決戦と龐勛の惨敗
- 豊県に数日とどまった龐勛は、西へ進んで康承訓を攻めるか、いったん兵糧を蓄えてからにするかで迷った。父の龐挙直の書もあって、ついに進軍を決意した。
- 丁未に豊県を出、庚戌に蕭へ至り、襄城・留武・小睢などの諸寨兵を合わせて五、六万人とし、二十九日未明に柳子を攻める計画を立てた。
- しかし、淮南敗卒が官軍に走ってこの計画を密告したため、康承訓は先に備えを整え、馬を飼い、伏兵を設けて待った。
- 丙辰、諸寨兵が先に到着して伏兵に敗れ、龐勛本隊も約束の時を失して三十里外から急行したが、すでに諸寨は崩れていた。龐勛の兵は市井の寄せ集めが多く、官軍の勢いを見ると戦わずして潰走した。
- 官軍は前後から挟撃し、賊は互いに踏みつけ合って逃げ惑い、数十里にわたって屍が続いた。死者は数万人に達し、龐勛は甲を脱いで粗布の短衣に身を変え、わずか三千ばかりを集めて彭城へ逃げ帰った。
五月 下邳・陝州・濠州方面
- 龐勛が蜂起した当初から下邳の土豪・鄭鎰は兵三千を集めて加わっていたが、五月、沂州軍に下邳を囲まれると、龐勛が救援を命じたにもかかわらず、鄭鎰はその兵を率いて降った。
- 六月、陝州では民が観察使の崔蕘を追放した。旱害を訴える民に対し、庭の木に葉があることを理由に旱ではないと言い張って杖打ちしたため、怒りを買ったのである。逃亡先で水を求めると、民は尿を飲ませた。崔蕘は昭州司馬に左遷された。
- 中書侍郎同平章事の徐商は同平章事のまま荊南節度使に出され、癸卯には翰林学士承旨・戸部侍郎の劉瞻が同平章事となった。
- 馬挙は泗州から転じて濠州を攻め、招義・鍾離・定遠を抜いた。城外に寨を築いていた劉行及を軽騎で挑発して誘い出し、本隊で東南から襲ってその寨を焼いた。
- 劉行及は城に籠もったため、馬挙は三方を塹壕で囲んだ。ただし北面は淮に臨み、まだ徐州との連絡が保たれていた。龐勛が吳迴を援軍として北津に屯させると、馬挙は別将に淮を渡らせてその寨を破り、数千を斬った。
- 曹翔は兗州へ退いた際、魯橋に残していた滄州兵四千が命令に背いて勝手に帰ろうとしたため、城外で包囲し、違命者二千人を選んで皆殺しにし、軍紀を立てた。
- 朝廷は魏博軍敗戦を受け、将軍宋威を徐州西北面招討使に任じて三万を率いさせ、曹翔もこれに合流した。
七月 反乱軍の離反進行
- 康承訓は臨渙を攻め落として一万人を殺獲し、さらに襄城・留武・小睢などの寨を抜いた。曹翔も滕県を落とし、豊・沛へ進撃した。
- 各寨の賊兵は相次いで逃亡し、山林に潜んだ。賊の略奪隊が通ると逆に殺されるほどで、なかでも五八村の勢力が大きく、陳全裕を首領として数千人が集まり、広大な地域を固めて賊も近寄れなかった。康承訓が招くと、そのまま官軍に降った。
- 蘄県では地元豪族の李衮が賊将を殺して城ごと康承訓に降り、沛県でも守将の李直が彭城へ出ている隙に裨将の朱玫が城を挙げて曹翔に降った。李直が戻ると朱玫はこれを撃退し、官軍が入って守った。
- 龐勛は孫章と許佶に陳全裕・朱玫を攻めさせたが、いずれも勝てず引き返した。
- 康承訓は勢いに乗って第城まで進み、宿州西方に城を築いて押さえた。龐勛は憂悶し、神に祈り僧に食を施すばかりで、打つ手を失った。
宿州攻略と龐勛の西走
