資治通鑑唐紀 懿宗昭聖恭惠孝皇帝上 咸通七年 七年 746年

二月・張義潮の西域回復報告

  • 二月、帰義節度使張義潮は、北庭回鶻の固俊が西州・北庭・輪台・清鎮などの城を奪回したと奏した。
  • 論恐熱は廓州に寓居して周辺諸部をまとめ、なお辺患となろうとしたが、どこからも支持されず、四方を敵に回していた。
  • その所在を知った拓跋懐光が鄯州から兵を出してこれを破り、生け捕りにした。

三月・西川節度使交替

  • 三月、河東節度使劉潼が西川節度使に任じられた。
  • 前年、南詔が嶲州を囲んだ際、東蛮の浪稽部は尽力してこれを助け、城陥落後は住民を虐殺した。
  • 一方、卑籠部は父兄を南詔に殺されたことを恨み、忠武軍の戍兵を案内して浪稽部を襲い、滅ぼした。
  • これにより南詔の唐に対する怨みはさらに深まった。

南詔使節事件

  • 南詔王酋龍は、清平官董成らを成都へ送り、節度使李福に会見を求めた。
  • 旧例では南詔使は節度使の前で庭に伏拝したが、董成らは、自国の驃信はすでに「応天順人」の君であるから、節度使とは対等礼で会うべきだと主張した。
  • 交渉は朝から日中まで決着せず、将士は憤激した。
  • 李福はついに董成らを引き倒して殴打し、獄に繋いだ。
  • その後に着任した劉潼は彼らを釈放し、送還を奏請した。
  • 朝廷はむしろ董成らを京師に召して別殿で会見し、厚く賜って帰した。

成徳の継承

  • 成徳節度使王紹懿は十年間在鎮し、政は寛簡で軍民に便とされた。
  • 病に臨んで兄王紹鼎の子で都知兵馬使の王景崇を呼び、自分は幼い彼に代わって軍政を預かっていたが、今は長じたので返すのだと告げ、朝廷に忠を尽くし、隣藩と和して家業を墜とすなと遺言して死んだ。

閏月・吐蕃の侵入

  • 閏月、吐蕃が邠寧を侵したが、節度使薛弘宗がこれを撃退した。

四月・李福左遷

  • 四月、南詔使に対する暴行の責任を問われ、李福は蘄王傅に左遷された。蘄王は順宗の子である。

五月・鄭太后葬送

  • 五月、孝明皇后鄭氏は景陵の側に葬られた。
  • 憲宗の元妃懿安郭后とは異なり、鄭氏は側室であったため、祔廟も別廟とされた。

六月・魏博と成徳の人事

  • 六月、魏博節度使何弘敬が死去し、軍中はその子何全皥を留後に立てた。
  • また王景崇は正式に成徳留後となった。

夏から秋・高駢の進撃と朝廷の誤解

  • 南詔王酋龍は、善闡節度使楊緝を段酋遷の援軍として交趾へ送り、范昵些を安南都統、趙諾眉を扶邪都統とし、監陳使韋仲宰も七千人を率いて峯州へ着いた。
  • 高駢はこれによって兵力を増し、南詔軍をたびたび破った。
  • しかし捷報が海門に届いても、監軍李維周はそれを数か月も握りつぶし、朝廷には何の報告も上げなかった。
  • 懿宗が不審に思って問いただすと、李維周は、高駢が峯州に留まり敵を侮って進まないと讒言した。
  • 懿宗は怒って、右武衛将軍王晏権を高駢の代わりとして安南へ送ることにし、高駢を召して重く処罰しようとした。
  • ところがその月、高駢は交趾近くで南詔軍を大破し、そのまま交趾城を包囲した。

七月・何全皥の承認

  • 七月、何全皥は正式に魏博留後と認められた。

十月・楊収失脚と吐蕃の終焉

  • 十月、楊収は宣歙観察使に出された。
  • 楊収は奢侈で、門吏や僮奴がその権勢を笠に着て利を貪り、さらに楊玄价兄弟の求める方鎮賄賂の仲介も十分に応じなかったため、楊玄价に恨まれ、排斥されたのである。
  • 同じ頃、拓跋懐光は五百騎で廓州に入り、論恐熱を生け捕りにした。まず足を切断し、その罪を数え上げて斬り、首を京師へ送った。
  • その配下は東へ秦州へ逃れたが、尚延心が邀撃して破り、皆を嶺南へ移した。
  • これ以後、吐蕃は衰え尽くし、乞離胡の君臣も行方知れずとなった。

高駢の撤退と再起

  • 高駢は交趾城を十余日包囲し、蛮軍は窮して城もまもなく落ちそうだった。
  • その時、王晏権が李維周とともに海門を発したという牒が届いたため、高駢は軍務を韋仲宰に託し、配下百余人だけを率いて北へ引き返した。
  • だがその前に、韋仲宰が派遣した王惠讃、高駢が派遣した曾衮が、交趾攻略成功の報告を携えて京師へ向かっていた。
  • 二人は海上で東から来る旌旗を見て新任の経略使と監軍の到来を知り、李維周に表文を奪われるのを恐れて島に隠れ、通過後ただちに京師へ急行した。
  • 懿宗はその奏を見て大いに喜び、ただちに高駢に検校工部尚書を加え、再び安南を鎮めさせた。
  • 高駢が海門まで戻る間、王晏権は暗愚で何事も李維周の指図を仰ぎ、李維周もまた貪欲で将士の信望がなかったため、包囲は解かれ、蛮軍の多くが逃げ去った。
  • 高駢が復帰すると、再び将士を督励して交趾城を攻め、ついにこれを陥とした。
  • 段酋遷、ならびに南詔の先導となっていた上蛮の朱道古を斬り、首級は三万余にのぼった。
  • さらに南詔に附いた土蛮二洞を破って酋長を誅し、土蛮一万七千人が帰附した。

十一月・安南平定と静海軍設置

  • 十一月、天下に赦が下された。
  • 朝廷は、安南・邕州・西川の諸軍に対して国境を守るにとどめ、もはや南詔へ深入りして攻め込まぬよう命じた。
  • 劉潼には、もし南詔が旧好を改めて結び直すなら過去の罪は問わぬと諭すよう命じた。
  • 安南には静海軍が置かれ、高駢が節度使となった。以後、安南は静海軍節度の地として続いていくことになる。
  • 李涿が群蛮を侵擾して以来、安南の患はほぼ十年続いたが、この時ようやく一段落した。
  • 高駢は安南城を周三千歩に築き直し、屋舎四十余万間を造営した。

十二月・黠戛斯来朝

  • 黠戛斯は将軍乙支連幾を遣わして入貢し、冊立使を迎えるため鞍馬の派遣と、翌亥年の暦の下賜を求めた。
  • 成徳留後王景崇は正式に節度使となった。

懿宗の奢縦

  • 懿宗は音楽と遊宴を好み、殿前で奉仕する楽工は常時ほぼ五百人に達した。
  • 毎月の宴会は十回を下らず、水陸の珍味を備え、音楽と伎芸を見て飽くことがなかった。
  • 曲江・昆明池・灞滻・南宮・北苑・昭応・咸陽など、行幸したい場所があれば準備を待たず即日出発し、役所は常に音楽・飲食・帳幕を用意しておかなければならなかった。
  • 諸王は馬を立てて供奉し、内外諸司の扈従者は一度に十余万人にも及び、その費用は数えきれなかった。