- 梁丕は姚周を勝手に殺したことで龐勛の怒りを買い、罷免されていた。代わって徐州旧将の張玄稔が宿州を治め、張儒・張実らが城外に幾重もの寨を築き、水に囲って守っていた。
- 康承訓はこれを包囲したが、張実は夜ひそかに書を出し、宋・亳方面を掠めれば官軍は西へ引くので、その隙を前後から挟めると龐勛に進言した。
- そのころ曹翔の部将朱玫は豊を落とし、その勢いで徐城・下邳も抜いていた。龐勛は恐れていたところへ張実の策を得て、これに従うことにした。龐挙直と許佶に徐州を守らせ、自らは西へ出た。
- 八月壬子、康承訓は外寨を焼き、張儒らを羅城に追い込んだ。官軍は猛攻したが、死者数千を出しつつもなお抜けなかった。
九月 張玄稔の帰順と徐州平定
- 康承訓は城下で張玄稔に帰順を呼びかけた。張玄稔はもと辺境で功のあった将で、賊に従ってはいたが常に憂えていた。
- 玄稔は子城を守っていたが、夜に腹心の張皋を出して帰順を申し出、当日は青旗を立てて味方の目印としたいと願った。青は木徳の色で、生を示し、降兵を殺さぬ意味を持つとした。
- 丁巳、張儒らが柳渓亭で酒宴をしている隙を突き、玄稔は董厚らに兵を率いさせて襲わせ、自らも先陣して「龐勛はすでに僕射の寨で梟首された」と叫んだ。城内は大混乱したが、玄稔は帰国の意を説いて鎮めた。
- 戊午、宿州城は開門降伏した。玄稔は康承訓に肉袒膝行で謝罪し、康承訓はこれを慰労し、ただちに御史中丞の勅を宣して厚く賞した。
- 玄稔はさらに、城が落ちたと見せかけてそのまま符離・徐州へ進めば賊は疑わず、一挙に捕えられると献策した。承訓はこれを許し、宿州旧兵三万に数百騎を添え、十分な賞与を与えて送り出した。
- 己未の未明、玄稔は城中に火を放って陥落に見せかけ、そのまま符離へ急行し、守将を斬って兵一万を得た。さらに北上して辛酉に彭城を囲んだ。
- まず城上の人々に、朝廷が討つのは逆党だけで良民ではないと説いたため、守兵は次々に武器を捨てて降った。崔彦曾の旧吏・路審中が門を開き、官軍を迎え入れた。
- 龐挙直・許佶は子城に籠もったが、その日のうちに北門から逃げようとして追撃され、龐挙直と許佶は斬られた。桂州帰りの反乱兵の親族もことごとく捕えられ、数千人が斬られた。こうして徐州は平定された。
龐勛最期
- 龐勛は二万の兵で石山から西へ出て、通る先々を焼き払っていた。庚申、康承訓は徐州回復を知ると、歩騎八万を率いて追撃し、朱邪赤心に前鋒を任せた。
- 龐勛は宋州を襲って南城を落としたが、刺史鄭処沖が北城に備えていたため、それ以上は攻めずに去り、汴を南に渡って亳州を掠めた。
- 沙陀騎兵が追いつくと、龐勛は渙水に沿って東へ逃げ、彭城に帰ろうとしたが、追撃が急で食事をとる暇もなかった。蘄県で渡河しようとすると、すでに李衮が橋を壊して待ち受けていた。
- 県西で官軍が大集結して一斉に攻めかかり、賊は近万人が斬られ、残りも多くが溺死した。降ったのは千人ばかりで、龐勛もその中で死んだが、当初は誰の遺体かわからず、数日後にようやく確認された。
- 宿遷など各寨でも賊将が殺されて相次いで降伏し、宋威も蕭県を回復した。
十月 濠州平定と論功行賞
- 吳迴だけは濠州を守って降らなかったが、馬挙が夏から冬まで攻め続け、城中は食糧が尽きて人肉食に及んだ。官軍は深い塹壕と重囲で持久した。
- 辛丑の夜、吳迴は突囲して逃れようとしたが、馬挙の軍が追ってほとんどを殺し、吳迴も招義で死んだ。こうして乱は完全に平定された。
- 康承訓は河東節度使・同平章事となり、杜慆は義成節度使に抜擢された。
- 皇帝は朱邪赤心の功を嘉し、雲州に大同軍を設けて節度使とし、さらに入朝させて左金吾上将軍とし、「李国昌」の姓名を賜った。恩賞もきわめて厚かった。
- 辛讜は亳州刺史に任じられた。泗州で十二度も囲みを出入りして兵糧を運んだ功によるものであるが、辛讜自身はその成功は杜慆があってこそだと上表した。
- 和州刺史の崔雍には、賊を城内へ引き入れた罪で自尽が命じられ、家族は康州へ流され、兄弟五人も遠方に左遷された。
路巖政権への不満
- 皇帝は遊宴にふけって政務をみずから執らず、路巖に委ねていた。路巖は奢侈で賄賂にも通じ、近臣たちもまた権勢をふるった。
- 至徳県令の陳蟠叟が上書して召し出され、「辺咸という一人の家を破れば二年分の軍費が賄える」と述べると、皇帝がその者は誰かと問うた。陳蟠叟は「路巖の腹心の吏です」と答えた。
- 皇帝は怒って陳蟠叟を愛州へ流し、以後、直言する者はなくなった。
南詔との関係悪化
- 先に南詔から楊酋慶が来て、董成釈放への謝意を伝えたが、定辺節度使の李師望は功名を求めて南詔を怒らせようとし、楊酋慶を殺してしまった。
- 西川側の将兵は、李師望が四川の管轄を分裂させたことにも不満を持っており、ひそかに南詔に内通して侵攻を誘った。
- 李師望は財貨を百万単位で蓄え、兵士たちはその貪欲を憎み、生きながら食いたいとまで思った。彼は策を用いて難を逃れたが、朝廷は召還し、太府少卿の竇滂を後任にした。ところが竇滂はさらに貪残で、敵襲前から定辺軍はすでに疲弊していた。
十月以後 南詔の大侵攻
- この月、南詔王の酋龍は国を挙げて侵攻し、数万を率いて董舂烏部を攻め破った。
- 十一月、南詔軍は嶲州へ迫った。定辺都頭の安再栄は清溪関を守ったが、敵に攻められて大渡河の北へ退き、川を隔てて九日八夜も射戦した。
- 南詔軍はひそかに別働隊を雪坡越えで進め、沐源川へ突然出現した。竇滂は兗海軍の黄卓に五百を与えて防がせたが、全軍が覆滅した。
十二月 嘉州方面の崩壊
- 丁酉、南詔軍は兗海軍の衣服を着て敗残兵を装い、江岸で舟を呼んだ。渡り終えてから正体を現し、犍為を陥として、陵州・栄州方面を焼き払った。
- その数日後、南詔軍は陵雲寺に大集結し、嘉州と対岸で向かい合った。刺史の楊忞と定辺監軍の張允瓊が兵を率いて防いだが、敵は東津から奇兵を渡して挟撃し、忠武都将の顔慶師を殺して官軍を潰走させた。楊忞と張允瓊は逃げ、壬子に嘉州は陥落した。
- 竇滂は大渡河で和議を装う南詔側使者に応対している隙に、敵が筏と船で争って渡ってくるのを見て恐れ、自ら帳中で首を吊ろうとした。徐州将の苗全緒がこれを救い、安再栄・忠武軍の将とともに夜襲して敵を混乱させ、その間に全軍を退かせた。
- しかし竇滂は単騎で夜逃げし、南詔軍は黎州・雅州にも進んだ。住民は山谷に逃げ込み、敗兵は各地で焼き払いと掠奪をほしいままにした。滂が導江へ逃げるころには、邛州の軍資もすでに乱兵に奪われ、南詔軍は障害なく通行できる状態になっていた。